運命の章 30話
血と硝煙の匂いは、不思議なことに、人の身体に染み付く。
着替えてしまえば消えるのかもしれない。しかし、明保能阿久刀の鼻腔の奥には、まだあの匂いが残っていた。それは記憶の匂いである。遮断しても、脳が勝手に再生し続ける呪いのようなもの。人間の業というものは、つくづく厄介な性質を持っている。
海竈門岬から続く街道は、松並木の間を縫うようにして延びていた。
空は傾き始めた光が松の影を長く引き伸ばしている。その影が地面を縦縞に染め、阿久刀たちの足元に複雑な模様を描き出す。踏むたびに模様が形を変えた。まるで、世界そのものが、この一行の歩調に合わせて形を変えているかのようだ。
先頭を歩くのは、阿久刀である。
その背中は、傍目には何も変わったところがない。背筋は伸び、歩幅は一定で、腰に差した咒刀の柄には常と変わらぬ気負いのなさで手が触れている。まるで、今しがた嵐のような死闘を経てきた人間には見えなかった。
しかし、その背中を長く見ていれば、わかる者にはわかる。
肩の位置が、ほんの数分、低い。
呼吸が、通常よりわずかに浅い。
そして、足裏が地を踏む感触を確かめるように、一歩一歩を、微かに、丁寧に踏みしめている。
阿久刀自身がそれを意識しているかどうかは、定かでない。おそらく、意識はしていない。疲弊した肉体が、自動的に行っている「肉体回復」の動作なのだ。そして生の実感。今、生きている。大地はまだ、足の下にある。重力は、まだこの身に働いている。その実感で生きていると知るのだ。
その後ろを、東雲が歩く。
咒刀は鞘に納まっているが、彼女の右手は、まだその柄の傍らを離れていない。これは、意識的な警戒の姿勢である。戦場を出てから一刻、東雲はずっとそうしていた。身体がまだ、戦闘態勢から完全に解けていないのだ。精神は「戦いは終わった」と理解していても、肉体の側がそれを受け入れるまでには、時間がかかる。それが武人というものだ、と東雲はかつて清子から教わった。「剣を鞘に納めても、心は戦場に残る。残り香が消えるまで、それでいい」と。
東雲は、その言葉の意味を今、初めて骨の髄から理解していた。
少し遅れて、ハクが歩く。
彼女の足取りは、どこか浮遊感を帯びていた。テンの力を行使した後遺症が、まだ身体に残っている。重力が、普段の倍ほどに感じられる。手足がひどくふわふわしている。しかし、転ぶことはしない。転んでいる余裕がないというべきか。彼女は理解している。歩けるうちは歩く。あれだけの戦いを成し遂げた者達に無用な負担はかけたくない。
最後尾を、アティヤが歩く。
あるいは、「歩いている」と表現することが正確かどうか、疑わしい。
アティヤの足は確かに前へと進んでいた。しかし、その目は前を見ていなかった。ハクの背中を追うような格好でいながら、その視線は遠く、あるいは内側へと向けられていた。向日葵の声が、まだ耳の中で反響している。「アティヤちゃん」という、柔らかな、甘い、しかし致命的な言葉が。
利用された。
その事実は、知識として理解できる。頭は、正常に機能している。
しかし、心は別のことを言っている。
心は言っている――それでも、あの人は確かに、あなたに触れた、と。あの人は確かに、あなたの名前を呼んだ、と。たとえ計算の上であったとしても、あの温もりは、本物だった、と。
愛と利用は、時として、同時に成立する。だから、厄介なのだ。
碧天は、一行の斜め上、松の梢をかすめるような高さを、自在に飛んでいた。通常時の白狼の大きさで、まるで澄んだ空を泳ぐ魚のように、重力を無視して空間を移動している。時折、阿久刀の肩の高さまで降りてきては、その巨大な鼻先を阿久刀の耳の傍らまで近づけ、何かを確認するように匂いを嗅いでから、再び上昇する。
『疲れを隠すな。みっともない』
碧天の声は、思念として阿久刀の心に直接届いた。
「隠していない。歩いているんだ」
『同じことよ』
「碧天の意地悪め」
『くく』
碧天の喉の奥で、低い笑い声が転がった。この神の遣いは疲労など微塵も感じていない。
しばらく、誰も口を利かなかった。
松林の中を吹き抜ける風の音。遠くで鳶が鳴く声。草を踏む足音が四人分、リズムを少しずつずらしながら続く。その不揃いさが、むしろ生者の証明のように聞こえた。
「……ねえ」
アティヤが、唐突に口を開いた。
