運命の章 7話
夜の空に、満月が悠然と浮かんでいた。
その光は、まるで天上の神々が地上を照らすために掲げた白銀の灯火のようであった。月光は優しく、しかし容赦なく、暁家の屋敷を包み込んでいる。瓦屋根に降り注ぎ、庭の草木に宿り、そして、開け放たれた障子から、東雲の部屋へと滑り込んでいた。
東雲は、寝間着に着替えることもなく、昼間と同じ服装のまま、部屋の中央に座していた。正座の姿勢を崩さず、背筋を伸ばし、両手で咒刀を握り締めている。刀は鞘に納められたまま、東雲の膝の上に横たえられていた。
瞑想。
いや、それは瞑想というよりも、己の心との対話であった。自問自答の時間であった。
月光が、東雲の青いとも黒いとも見える不思議な髪を照らしている。その髪は、まるで夜の海のように、深く、暗く、そして美しい。だが、東雲の表情は、美しいとは言い難かった。苦悩に満ち、痛ましいまでに歪んでいた。
瞼を閉じた東雲の脳裏には、今宵の出来事が鮮明に蘇っていた。
アティヤ。
紫と瓜二つの、異国の少女。
そして、その少女を見つめる阿久刀の目。あの目には、東雲がこれまで一度も見たことのない感情が宿っていた。執着。渇望。そして、狂気の影。
「このままでは……駄目だ……」
東雲の唇から、掠れた呟きが漏れる。
「わたしが……わたしがやらないと……」
己に言い聞かせるように、東雲は繰り返す。だが、その声は震えていた。
阿久刀の様子に、東雲は強い危機感を覚えていた。いや、危機感などという生易しいものではない。恐怖だ。師匠が、父が、兄が、己の知る阿久刀が、何か得体の知れぬものに変わってしまうのではないかという、深い恐怖。
紫に似ているという、ただそれだけの理由で。
たったそれだけのことで、阿久刀の心は大きく揺らいでいた。東雲には、それが信じられなかった。あれほど冷静で、理性的で、何事にも動じない阿久刀が、一人の少女の容貌に惑わされている。
恐ろしい。
危険だ。
このまま放置すれば、取り返しのつかないことになる。東雲の直感が、そう告げていた。
そして、その直感を信じるならば、取るべき道は一つしかない。
「……アティヤを……」
東雲の手が、咒刀を強く握り締める。指が白くなるほどに、力を込める。
「……殺さなければ……」
その言葉を口にした瞬間、東雲の全身を、冷たい戦慄が走った。己が何を言ったのか。己が何をしようとしているのか。その重さが、ずしりと肩に圧し掛かる。
東雲は、人を殺したことがある。
戦場でのことだ。阿久刀と出会う前。まだ幼かった東雲は、強盗に襲われ、咄嗟に短刀で相手の喉を突いた。血飛沫が顔にかかった。相手は、驚いたような顔をして倒れた。その顔を、東雲は今でも覚えている。
だが、今回は違う。
今回殺そうとしているのは、強盗ではない。何の罪もない少女だ。ただ、紫に似ているという、それだけの理由で命を奪おうとしている。
これは、殺人だ。
正当化できない、純粋な殺人だ。
「……許されない……ことを……」
東雲の唇が震える。だが、それでも、東雲は立ち上がった。
たとえ阿久刀に恨まれようとも。
たとえ阿久刀に斬られようとも。
構わない。
己の命など、阿久刀の魂に比べれば、塵芥に等しい。東雲は、そう信じていた。阿久刀を守るためならば、己の命など惜しくない。己の魂を地獄に堕としてでも、阿久刀を救いたい。
それが、東雲の決意であった。
覚悟を決めた東雲は、咒刀を手に、静かに部屋を出た。
廊下は、月光に照らされて青白く光っていた。
東雲の足音は、まったく聞こえない。幼い頃から叩き込まれた忍び足の技術を駆使して、東雲は影のように廊下を進む。
心臓が、激しく鼓動している。全身の血が、音を立てて流れているような錯覚を覚える。だが、東雲は己を律した。呼吸を整え、心を静める。
アティヤの部屋は、すぐそこだ。
障子の前で、東雲は一旦立ち止まった。そして、深く息を吸う。
最後の逡巡。
最後の迷い。
だが、東雲はそれを振り払った。もう、後戻りはできない。
静かに、静かに、障子を開ける。
部屋の中は、暗かった。月光が僅かに差し込んでいるだけで、細部は見えない。だが、布団に横たわる人影は確認できた。
アティヤだ。
東雲は、忍び足で部屋に入った。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、アティヤの枕元に近づいていく。
一歩。
二歩。
三歩。
アティヤの寝顔が、月光の下に浮かび上がる。
穏やかな寝顔だった。無防備で、幼く、そして――美しい。
東雲の胸が、締め付けられるように痛んだ。
なぜだ。
なぜ、こうも紫に似ているのだ。
東雲の手が、咒刀の柄を握る。そして、ゆっくりと、刀を鞘から抜いた。
刃が、月光を反射して、鈍く光る。
