運命の章 9話
中庭から屋敷へと戻る阿久刀を支える東雲の足取りは、震えていた。師の額から流れる血が、東雲が巻いた布を赤く染め上げている。月光の下で見るその色は、黒く、重く、東雲の心を圧迫した。
「お師匠様……大丈夫ですか……」
東雲の声は掠れている。自分の手で師を斬った。命じられたとはいえ、その事実が東雲の胸を締め付けて離さない。
「心配するな」
阿久刀の声は穏やかであった。しかしその穏やかさが、かえって東雲を不安にさせる。本当に大丈夫なのか。失血で倒れはしないか。東雲は阿久刀の身体を支えながら、一歩一歩、慎重に屋敷へと向かった。
屋敷の明かりが見える。そこに人影が動いた。
「お、親父どのおー!」
轟くような大声が夜の静寂を破った。屋敷の門から飛び出してきたのは、筋骨隆々とした偉丈夫の女、鶴罪である。その巨体が月光を受けて、まるで山が動いているかのように見えた。
鶴罪は駆け寄ると、阿久刀の姿を目にして絶句した。顔面が蒼白になる。
「な、なんてこった……親父どの、その頭は……!」
鶴罪の声には、動揺と恐怖が混じっていた。鶴罪は明保能家に仕える奉公人である。文字通り鶴を殺した罪で生来の名前を剥奪され、今は鶴罪という呼び名で暁家に仕えている。かつて不治の病にかかった家族を救うため、十三諸名家の一つ、諏訪家の御遣様である鶴の霊獣・鈴天を殺害した過去を持つ。その罪の重さを、鶴罪は誰よりも理解している。だからこそ、阿久刀の額の傷を見て、最悪の事態を想像したのだ。
「医者を! 早く医者を呼ばねば!」
鶴罪は叫ぶように言った。
「お、おう! 医者だな! すぐに連れてきてやる!」
自分の言葉に自分で答えるように、鶴罪は屋敷を飛び出した。その巨体が夜闇に消えていく。
入れ替わるように、清子が姿を現した。
上品な風貌の老婦人である清子は、医療道具を抱えて小走りで阿久刀に寄り添う。その動きには一切の無駄がなく、長年の経験が滲み出ていた。
「応急手当は私が致します」
清子の声は落ち着いていた。まるで日常の出来事のように、淡々としている。清子は明保能宗家に仕える氷家の縁者である。実際は二十歳前後の傾国の美貌を備えた美女だが、昼間は老婆の姿をしている。今は夜であるが、咒によって老婆の姿を保っているのだ。
清子は多少なりとも医術を身に付けていた。戦場で負傷した武士を手当てした経験もある。額の刀傷を見ても、清子は表情一つ変えなかった。
「こちらへ」
清子の案内で、阿久刀は屋敷の奥の部屋に通された。東雲も付き添う。清子は素早く道具を並べると、阿久刀の額に巻かれた布を外した。
血が滲み出る。傷口は思ったよりも深い。あと数ミリずれていれば、致命傷であった。清子は眉一つ動かさず、酒で傷口を消毒し始める。
「うぐ!」
阿久刀が呻いた。傷口に染みる痛みが走る。
「我慢して下さいませ。出血を止めないといけませんから」
清子は針を火で炙り、糸を通してから傷口を縫い始めた。その手つきは正確で、躊躇がない。一針、二針、三針。着実に傷口が閉じられていく。
東雲は、その光景を息を詰めて見守っていた。師の額を自分が斬ったのだ。その罪の意識が、東雲の心を重くする。しかし同時に、東雲は知っていた。あれは必要なことだったのだと。師を救うためには、あれしかなかったのだと。
それでも、東雲の心は揺れ続けていた。
清子が手当てを終えると、阿久刀の額には白い布が巻かれていた。血が滲むこともなく、完璧な処置である。
「これで大丈夫です。ただし、数日は安静になさってください」
清子は道具を片付けながら言った。そして、ハラハラと見守っていた東雲に目を向ける。その視線は鋭く、東雲の心を射抜くようであった。
「ところで」
清子は静かに問うた。
「これはお家騒動と考えてよろしいのですか?」
東雲の顔が凍りついた。
「え!?」
「当主を亡き者にしてお家を乗っ取る算段だったのかと聞いております」
