運命の章 3話
馬蹄が石畳を打つ音が、夕刻の静寂に響き渡った。
明保能阿久刀は愛馬の手綱を引き締めながら、そびえ立つ隼人殿の大門前で馬を止めた。西日が城壁の白漆喰に朱を落とし、まるで巨大な生き物が血を流しているかのような錯覚を覚える。その光景に、阿久刀は言い知れぬ不吉な予感を覚えた。
門番たちは槍を構え、警戒の色を露わにした。しかし、近づく者が阿久刀であることを認めると、まるで毒蛇を見たかのように一瞬身を硬くし、それから慌てて槍を引いた。
「これは……暁家の若様」
門番の一人が困惑したような口調で呼びかけた。「若様」という呼称には、かつての栄光と現在の微妙な立場が同居していた。阿久刀はその複雑な響きに、苦い笑みを心の内で浮かべた。
「宗家のご当主にお目通り願いたい」
阿久刀の声は静かだったが、そこには有無を言わせぬ威厳があった。門番は一瞬躊躇したあと、深く頭を下げた。
「しばしお待ちを。到着をお伝え致しますので」
一人の門番が城内へと駆けていく後ろ姿を見送りながら、阿久刀は馬上で待った。碧天は姿を消したまま、しかし確かにそこにいる気配を漂わせている。
待つ間、阿久刀は久方ぶりに隼人殿の威容を眺めた。
この城は、単なる武家の居城ではない。千年の歴史を刻む、北部の誇りそのものであった。
敷地の中央には、主人が住まう「寝殿」が鎮座している。その東西北の三方には家族が居住する「対の屋」が配され、それらを「渡殿」や「透渡殿」と呼ばれる優美な廊下が結んでいた。
寝殿の南には見事な池泉回遊式庭園が広がり、東西の対の屋から延びる「中門廊」の先には、納涼や遊宴のための「釣殿」と「泉殿」が水面に影を落としていた。
建築様式は古式ゆかしい寝殿造りを基調としながらも、随所に界外からもたらされた技術が取り入れられていた。それらは島に漂着した大陸の技術者たちが、命と引き換えに伝えた知識の結晶であった。
「許されぬ知識」と「必要な進歩」の狭間で、この城は絶妙な均衡を保っていた。それはまさに、神秘と現実の境界に立つ明保能一族の立場を象徴しているかのようであった。
阿久刀の視線が、城の最奥にある天守に向けられた。そこには明保能宗家の旗印が風に翻っている。かつて自分もその旗の下で戦った日々を思い返し、阿久刀は複雑な感慨に囚われた。
「お待たせいたしました」
門番が戻ってきた。その表情には安堵と緊張が入り混じっていた。
「ご入城を許可されました。釣殿にてお待ちくださいとのことでございます」
釣殿へと案内された阿久刀は、そこでまた待つことになった。
これも政治的な駆け引きの一環であることを、阿久刀は理解していた。すぐに会わないことで、力関係を示そうとしているのだ。兄の立場を考えれば、それも致し方ないことであった。
「どうぞ」
侍女が恭しく茶と菓子を運んできた。供されたのは落雁――米や豆、蕎麦、栗などの粉に水飴や砂糖を混ぜ、型に押し固めて乾燥させた干菓子であった。その繊細な甘さが口中に広がる。
『旨い旨い』
碧天が姿を現し、豪快に落雁を頬張った。その食べっぷりは、神の化身とは思えぬほど無邪気であった。
「本当に甘いものが好きだな」
阿久刀が苦笑すると、碧天は悪戯っぽく顎を開いた。
『食わぬなら食ろうてやるぞ』
「やらない。俺の分だ」
二人の間には、長年連れ添った者だけが持つ、言葉を超えた親密さがあった。碧天が自分の分を平らげ、物欲しげに阿久刀の分を見つめると、阿久刀は慌てて残りを口に放り込んだ。
「食べすぎるなよ。太った神様など笑えないぞ」
『我は肥らぬ』
「嘘つけ。現に受肉している身で――」
人の気配に、阿久刀は言葉を切った。
廊下から現れたのは、老年の武士であった。