その声は、掠れていた。何時間も喋らなかった後の声、というよりは、何か言葉にするかどうかを長いこと逡巡した末の声、だった。
「どこ行くの」
阿久刀は振り返らずに答えた。
「鷲の尾の村だ」
「……なに、それ」
「村の名前だ」
「名前はわかるけど、なんで?」
阿久刀は少しの間を置いてから、続けた。
「あの連中を、預けに行く」
アティヤは黙った。
「あの連中」が何を指すか、彼女には即座に理解できた。零零七部隊の、生き残り。意識を失ったまま地に伏し、手当てを施されて、今はあの場に残してきた、あの者たちのことだ。
アティヤは、後ろを振り返らなかった。
振り返れば、彼らの顔が見えるような気がした。顔を見れば、死んだ者たちの顔と重なる。今はまだ、それに耐えられる自信が、アティヤにはなかった。
「……どうするつもり?」
その問いには、棘があった。意図したものではなかった。ただ、言葉にしたときに、自然と棘が生えていた。
阿久刀は少しの間、沈黙した。
「村に知人がいる。あそこなら安全に手当てができる。その後のことは、おいおい考える」
「……おいおいって、どういうこと」
「どういうこと、とは」
「処刑しないの?」
今度は阿久刀が黙った。しかし、その沈黙は考えているものではなく、問いの意味を確認しているような沈黙だった。
「誰を」
「侵略者でしょ、皆は。この島を調べに来た、敵でしょ。殺さないの」
東雲が、アティヤの問いに割り込もうとした。しかし阿久刀が片手を小さく上げ、それを制した。
「侵略者かどうかは、朝廷が決めることだ。俺には関係ない」
「……は?」
「俺は俺の判断で動く。彼らが敵であるかは俺が決める問題ではない。彼らが人間であり怪我をした。だから手当てをする。それだけの話だ」
アティヤは、返す言葉を見つけられなかった。
それはひどく単純な論理に聞こえた。しかし、単純であるがゆえに強固でもあった。侵略者であるかどうかという国家的な問題と、傷ついた人間を放置するかどうかという人道的な問題を、阿久刀は混同しなかった。切り分けた。その切り分けに、アティヤには反論する角度が見つからなかった。
「……お節介な人」
アティヤは、ようやくそれだけ言った。
「よく言われる」
阿久刀の声に、珍しく、ほんの微かな温度があった。
鷲の尾の村は、松林を抜けた先、丘の中腹にひっそりと建っていた。
その名の由来は、村を囲む山の稜線が、どこかから見ると大鷲が翼を広げた形に見えることからだという。ただし、どこから見るとそう見えるのかについては、村人の間でも諸説あり、一説によると「空から見ないとわからない」らしい。空から見る機会など人間には滅多にないため、その説が正しいかどうかは永遠に謎のままかもしれない。
村の入口の大きな欅の木の傍らに、男が立っていた。
三十代半ばほどの、日焼けした顔の男で、農作業の途中だったらしく、鍬を肩に担いでいた。彼は阿久刀たちの姿を遠くから見つけ、目を細め、そして――
「あ、明保能様あ!?」
叫び声と共に、鍬を放り出して駆けてきた。鍬は放物線を描いて畦に刺さり、まるで旗のように立ち続けた。後で誰かが抜きに行くのだろう。
「お前は桂太だったな」
阿久刀は、駆け寄ってくる男を見ながら言った。その声には、記憶の確認ではなく、確信の確認であった。
「はい! 桂太でございます! いやぁ、お久しぶりでございます! そりゃあもう二十年も経ちますからなぁ。明保能様は、昔と全くお変わりにもなりませんが、それにしても、本当に全くお変わりで……」
桂太の言葉は、嬉しさのあまり畳み掛けるようになっていた。声が少し上ずっている。感情の圧力が、言葉の管を広げてしまっているような状態だ。
「そうでもないさ」
阿久刀の返答は、短かった。
しかし、桂太はその短さの中に何かを感じ取ったらしく、勢いが少し落ち着いた。それから、阿久刀のうしろに続く一行に目をやった。咒刀を帯びた若い女が一人。それから、白い髪の、見たことのない雰囲気を持った少女。さらに肌の色が違う若い女。
桂太の表情が、驚きから、状況の読み取りへと素早く変わった。
農民というのは、物事を速く理解する。自分の生活に関わる変化は、即座に察知する習性がある。桂太もまた、二十年前から鷲の尾の村で生きてきた男だった。
「……村長んとこ、行きますか」
「頼む」
それだけの会話で十分だった。
