運命の章 8話
中庭に放り出された東雲は、土の冷たさを両手で感じながら身を起こした。夜気は肌を刺すように冷たく、満月の光が庭石と砂利に鋭い影を落としている。闇の中に浮かび上がる阿久刀の姿は、まるで冥府から現れた判官のようであった。
東雲の胸中に去来するのは、覚悟と後悔が入り混じった複雑な感情である。師であり父である阿久刀を、本意でなくとも裏切ろうとした。その行為の重さが、今になって肩に圧し掛かってくる。だが、それでもなお、東雲は己の判断が誤りであったとは思えなかった。
「あの子はもういません」
もう一度告げる。東雲の声は、夜の静寂を破って響いた。言葉には懇願が、そして確信が込められている。
阿久刀は答えなかった。ただ静かに、腰に差した咒刀に手を掛ける。月光を受けて、鞘が鈍い光を放った。東雲は息を呑む。師の殺気を感じたのだ。それは今まで感じたことのない、冷たく、重く、そして悲しみに満ちた殺気であった。
鞘走る音が夜気を裂く。抜き放たれた刀身は、月光を吸い込んで妖しく輝いた。
阿久刀の顔は穏やかであった。しかしその穏やかさこそが、東雲の背筋を凍らせた。これは教えではない。処刑の宣告である。
「咒刀とは、呪いがかけられた生きた刀の事」
阿久刀は刀を構える。その構えは完璧であり、一切の隙がない。東雲は思わず身構えた。
「咒刀の使い手は、咒から力を作り出して戦う。お前はまだ借り物の咒刀だ。手にしてまだ一年。咒を使えないだろう」
月が雲に隠れ、庭が一瞬暗闇に包まれる。そしてまた月光が戻ったとき、阿久刀の姿が消えていた。いや、消えたのではない。東雲の視界に捉えられぬほどの速さで動いたのだ。
「"起点"は咒刀を造り上げること」
声が背後から聞こえた。東雲が振り向くより早く、阿久刀は既に元の位置に戻っていた。
「刀に咒を編み込む。これが"途上点"」
阿久刀の刀身が、淡い光を帯び始めた。咒が発動したのだ。東雲は咒刀を抜き放つ。間に合わない。そう理解した瞬間、阿久刀の姿が再び消えた。
「刃は疾くなり」
呪文のような言葉と共に、一閃が東雲を襲う。風を切る音すら追いつかぬ速さ。東雲は本能的に刀を横に構えた。
金属が激突する音が庭に響き渡る。衝撃で東雲の身体が後方に吹き飛ばされそうになるが、必死に踏みとどまった。両腕が痺れ、握った柄から血が滲む。咒をかけた一撃の威力は、想像を絶するものであった。
「途上点は、様々な使い方をする技術を身につけることでもある」
阿久刀の声は、まるで道場での稽古のように淡々としている。しかしその刀が狙うのは、東雲の命である。
「これは育て鍛えれば、様々な使い方が可能だ」
二撃目が襲う。今度は縦一文字の斬撃。東雲は咒刀を交差させて受け止めた。しかし衝撃は先ほどよりも重く、膝が崩れ落ちそうになる。全身から汗が噴き出し、呼吸が乱れる。一方の阿久刀は、息一つ乱していない。
この差は、技量の差であり、経験の差であり、そして咒の理解度の差である。東雲は絶望的な格差を痛感した。
「そして"到達点"」
阿久刀の声に、初めて感情が混じった。それは悲しみであり、憧憬であり、そして狂気であった。
「これは命を越えた境地に至るための、己が理想郷に踏み入ること」
突如として、庭の空気が変わった。甘やかな芳香が漂い始める。それは花の香りであり、蜜の香りであり、そして死の香りであった。東雲は本能的に危険を察知し、袖で鼻を覆う。
しかし遅かった。
香りは鼻だけでなく、肌から、耳から、目から侵入してくる。それは誘惑であり、麻薬であり、そして呪いであった。東雲の意識が、徐々に溶けていく。
「これが……到達点……」
東雲は膝をつく。立っていることすら困難になった。視界がぼやけ、音が遠くなる。まるで水の中に沈んでいくような感覚。東雲は必死に抗おうとするが、身体が言うことを聞かない。