清子の声は穏やかであったが、その言葉には鋭い刃が潜んでいた。東雲は慌てて否定する。
「ち、ちがいます! ちがいます! 誤解です!」
東雲は必死に両手を振った。清子の疑いを晴らさなければ、自分は処刑される。いや、それ以前に、そのような疑いをかけられること自体が耐え難い。
「お師匠様を殺そうなどと……そんなこと、絶対に……!」
東雲の声は震えていた。涙が滲む。それは悔しさからなのか、悲しさからなのか、東雲自身にも分からない。
そのとき、部屋の隅から少年の声が聞こえた。
「しのねーちゃん。やっちまったなぁ…」
悲しそうな顔をして近づいてきたのは、奉公人の少年、爛漫である。顔にバッテンの傷跡がある少年は、元大盗賊団の首領の息子だった。討伐作戦で盗賊団が壊滅し、唯一の生き残りとなったのが爛漫だ。ある名家の娘が母親ということで、阿久刀が預かっている。
爛漫は東雲の背後に回ると、そっとその尻に手を伸ばした。
そして、撫でた。
間髪入れずに、ヒュッという風切り音が響いた。
「ぐえ!」
東雲の肘打ちが、爛漫のみぞおちを正確にえぐった。爛漫は呻き声を上げて床に崩れ落ちる。身体を丸めて苦しんでいる。
怪我人が増えた。
「お尻をさわるなっ」
東雲の声は怒りに満ちていた。顔は真っ赤だ。爛漫は床でのたうち回りながら、しかし顔には笑みを浮かべている。
「馬鹿ですねぇ」
東雲と清子は、苦しむ爛漫を軽蔑の眼差しで見下ろした。清子は溜息をついて首を横に振る。
「まったく。この緊張感のない……」
しかし阿久刀は、そんな二人のやり取りを見て、小さく笑った。痛みで顔をしかめながらも、笑っている。
「東雲に責任はない」
阿久刀の言葉に、部屋の空気が変わった。東雲は顔を上げる。
「俺が不甲斐ないばかりにこうなった」
「お師匠様!」
東雲は阿久刀に駆け寄った。
「そんなことよりすぐにお休みください!」
東雲は阿久刀に肩を貸そうとする。しかし阿久刀は首を横に振った。
「白い髪の子と会う」
「医者にかかるのが先です!」
東雲は必死に止めようとする。しかし阿久刀の決意は固かった。
「駄目だ。今すぐ会う」
身体は重いが、歩けないわけではない。東雲に支えられて、阿久刀は少女に会うため部屋に向かう。その足取りは、しっかりとしていた。
廊下を歩く阿久刀の後ろ姿を、清子は静かに見送った。そして小さく呟く。
「……あの方は、何かを感じておられる」
清子の目には、憂いの色が浮かんでいた。
白亜色の髪の少女が眠る部屋の前に、阿久刀は立ち止まった。
「東雲。ありがとう。もういい」
東雲が離れると、阿久刀は姿勢を正した。額の痛みは相変わらず激しいが、それを表には出さない。阿久刀は碧天に囁く。
「どうだ?」
『起きている』
碧天の声が、阿久刀の心に直接響く。阿久刀は頷いた。
「そうか。……失礼します」
阿久刀は障子を開けた。
部屋の中には、白亜色の髪を流した少女が上半身を起こして座っていた。その髪は淡い光を帯びており、まるで月光そのものが凝縮されたかのようである。少女の姿は神性を感じさせ、阿久刀は思わず息を呑んだ。
「お目覚めになれたこと、お喜び申し上げます」
阿久刀は丁寧に言葉を選んだ。
「私は明保能の分家、暁家の当主、明保能阿久刀でございます」
少女は阿久刀を見つめた。その瞳は、深い海のように澄んでいる。そして、静かに口を開いた。
「あははくです」
その言葉を聞いて、阿久刀の背筋に冷たいものが走った。
「…(吾…?)」
阿久刀は理解した。この少女は、ただの少女ではない。阿久刀は片ひざをついて頭を下げた。
「拝謁すること、光栄の至りに存じます。白帝聖上」
その言葉が発せられた瞬間、阿久刀の背後に控えていた者達が、一斉に平伏した。東雲、清子、そして爛漫。皆、床に額をつけている。
「(神尊様でしたか………)」
清子は淡々と理解していた。冷静な判断力で知られる清子は、動揺を表には出さない。しかしその心中には、驚愕と畏敬が渦巻いている。