村長の屋敷は、村の中央よりやや高台にあった。
石垣を低く積み上げた敷地の中に、手入れの行き届いた母屋がある。軒先に干し柿が吊るされ、庭の片隅には、季節外れにまだ残った菊の花が数輪、風に揺れていた。
屋敷の前に立っていた老人は、一行の気配を察したのか、門の外まで歩み出ていた。
年は七十に近いだろうか。背筋は若者のように伸びており、歩みに迷いがない。長い年月が彫り込んだ深い皺は、顔に歴史を刻んでいた。その目は、細いが鋭く、しかし温かかった。
「明保能阿久刀様。よくぞ御越しくださいました」
村長は、深々と頭を下げた。礼儀の形としての頭下げではなく、感情が礼儀の形を借りて現れているような、腹の底からの礼だった。
「お元気そうで。村長殿」
「おかげさまで。……して、その方々は」
村長の視線は、状況を素早く確認する眼だった。傷を負った異国の者たち。それを運んでくる、明保能の家来筋らしき者たち。そして、阿久刀のうしろに控えるハクに目が止まった瞬間、村長の顔に、他とは異質な動揺が走った。あの雰囲気は——
「事情を話す。長くなるが、聞いてくれるか」
「もちろんでございます。どうぞ中へ」
縁側に腰を下ろし、阿久刀は説明した。
省略できる部分は省略し、しかし必要な情報は丁寧に伝えた。界外の者たちがこの島に来たこと。彼らが任務の失敗によって生き残り、意識を失っていること。彼らを安全な場所で看護してほしいこと。そして——
「彼らを村で世話をしてもらいたい」
「……なるほど。まさに難事でございましたな」
村長はしばらく考えた。その沈黙は拒絶ではなく、状況の整理であることは表情でわかった。
「阿久刀様には、かつて幾度もお助けいただいた恩義がございます」
村長の声は、穏やかだった。
「あれは二十年前でしたか、北の大乱の折に、村が危機に陥った時も。また、三年前の水害の折も。そのご恩をお返しできることを、我ら、嬉しく思います」
「……ありがとう」
阿久刀の声に、何かが混じった。
感謝とは少し違う何かが。それは、自分が人の好意の中に生きているという実感に近いものだった。叛乱に関わり、分家に落とされ、監視の目の下に置かれてなお、こうして頭を下げてくれる者がいる。この世界には、そのような繋がりがある。
「村長。これを」
懐から、布に包んだものを取り出した。
村長がそれを受け取り、包みを少し開けると、その目が見開かれた。
「これは……」
「彼らの世話に使ってくれ」
「多すぎます」
「余分は村の者達と分けてくれ」
村長は両手で持ったまま、しばらく包みを見つめていた。
「そしてこれも」
阿久刀が次に差し出したものを見て、村長は息を呑んだ。
「こ、これは紋章ではありませんか!?」
それは、暁家の紋章を刻んだ小さな白銀の印だった。権威の保証書であり、必要な時に示せば、朝廷の関連機関も無視できない性質のものである。
「もし何かあれば迷わず使え」
「しかしこれは……! 分家の紋章とはいえ、明保能家の……!」
「もう、無闇に火の粉を蒔くことはない。それが必要な事態になった時は、俺に連絡を。その時は俺が直接出向く」
村長は、深く息を吸った。そして、両手に持ったそれらを胸の前で丁重に保持し、再度、腹の底から頭を下げた。
「承知しました。必ずやご恩に報います」
「彼らの傷が治り次第、ご報告ください」
「承知しております」
「頼む。その後のことは、俺が何とかするつもりだ。あと……」
阿久刀は少し間を置いた。
「介入があったときは」
「それも承知しております」
村長は、阿久刀の言葉が何を意味するかを、即座に理解した。この事態を嗅ぎ付けた朝廷関係者が何か動いた場合、あるいは——悪虫家のような者たちが嗅ぎ付けた場合。その時は、自分たちで勝手に動かないように、という警告と依頼だ。
「すまないな」
その一言は、阿久刀にしては珍しく、謝罪の気持ちが素直に出ていた。
村長は微笑んだ。その笑みは、七十年の年月が作った、穏やかなものだった。
「明保能様が謝られるとは。世も末でございますな」
「……ひどい言いようだ」
「でなければ、謝ることなどございません」
その言葉の重さを、阿久刀は受け取った。
傷ついた兵士達を村人総出で村まで運び、それぞれの民家へと運ばれていった。
アティヤは、その様子を少し離れた場所から見ていた。東雲が傍らに立って、やはり黙って見ていた。