咒刀の到達点とは、現実と変わらない理想世界に相手を引きずり込むこと。阿久刀は、未だに咒刀に未熟な東雲に、あえて到達点を見せようとしている。それは教えではない。殺意である。
東雲は理解した。阿久刀は、無意識に東雲に殺意を向けているのだと。
「お師匠様……」
呼びかける声も、既に力を失っている。東雲の瞼が重くなる。このまま目を閉じれば、もう二度と開くことはないだろう。それでも、東雲は抗った。
「私は……まだ……」
しかし意識は、確実に闇に沈んでいく。足元がおぼつかなくなり、咒刀を構えることすら億劫になった。まるで虚脱状態だ。
「なんて……強くて……抗えない香り……」
東雲の意識が、完全に途絶える寸前。瞼を一度閉じた。そして、もう一度開いたとき――
世界が変わっていた。
屋敷も、庭も、阿久刀の姿も消えていた。東雲が立っているのは、見渡す限りの麦畑である。黄金色の穂が、風に揺れて波のように うねっている。しかしその空は、昼と夜が混じり合う不可思議なものであった。
空には形の異なる数多くの太陽と月が同時に存在し、激しく動き回っている。それを追いかけるように、二匹の巨大な狼が空を駆けている。その光景は美しくも恐ろしく、神々しくも邪悪であった。
「これは……」
東雲は混乱した心を必死に落ち着けようとする。ここはどこなのか。阿久刀はどこにいったのか。屋敷は、中庭は、現実は。
「これが……お師匠様の到達点……」
東雲は理解した。これが阿久刀が辿り着いた境地なのだと。
麦畑には、人の姿がない。家も、道も、村も見当たらない。ただ麦と、空と、太陽と月と狼だけがある世界。
「この世界に……人はいない……いてはいけないんだ」
東雲の胸に、言いようのない恐怖が這い上がってくる。これは人間が立ち入ることを許さない聖域だ。神々の領域だ。人の子が足を踏み入れてはならない場所。
背後に気配を感じて、東雲は振り向いた。
そこには、数十頭の狼の群れがいた。遠くからでも分かるその巨躯は、小城に等しい大きさである。それはただの狼ではない。神獣であり、御遣様であり、そして裁き手である。
群れの中から、一頭の狼が進み出る。闇を纏ったような漆黒の毛並み。その瞳には、星々が宿っているかのようであった。
「……碧天様……?」
東雲の口から、思わず名が漏れた。毛並みの色も体躯も、現実の碧天とはまるで違う。しかし東雲には分かった。この狼こそが、碧天の本来の姿なのだと。
黒狼と東雲の目が合う。
その瞬間、東雲の全身を激痛が駆け巡った。まるで心臓を直接握り潰されたような苦痛。いや、それ以上だ。魂そのものが砕かれていくような痛み。
恐れ多い。
畏怖。
存在の格が違う。
東雲が咒刀を握る手が震える。立っているのがやっとである。しかし黒狼は、容赦なく東雲を見据えている。その視線には怒りが、そして殺意が込められていた。
侵入者として。
敵として。
排除すべき存在として。
黒狼が、駆け出した。
大地が揺れる。麦が倒れる。空気が裂ける。黒狼の巨体が、恐るべき速さで東雲に迫る。その口は大きく開かれ、鋭い牙が月光を反射して輝いている。
東雲は咒刀を構える。しかし手は震え、足はすくみ、呼吸は乱れている。勝てない。そう理解していた。それでも、東雲は刀を握り締めた。
「幻覚を切り開いて……意識を覚まさなければ……死ぬ……!」
深呼吸を繰り返す。一心に集中する。無我の境地で夢幻の世界を切り開き、現実世界への出口を作り出す。それしか東雲が生き延びる方法はない。
しかし東雲の心に、迷いが生じる。
「未熟な私に……できるの……?」
できるのか。できるはずがない。偽りの咒刀を授かってまだ一年。咒の使い方も知らない。到達点など、夢のまた夢。そんな自分が、この境地を切り開けるのか。
それでも。
「……やったらあああああ!!」
東雲は腹から声を張り上げた。咒刀を構え、黒狼を迎え撃つ。
黒狼との距離が、あと二メートル。
一メートル。
零に到達する。