威厳ある佇まい、鋭い眼光、そして歳月が刻んだ深い皺。それらすべてが、この男が幾多の戦場を生き抜いてきた歴戦の武人であることを物語っていた。
「失礼する」
男は釣殿に入ると、阿久刀の前で膝をついた。
「お久しぶりですな、若君。碧天様」
新渡戸十次――明保能宗家に仕える重臣にして、名門新渡戸家の当主であった。
「二年ぶりです、新渡戸殿」
阿久刀も礼を返した。十次の表情に一瞬、困惑の色が浮かんだが、それを口にすることはなかった。主従の関係が複雑に入り組んだこの状況を、言葉で表現することの難しさを両者とも理解していた。
阿久刀は新しい茶を淹れ、十次に差し出した。そして気づいた――十次が酒瓶を携えていることに。
「隼人殿はご用事で?」
何気ない問いかけだったが、十次の表情が曇った。
「しかり。揉め事の後始末の報告に参った次第です」
「揉め事とは?」
十次は池の鯉に視線を向けた。水面に映る夕日が、血のように赤い。
「妓女の取り合いで若い者が喧嘩騒ぎを起こし、最後は殺し合ったのです。一人は死に、一人は腕を斬られ、もはや刀は握れぬ身体となりました」
「それは……一騒動ですね」
阿久刀は詳細を聞くことを控えた。若者が色恋に溺れ、取り返しのつかない事態に至る――そんな悲劇は、いつの世も絶えることがない。
「いかなる処分になったので?」
阿久刀の問いに、十次は懐から折り畳んだ紙を取り出した。開くと、そこには一房の黒髪があった。処刑された者の遺髪であることは明白であった。
「……残念です」
十次の声には深い哀しみが滲んでいた。
「喧嘩両成敗となり斬首刑に。先程、そやつの首を刎ねるのを見届けて参りました」
「ご配下でしたか?」
「いいえ」
十次は首を横に振った。
「古い戦友の子です。幼少から見知っておりました」
「名を伺っても?」
「高尾野朋目という者です」
高尾野家――下級武士の家柄であった。阿久刀には馴染みが薄いが、その名に覚えはあった。
阿久刀は立ち上がり、鈴を鳴らした。現れた侍女に酒器を三つ持ってくるよう命じる。
「その酒をもらえますか?」
十次から受け取った酒瓶を開けると、澄んだ液体からほのかに甘い香りが立ち上った。阿久刀は運ばれてきた三つの酒器に静かに酒を注いだ。
「弔いの酒に付き合わせて頂きます」
「しかし、ご迷惑を――」
「すでにはみ出し者です。お気になさらず」
阿久刀の言葉には、自嘲と優しさが入り混じっていた。おそらく高尾野家は表立って葬儀を行うこともできず、ひっそりと弔うしかないだろう。新渡戸もただ一人で冥福を祈るつもりだったに違いない。
新渡戸は深く頭を下げ、差し出された猪口を受け取った。
「……ありがとうございます」
二人は無言で酒を飲み干した。そして新渡戸は三つ目の酒器を取り、中身を地面に撒いた。死者への手向けである。
しばしの間、二人は黙祷するように静かに酒を酌み交わした。夕闇が釣殿を包み始め、池の水面に映る月が揺らめいていた。
「若君のおかげで、心が軽くなりました。お気遣い、まことに感謝致します」
新渡戸は両手をついて深々と頭を下げた。
「幼い頃、世話になった。その礼です」
阿久刀の言葉は簡潔だったが、そこには深い情が込められていた。
舎人が現れ、阿久刀を呼んだ。
「失礼致します。阿久刀様、殿がお呼びでございます」
「そうか」
「では某も失礼するといたします」
新渡戸は一礼して立ち去った。その後ろ姿には、時代の重荷を背負う者の哀愁が漂っていた。
阿久刀は碧天と共に、舎人の案内に従って釣殿を離れた。
向かう先は庭園の最奥――主人の許可なくしては決して立ち入ることのできない禁域であった。月光が石畳を照らし、二人の影を長く伸ばしている。
運命の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めていた。