「……ちゃんと、手当てしてくれるの?」
「はい。この村の人たちは、よい方々ですから」
「助かるの」
「重傷の方もいます。でも……できる限りのことはしてくださると思います」
アティヤは唇を結んだ。
運ばれていく兵士たちの中に、顔見知りがいた。名前を知っている者もいた。怒鳴られたことのある者もいた。一緒に訓練した者もいた。そういう者たちが、意識もなく、この島の見知らぬ村人の手に委ねられていく。
それは奇妙な光景だった。
敵と味方、という区分が、意識のない身体には意味を成さない。傷ついた人間と傷ついた人間の間には、言葉が要らない。言語も国籍も関係ない、ただの傷、ただの血、ただの体温だけがある。
「……これが、あんたたちのやり方なの」
アティヤは、どちらにともなく言った。
東雲は少し考えてから答えた。
「お師匠様のやり方です。わたしは……まだ、全部を理解してはいませんが」
「あんたも完璧じゃないのね」
「当たり前ではありませんか」
東雲の声には、むきになるような響きがあった。それが少し、人間らしかった。
アティヤは、ため息をついた。
それは諦念のため息ではなく、何かを少しだけ手放したような、軽くなるための息だった。
村を出たのは、日が傾いてからだった。
阿久刀が「寄り道をする」と言ったのは、村から少し山へと入ったところで松の木々が途切れ、広い空が開ける場所の手前、道が二又に分かれるところだった。
「どこ?」とアティヤが問うと、東雲が振り返り、「前にお話しした場所です」と答えた。
前に、というのがいつのことか、アティヤには即座には思い出せなかった。しかし、東雲の表情を見て、それが軽い用向きではないことは察した。
「魂送りです」
その三文字を東雲が発した瞬間、阿久刀の背中の肩甲骨のあたりが、僅かに緊張した。
村に立ち寄る前に、ひとつ寄り道をしていた。酒を買っておいたのだ。阿久刀が無言で荷の中に仕舞い込んだのを、東雲は見ていた。なんのためかは、問わなかった。問わなくても、わかったから。
二又道の脇道を少し進むと、水の音が聞こえてきた。
木々の間から滲み出るような、静かな音だった。人工の水路ではない。岩の割れ目から湧き出て、岩の間を流れ落ちる、自然の水の音だ。その音には、長い年月が宿っていた。この水は何百年、あるいは何千年、ここを流れているのだろうか。
泉は、想像より大きかった。
直径にして十歩ほどの、円形に近い形の泉。その水は驚くほど澄んでいて、底の石の模様まで見えた。水面は鏡のように静かで、傾いた太陽の光を受けて、金色と銀色が混ざったような輝きを放っている。
周囲には、古い石灯籠がいくつかあった。苔に覆われ、風化してはいるが、まだ形を保っている。誰かが手を合わせた跡が、そこかしこに残っていた。
「神々の痕跡が強く残る場所です」
東雲は、静かに言った。
「昔からこの島では、こういう場所で魂送りをする習わしがあります。特に、戦で死んだ者たちに、きちんとお別れを告げるために」
アティヤは、泉を見つめた。
「……別れを告げる?」
「そうです。生き残った者と死んだ者の間で、きちんとケジメをつけるための儀式です」
阿久刀は、村で買った酒の包みを開けた。徳利がいくつかと、酒杯が数客。それらを、泉のほとりに静かに並べた。
東雲が、酒杯を一つずつ配り始めた。阿久刀へ。アティヤへ。
そして——
「せ……聖上様も……ど……どうぞぉ……!」
ハクへ差し出す東雲の手が、細かく震えていた。
それは、寒さではない。ハクの傍らに立つこと、ハクに直接言葉を向けることの、緊張であった。東雲にとって、ハクは——テンを宿す者であり、この島の頂点に位置する存在だ。どれほど慣れようとしても、そのような者に酒杯を差し出す瞬間には、身体の方が勝手に敬意を形にしてしまう。
ハクは、差し出された酒杯を、両手で静かに受け取った。
その目が、一瞬だけ東雲を捉えた。何かを言いたそうな、しかし言葉にする方法を知らないような目だった。
「お師匠様。今回は、私が」
東雲は、阿久刀に向かって言った。
「そうだな……頼む」
阿久刀の声に、珍しい穏やかさがあった。師が弟子に任せる、という種類の穏やかさだ。それは、信頼の形をしていた。
東雲は、泉の前に立った。
両手には何も持っていない。咒刀も、武器も、持ち物の何も。ただ、その身体と、声だけを持って立った。