その瞬間――
突如として、さらに巨大な狼の顎が、上空から現れた。それは黒狼も東雲も、そして麦畑も草原も、全てを丸ごと飲み込んだ。
食い潰される感触。
東雲の意識は、一瞬で途絶えた。
「どういうつもりだ」
阿久刀の問い質す声で、東雲は意識を取り戻した。
現実に戻っていた。中庭に、月光の下に。全身は汗でびっしょりと濡れ、衣服が肌に張り付いている。呼吸は荒く、心臓は激しく鼓動している。
「ここ…は…。え…なにが、おきたの……?」
東雲の声は震えていた。あれは幻覚だったのか。それとも本当に別の世界に行ったのか。境界が曖昧で、東雲自身にも分からない。
『食うた』
簡潔な答えと共に、碧天が姿を現した。ペロペロと舌で口をなめている。阿久刀が引き起こした夢幻の世界を丸ごと食らい、東雲の精神だけを吐き出したのだ。おかげで東雲は、無事に現実世界に戻ってきた。
「碧天様が……助けてくれたのですか……?」
東雲の声には、安堵と感謝が滲んでいる。しかし阿久刀の表情は、苦渋に満ちていた。
「碧天、なぜだ?」
阿久刀の問いに、碧天は静かに答える。
『紫を忘れたか?』
阿久刀の顔がひきつった。心の傷をえぐられたのだ。紫。亡き娘の名。その名を口にされただけで、阿久刀の胸に痛みが走る。
『あれの呼び名を思い出せ』
碧天の言葉に、阿久刀は立ち止まる。考えろと、自分に告げる。何がおかしい? どこがおかしい? 違和感を探る。自分を改めて見つめる。
そして、気づいた。
自分は、何者かに影響を受けていたのだと。
「……くそ……こういうことか」
阿久刀は自分を責めたい衝動にかられた。なんという愚かさ。なんという不覚。咒刀を鞘に収めて、地面に片ひざをつく。そして、自らの額を指差した。
「斬れ」
言われた東雲は、戸惑いの表情を浮かべる。
「お師匠様、何を言って…」
「死ぬ寸前の深さで、ここを斬れ」
「え? え?」
東雲は混乱している。師匠が、自分を斬れと命じている。その意味が理解できない。
「頼む。そうしないと、俺はこのままだ」
阿久刀の声には、切迫感が込められていた。阿久刀は、自身にかけられたあまりに強力な呪を、今になってようやく感じ取っていた。この呪を解くには、死を迎える一瞬の間に、呪と阿久刀の繋がりを斬るしかない。
東雲は実力不足。碧天は助けることはない。大きな賭けだが、阿久刀自身でやるしかないのだ。
「やれ!」
阿久刀の叫びに、東雲はごくりと息を飲み込んだ。そして、腹から声を張り上げる。
「――やったらあああああ!!」
東雲は咒刀を抜き放ち、完璧に間合いを計った一閃を放つ。
刃が、阿久刀の額を裂いた。
血が、派手に吹き出した。
阿久刀の意識が飛ぶ。死の淵。その一瞬の間に、僅かに呪が見えた。それは糸のようであり、鎖のようであり、そして蔦のように阿久刀の全身に絡みついていた。
阿久刀は咒刀を抜き放つ。一度。二度。三度。三度、咒刀を振り抜いて、呪を断ち切った。
肉体に纏わりついていた重石が外れる。身体が軽くなる。同時に、激痛が襲う。阿久刀は倒れ込むようにして、地面に四つん這いになった。
「お師匠様!」
東雲は咒刀を放り投げて、阿久刀に駆け寄る。袖を破ると、血が止まらない阿久刀の頭にグルグルと巻き付ける。致命傷ではないといえ、重傷だ。このままでは失血死する。
「誰か! 誰か! 医者を!」
東雲の叫びに、屋敷がにわかに騒がしくなる。灯りがつき、人の声が聞こえる。
阿久刀は荒い息をつきながら、一言呟いた。
「…………神咒」
『ようやく察したか』
碧天の声には、呆れと安堵が混じっていた。
「あぁ……信じられないが…事実のようだ」
神咒。神がかけた呪い。それは人間の術など比較にならぬほど強力で、そして恐ろしいものである。
事態の深刻さに、阿久刀は額の痛みも気にならなかった。
月が雲に隠れ、庭が再び暗闇に包まれる。血の匂いが、夜気に混じって漂っていた。