「(聖上…え?……聖上……?………………せいじょう…………??)」
東雲は混乱していた。頭が真っ白になる。聖上。それは帝を意味する言葉だ。神を宿す現人神。この少女が、あの白帝なのか。
「うそだろー!?」
爛漫はあらんかぎりの大声をあげた。その声は部屋中に響き渡る。清子が鋭い視線で爛漫を睨むと、爛漫は慌てて口を塞いだ。
「……郎党の非礼。どうかお許しを」
阿久刀は頭を下げたまま、詫びの言葉を述べた。白帝は何も言わない。ただ静かに、阿久刀を見つめている。
「あのことはへきてんさまからきいたのですか?」
白帝の問いかけに、碧天は姿を現した。純白で輝きを帯びた毛並みの巨大な狼が、白帝のそばに寄る。白帝は両手を伸ばし、碧天の顔に触れた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
「(………証明されたな。真に聖上だ)」
阿久刀は心の中で呟いた。碧天は、阿久刀以外の人間が触れることを決して許さない。たとえ女子供であろうと、みだりに触れるものなら容赦なく食い殺す。例外は、己と同様の神の存在だけだ。
目の前の少女は今、それを証明した。人ではなく、現神なのだ。
「ぎょくてんがあいたがっています」
白帝の言葉に、碧天は短く答えた。
『捨ておけ』
碧天の声には、興味のなさが滲んでいる。玉天という名の御遣様のことなど、どうでもよいというように。
白帝は阿久刀を見つめた。その視線は穏やかであり、同時に峻厳でもある。
「けいにはなんぎをかけました」
「恐れ多いことです」
阿久刀は頭を下げたまま答える。白帝は続けた。
「あてぃやはどうしていますか?」
「別室におります」
「あんどしました」
白帝は安堵したように、小さく息を吐いた。一切無表情ではあるが、その仕草には人間らしさが垣間見える。そして同時に、悠然としている。婀娜婀娜しい。阿久刀は白帝に見つめられて、その神性の重さを感じた。
「皆、部屋を出ろ」
白帝の言葉に、阿久刀以外の全員が頭を下げて部屋を出た。東雲は何度も振り返りながら、心配そうに阿久刀を見ている。しかし阿久刀は東雲に目配せして、大丈夫だと伝えた。
部屋に残ったのは、阿久刀と白帝、そして碧天だけである。
「けいにたのみたいことがあります」
白帝は静かに言った。
「なんなりと」
阿久刀は即座に答える。白帝の願いならば、命を賭してでも叶えよう。その覚悟が、阿久刀の声には込められていた。
「あてぃやをふるさとにかえしたくおもいます」
「故郷とは…もしや」
『界外か』
碧天が問うた。白帝は頷く。
「はい」
阿久刀の額に、再び痛みが走った。しかしそれは傷の痛みではない。白帝の思惑を理解できない困惑が、痛みとなって現れたのだ。
「うみかまどのみさきにふねがあるとあてぃやにききました。そこまであてぃやをおくりたいのです」
「海竈門岬…。そこに船が?」
阿久刀は驚きを隠せなかった。海竈門岬は、隼人からさらに北に歩いて四日の場所にある。渦巻く海流で知られる危険な岬だ。地元の人間も近づくものはいない。そんな場所に、船があるというのか。
「そうききました」
白帝は確信を持って答えた。阿久刀は考えを巡らせる。なぜ白帝は、アティヤを助けるのか。
「…聖上様。アティヤ、という娘をなぜ助けるのですか?」
阿久刀の問いに、白帝は一瞬、視線を逸らした。そして答える。
「ひまわりからつながりをえてねがいをききました」
「ひまわりとは誰です?」
白帝はその問いには答えなかった。ただ静かに、阿久刀を見つめる。
「ちからをかしてくれますか?」
その瞳には、懇願が込められていた。神が、人間に頼みごとをしている。その異常さに、阿久刀は戦慄した。しかし同時に、阿久刀の心は決まっていた。
「聖上のお望みのままに」
阿久刀は深く頭を下げた。その声には、一切の迷いがなかった。
白帝は小さく微笑んだ。それは、人間らしい温かな笑顔であった。