しばらくの間、東雲は目を閉じていた。
何かを準備しているのではなかった。何かを思い出しているのでもなかった。ただ、この場の気配に、自分を馴染ませていた。水の音を聞く。風の気配を感じる。土の匂いを嗅ぐ。泉の水面が放つ光が、閉じた瞼の裏に届く。
それで十分だった。
東雲の唇が、ゆっくりと開いた。
歌が、始まった。
それは、普通の意味での歌ではなかった。旋律はあった。しかし、それは楽器の伴奏を前提としたものではなく、人間の声そのものが持つ、根源的な震えから生まれたものだった。音符で書けるものではない。拍子を刻めるものでもない。ただ、流れる。水のように、風のように。
古歌であり、それはアティヤには理解できない。言葉の意味は取れない。しかし、その意味するところは、言葉を超えて伝わってきた。
それは、送り出す歌だった。
見送る歌ではない。ともに歩き、そして分かれる場所まで連れていき、そこで手を離す歌。背中を押す歌。行きなさい、と言う歌。あなたが行く道を、私は連れていくことはできない、それでも、行きなさい、と言う歌だ。
東雲の両手が、ゆっくりと広げられた。
その手のひらに、何もなかった。しかし、泉の水面が、かすかに揺れ始めた。
風が、方向を変えた。
水面の金色の光が、波紋の形で外へと広がっていく。その波紋が岸辺に達すると、空気そのものが僅かに変質した。何かが、薄い膜を破って内側に入ってくるような感覚。あるいは、内側にずっといたものが、外側に顕れてくる感覚。
「……来たぞ」
阿久刀の声は、低かった。
アティヤの目が、その声に引かれた。
泉の対岸。水面の向こう。松の木々の間。そこに、形が生まれていた。
透明ではなかった。しかし、不透明でもなかった。霧が人の形を取ったような、あるいは光が人の輪郭を描いたような——魂の衣を纏った形が、一つ、また一つ、静かに現れてきた。
「………みんな……………」
アティヤの唇が、その言葉を作った。声にはならなかった。しかし、その唇の動きを見れば、何を言ったか誰にでもわかった。
零零七部隊の死者たちが、そこにいた。
阿久刀は、酒の徳利を持って、霊魂たちの方へと歩いた。
その足取りは、一切の迷いがなかった。
これはかつて、幾度となく行ったことだ。敵の死者に酒を捧げることは、この島で何百年と続いてきた武人の流儀だった。その流儀に、感情的な躊躇は必要ない。ただ、礼を尽くす。それだけだ。
「生を終え死を得た者達に捧ぐ」
阿久刀は、徳利を逆さにした。
酒が、空中へと放たれた。
しかし、それは地面に落ちなかった。
酒の流れが、空中で渦を巻き、形を変え、まるで意思を持っているかのように分かれていく。そして——霊魂たちの手のそれぞれに、酒杯の形になって収まった。透明な器に、透明な酒が注がれた形。それは、物理的には存在しないものだった。しかし、そこにある、としか言いようがなかった。
阿久刀は、自分の酒杯に酒を注いだ。東雲の杯にも。アティヤの杯にも。ハクの杯にも。
「風と水と森が見届ける。さらばだ」
阿久刀は、一息に飲み干した。
その顔に、何も感情が浮かんでいなかった。
悲しみでも、怒りでも、申し訳なさでもない。ただ、対等に、向き合っている顔だった。あなたたちを殺した者が、今、あなたたちと酒を酌み交わしている。それは罰でも懺悔でもない。ただの、ケジメだ。あなたたちが立派に戦ったことの、確認だ。
東雲も、飲み干した。
ハクは、霊魂たちを見つめていた。その目には、言葉にできない複雑なものが宿っていた。生者と死者の境界が曖昧になっているこの場所で、テンを宿す彼女には何が見えているのか。誰にも知る由がない。
やがて、ハクは酒杯を口に運んだ。
静かに、ゆっくりと。まるで、その一口一口に、何かの意味を込めるように。
アティヤは、まだ酒杯を手に持ったまま、動いていなかった。
霊魂たちの一群を見つめていた。
そこにいる全員の顔が、わかった。一人一人の顔が、記憶の中の顔と重なった。笑っていた顔、怒っていた顔、疲れていた顔、眠っていた顔——それら全てが、今、静かな形で、そこに立っている。
アティヤの手が、震えた。
飲む勇気が、なかった。この酒を飲んでしまったら、本当の意味で「終わり」になる気がした。飲んでしまったら、彼らとの間に、完全な「さよなら」が成立してしまう。それが怖かった。