東雲は、咒刀の切っ先を、アティヤの首筋に突きつけた。頸動脈の真上だ。ここを切れば、鮮血が吹き出し、アティヤは数秒で絶命する。苦しむ間もなく、死ぬだろう。
せめて、苦しませずに。
それが、東雲にできる、唯一の慈悲であった。
「……紫……」
東雲の唇から、親友の名が漏れた。
寝顔を見れば見るほど、姉妹同然だった親友を思い起こしてならない。東雲の両手が、震え始めた。
紫。
明保能紫。
雪のように白い肌をしていた。東雲は、その白さが羨ましかった。己の肌は、紫のそれに比べれば、くすんで見えた。だから、東雲は紫の肌を褒めた。すると紫は、恥ずかしそうに笑って、「東雲の髪の色の方が素敵よ」と言ってくれた。
二人で、よく遊んだ。
剣の稽古も、一緒にした。
学問も、一緒に学んだ。
紫は、東雲よりもずっと聡明だった。一度聞けば、すぐに理解した。東雲が何度も繰り返さなければ覚えられないことを、紫は軽々とこなした。だが、紫は決して東雲を馬鹿にしなかった。むしろ、東雲が理解できるまで、丁寧に教えてくれた。
優しかった。
本当に、優しかった。
その紫が、今はもういない。
あの日、東雲は紫の死に顔を見た。蒼白な顔。閉じられた瞼。冷たくなった身体。東雲は、紫の手を握った。だが、その手は、もう東雲の手を握り返すことはなかった。
「紫……ごめん……ごめんなさい……」
東雲の目から、涙が溢れた。視界が歪む。だが、刀は、依然としてアティヤの首筋に突きつけられたままだ。
思い出が、抵抗となって、東雲の手の動きを止める。
刀を引こうとしても、手が動かない。
だが、それでも、東雲は意志の力で己を制御しようとした。
彼女は紫ではない。
この者の存在は、毒になる。
阿久刀を狂わせる毒だ。
これしかないのだ。
これしか、方法はないのだ。
東雲は、歯を食いしばって、覚悟を決めた。そして、一気に刀を引いた――
その瞬間。
刀が、動かなくなった。
いや、正確には、東雲の腕が捕まれて、止められたのだ。
東雲は、緊張のあまり息を吐いた。刃が僅かにアティヤの首筋を切り裂き、滲み出る血が刃を濡らす。
誰の腕か。
東雲には、すぐに分かった。
背後から、東雲の腕を握り締めている、その手の感触。この手は、東雲を何度も導き、何度も支えてくれた手だ。
阿久刀だ。
「お、お師匠……」
東雲の声は、震えていた。恐怖と、安堵と、そして深い罪悪感が、入り混じっていた。
阿久刀は、何も言わなかった。ただ、静かに、しかし確実に、東雲の腕を掴んでいる。その手には、有無を言わさぬ力が込められていた。
「刀をどけろ」
阿久刀の声は、低く、静かだった。だが、その声には、静かな威圧感が満ちていた。怒りではない。失望でもない。ただ、絶対的な命令が、そこにはあった。
東雲は、無言で従った。咒刀を、アティヤの首筋から離す。
阿久刀は、東雲の腕を掴んだまま、彼女を部屋の外へと引っ張り出した。
そして――
中庭へと、投げ捨てるように、東雲を放り出した。
東雲は、地面に転がった。土と草の匂いが、鼻を突く。身体が痛む。だが、それよりも、心が痛かった。
ゆっくりと身体を起こした東雲は、立ち上がった阿久刀を見上げた。
月光の下、阿久刀は立っていた。その腰には、咒刀が差してある。帯刀していたのだ。つまり、阿久刀は最初から、東雲の動きを察知していたということだ。
ああ。
自分は、首を切られるのだ。
東雲は、そう覚悟した。師の命に背き、無辜の者を殺そうとした。その罪は、死をもって償うしかない。
東雲は、静かに目を閉じた。
首を差し出すように、顎を上げる。
せめて、苦しまずに死にたい。
それだけを、東雲は願った。
だが、予想していた刃の感触は、訪れなかった。
だから代わりに――
「お師匠様、彼女は紫じゃありません。あの子はもういません」
東雲の声が、夜の静寂を破った。必死の訴えだった。最後の抵抗だった。
阿久刀は、それに答えなかった。
ただ、腰に差した咒刀を、静かに抜いた。
月光が、刃に反射して、白銀の軌跡を描く。
そして、阿久刀は告げた。
「咒刀の使い方……教えていなかったな」
その声は、穏やかだった。まるで、弟子に剣術を教える師匠のように。だが、東雲には分かっていた。これから始まるのは、単なる稽古ではない。
これは、裁きだ。
己の罪に対する、裁きなのだ。
東雲は、咒刀を構えた。震える手で、しっかりと柄を握り締める。
月光の下、師と弟子は、静かに対峙した。
夜の帳は、二人を優しく包み込んでいた。だが、その優しさの下には、冷たい刃が潜んでいることを、東雲は知っていた。
この夜、東雲は、多くのものを失うことになるだろう。
だが、それでも構わない。
ただ一つ、阿久刀の魂さえ守れるのならば――
東雲は、そう心に誓いながら、咒刀を構え直した。