けれど、飲まないままでいることも、できなかった。
アティヤは、ゆっくりと酒杯を口に近づけた。
一口。飲んだ。
酒は、思ったよりも辛かった。この島の酒は、アティヤが飲んできたものとは、全然違う。喉に火が灯るような感覚。目が、少し滲んだ。
零零七の霊魂たちは、ほぼ同時に、それぞれの酒杯に口を付けた。
この世最後の酒だった。
何千年と続いてきたこの儀式が、今夜、この泉の前で、異国の死者たちにも施される。それは、ある意味で、この島が生きていることの証明だった。人は来る。人は死ぬ。しかし、送り出す者が残る限り、死は孤独ではない。
アティヤは、そのとき気づいた。
霊魂たちが、手を動かし始めていた。
ゆっくりと。しかし、確かに。手が、指が、腕が、特定のパターンで動いている。
それは——
「(……暗号手話……?)」
アティヤの胸に、かつての記憶が蘇った。零零七部隊が使っていた、声を出せない状況での伝達手段。隠密任務の際に用いる、軍独自の手話。
彼らは、アティヤに向かって、手話で語りかけていた。
阿久刀は、それが何かは理解できなかった。しかし、霊魂たちの動きがアティヤに向けられていることは、わかった。だから、何も言わなかった。
東雲も、黙っていた。
ハクは、じっと見ていた。
『ばか野郎』
最初にそう言ったのは、古参の下士官だった。声は聞こえない。手話が語る言葉を、アティヤが脳内で声に変換した。怒っているのか、それとも呆れているのか、あるいは——その言葉に込められているのは、照れ隠しだ。不器用な男が「ばか野郎」と言う時、その中には愛情が含まれている。それを理解する程度には、アティヤはその人を知っていた。
『元気でな』
別の男が続いた。
『未来の旦那を尻に敷くなよ』
それを見て、アティヤは唇を歪めた。生前もそういうことを言っていた男だった。死んでもまだそれを言うのか。
『実は好きだったんだよなぁ』
この男は、生前は素っ気なかったくせに。今さら。今更言うな、と思った。そして、言ってくれてよかった、とも思った。
『あと十年したら良い女になるぜ』
これは上から目線すぎる、とアティヤは思った。しかし否定はしない。十年後まで面倒を見る気があったのか、と思ったが、たぶんそういう意味ではないだろう。
『また拾い食いして腹壊すなよ』
腹壊した話、覚えてたのか、と思った。あれは任務中の特に食べ物がない時期に、道端に落ちていたものを拾ったら、案の定腹を壊した話だ。部隊の間では笑い話になっていた。あれは一度だけだ、とアティヤは心の中で抗議した。
『借りた金返さなくて悪い』
……それは知らなかった。いつの話だ。これは誰だ、とアティヤは思った。しかし思い当たる節が三人ほどいる。でももういい。
『もう自分を責めるんじゃねえぞ』
その手話が出た瞬間、アティヤの視界が滲んだ。
『頑張れよ』
『新しい仲間と仲良くな』
一人、また一人と、手話を終えた者たちから順に、光の形が薄くなっていく。ゆっくりと溶けるように。消えるというより、透けていく、という表現の方が近い。
アティヤは、唇を強く噛んだ。
——わかった。わかったから。
そう心の中で答えながら、涙が頬を伝うのを止められなかった。
内村の姿が、見えた。
彼は、他の者たちよりも少し後ろに立っていた。まるで、最後まで残ろうとしているかのように。
その顔は、笑顔だった。
生前と変わらない、少し幼さの残る笑顔。あの、「まずいことになった」という時に出る苦笑いではなく、本当に心から嬉しいときの、あの笑顔だった。
内村の手が動いた。
『アティヤ上等兵! お元気で! いい相手に会っても慎重に!簡単に騙されちゃだめですよ!意外とお人好しだから! 僕! それだけは心配です!』
アティヤは、思わず笑った。
泣きながら笑う、という表情は、人間にしかできない。感情が矛盾しているようで、実は矛盾していない。悲しいから笑う。もうこれ以上悲しむ方法がわからなくなって、笑うしかない。
「……おせっかいなやつ……」
声が、漏れた。
それは、まぎれもなく、アティヤの本心だった。内村は生前も、過剰なくらいに人の心配をしていた。自分がひどく傷ついているときも、横にいた仲間の具合を先に気にかけていた。死んでもそれか。
内村らしい。
あの子はそういう子だった。それだけは、確かな真実だった。
内村の形が、溶けていった。
猪木の姿は、一行の端にあった。
他の者たちとは少し距離を置いて、腕を組み、仏頂面のまま立っていた。その姿は、生きていた頃と全く変わらない。死んでも、あの人の性格は変わらないのか。
猪木の目が、アティヤを見た。
その目には、生前の憎悪はなかった。あの刃のような視線ではなかった。ただ、ばつが悪そうな、そして何か言い訳をしたいのに言葉が見つからないような、あの目だった。
猪木の手が、しぶしぶ動いた。
まるで、動かしたくないが仕方なく動かしている、という様子で。
『……あばよ』
それだけだった。
それだけ。言葉を飾らず、謝罪もせず、感謝もせず、ただ「あばよ」。
しかし、アティヤには、その二文字の重さがわかった。
猪木孝介という男にとって、これが精一杯だった。生前、アティヤに向けた言葉の全ての中で、これが最も「本心から出た言葉」だった。誰に強制されるでもなく、死んだ後にようやく絞り出した、飾りのない言葉。
「……あばよ……」
アティヤは、同じ言葉を返した。
猪木の形が、消えた。
最後の瞬間まで、不機嫌な顔のままで。
アティヤは、笑いながら泣いていた。
最後に、栗林が前に出た。
彼は、一行の最後尾にいた。他の者たちが消えるのを、全部見届けてから動いた。指揮官というのは、最後まで残るものなのだ。たとえ死んでいても。
栗林勇二の形は、他の者たちよりも少しだけ鮮明に見えた。
なぜかはわからない。彼が強い意志を持っていたからかもしれない。あるいは、この場所に残りたい理由が、他の者たちよりも多かったからかもしれない。
アティヤが、その目を捉えた。
栗林の目は、優しかった。
アティヤを見る目が、叱っていなかった。責めていなかった。ただ、見守るように、静かに見ていた。
栗林の手が、ゆっくりと上がった。
そして、額に触れた。
それは——敬礼の形だった。
『アティヤ上等兵』
敬礼したまま、手話が続いた。
『君は笑って生きた方がよく似合う』
アティヤは、声を出して泣いた。
しゃくり上げる、ということを、アティヤは滅多にしない。感情を外に出す習慣が、生きてきた環境の中で薄れていたから。しかし今は、それが止められなかった。泣き声が、泉の水音の中に混ざっていった。
栗林の形が、薄くなっていく。
敬礼の手が、最後まで額の傍に残っていた。
そして、消えた。
水が音を立てた。
泉の水面が、ゆっくりと揺れを収めていく。
風が、木々の葉を撫でるように吹いた。松の枝が揺れ、葉が擦れ合う音が、まるで何かを囁くように広がった。
そして、静けさが戻ってきた。
誰も、しばらく口を利かなかった。
東雲は、じっと泉の水面を見つめていた。その目が、少し赤かった。
阿久刀は、空になった徳利を地面に置いた。その動作だけが、静寂の中に音を立てた。
「シノ」
「お師匠様」
「見事だった。ご苦労様」
東雲の顔に、照れが混じった笑みが浮かんだ。
自分でも気づいていなかったことを気づかされたような、少し意外そうな顔だった。それから、目を伏せ、「ありがとうございます」と、小さな声で言った。
アティヤは、内村の遺体が倒れた時にそこにあった感覚を、今初めて手放せた気がした。
ずっと胸の中に詰まっていた何かが、泉の水に流れていくような感覚。それが全部なくなったわけではない。しかし、少しだけ、軽くなった。
泣いてばかりだ、とアティヤは思った。
こんなに泣いたのは、生まれてから初めてかもしれない。貧民街では、泣くことは弱さの証明だった。泣いた瞬間に、それを見た誰かに足元を見られた。だから、泣かなかった。泣かないで、生きてきた。
しかし今は——
泣くことが、何かを保っているような気がした。泣かないでいたら、もっと大事なものが崩れてしまいそうな気がした。だから、泣く。泣けるだけ、泣く。
「帰るぞ」
阿久刀の声が、一行を現実へと呼び戻した。
その声には、疲弊と、それを超えた安堵があった。
阿久刀もまた、何かを手放した夜の顔をしていた。
暁家の屋敷が見えてきた頃、夕陽は完全に沈んでいた。
空には、残照の名残が帯状に走っており、深い紺と燃えるような橙の間に、薄いむらさきが混じり合っていた。それは美しかった。戦場で何人もの命が消えた同じ日に、空は相変わらず美しかった。この世の無頓着さに、阿久刀は時折、奇妙な感謝を覚えることがある。
屋敷の門が見えた。
そして——
「あ」
東雲が、小さな声を出した。
門の前に、人がいた。
一人ではなかった。数十人いた。しかも、全員が甲冑姿だった。明保能宗家の旗が、夕暮れの風に翻っている。
その中心に、一人の男が立っていた。
明保能十勝。
阿久刀の実兄にして、明保能宗家の当主である。
彼は、一行の姿を遠くから認めると、まず深く息を吸った。それから吐いた。そして——笑顔を作った。それは、柔和に見える笑顔だった。傍目には、兄が弟の帰還を喜ぶ笑顔に見えた。
しかし、この笑顔の意味を解読できる者が、この世にどれほどいるだろうか。
阿久刀には、わかった。
あの笑顔は——怒り心頭の、笑顔だ。
「げ……」
阿久刀の口から、情けない声が漏れた。
「よくぞ無事に戻った」
十勝の声は、穏やかだった。
その穏やかさが、むしろ恐ろしかった。嵐の前の静けさというのは、こういうことを言う。
「……兄上、その……」
「今すぐ縛り上げろ。あの大馬鹿者を」
十勝の言葉は静かだったが、内容は明快だった。
宗家の私兵たちが動いた。
阿久刀が抵抗する暇もなかった。いや、抵抗しようとしなかった。この状況では、抵抗することが無意味であることを、阿久刀は長年の経験から知っていた。それに——兄が出てきた時点で、何を言っても無駄だということも。
縄が、阿久刀の腕をまとめた。ぐるぐると、雁字搦めに。
「これには事情が……」
「後で根掘り葉掘り聞いてやる。覚悟しておけ」
十勝の笑顔は、変わらなかった。
その変わらなさが、説明の余地を一切与えない強さを持っていた。
阿久刀は、縄で縛られたまま、口を閉じた。
十勝の視線が、ハクへと向けられた瞬間、その表情が変わった。
笑顔が消えた。そして——深い敬意が現れた。
十勝は、その場に平伏した。
宗家当主が、地に額を付けて伏した。
「畏れ多きこと。聖上におかれましては、長らくご不便をおかけしたことお詫び申し上げます」
その言葉は、礼節を全て備えていた。阿久刀に向けた怒りとは全く異質の、丁寧な言葉だった。
「天車を用意しております。どうぞこちらへ」
天車——空を駆ける馬車。朝廷が白帝の移動のために用意する、特別な乗り物。それが、すでに準備されていた。つまり十勝は、阿久刀が白帝を連れて帰ってくることを、ある程度予測していたのだ。
ハクは、十勝の平伏を静かに見下ろした。
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、受け取った。この礼を、ただ受け取った。
ハクは、天車へと歩んだ。
東雲が、最後まで傍らに付き添った。天車の扉が開かれ、中にハクが乗り込む直前、ハクが一度だけ振り返った。
誰に向けた視線だったかは、わからない。
しかし、その目は——別れを告げるものだ。ハクは天車の中に座ると御身を隠された。
「ど、どうすんの!?」
アティヤが、東雲に小声で囁いた。
状況が理解できていないのではなかった。理解した上で、どうすべきかがわからなかった。
「どうするといわれても……どうしたら……」
東雲も、小声で困惑を返した。
二人は、それを傍らで見ていた。
縛られた阿久刀。平伏する十勝。整列する宗家の私兵たち。出発する天車。
清子が、屋敷の門の傍らに静かに立っていた。いつからそこにいたのかは、誰も気づかなかった。彼女の白い髪が——月が昇り始めた空を背景に、一本の糸のように静かに揺れていた。その目は、二人に向けられていた。あたふたする二人を、静かに見守っているだけだ。
「……護送、されるの?」
アティヤは、縛られた阿久刀に向かって、小声で尋ねた。
阿久刀は、振り返ることもせずに答えた。
「そうなるな」
「……大丈夫なの?」
「問題ない。兄上は、最終的には俺の味方だ。面倒な経緯を辿るが、結果はそうなる」
「面倒な経緯って」
「しばらく、しっかり叱られる」
その言い方があまりにも素直だったため、東雲とアティヤは思わず顔を見合わせた。
この人が「しっかり叱られる」と言うとき、それは一般的な「叱られる」の三倍から五倍の重みを持っているであろうことは、東雲には経験上わかっていた。
「行くぞ」と十勝の声がして、阿久刀は静かに連行された。
縛られたまま、それでも背筋は伸びていた。
その姿は、なぜかわからないが、滑稽ではなく、どこか潔かった。




