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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子


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29/29

運命の章 29話

血の匂いが、潮風に溶けて消えていく。

明保能阿久刀の咒刀が描いた銀色の軌跡は、既に空気の中に溶け込んでいた。しかし、その一閃が為したことの痕跡は――天蓋向日葵の白い首筋に、紅い線となって刻まれている。

静寂が、訪れた。

いや、静寂ではない。波の音が聞こえる。風が草木を揺らす音が聞こえる。遠くで鳥が鳴く声が聞こえる。しかし――人の声だけが、消えていた。阿久刀も、東雲も、アティヤも、誰もが息を詰めて、次の瞬間を待っていた。

向日葵の首が――ゆっくりと、身体から離れ始めた。

重力という、この世界を支配する絶対法則に従って。

それは、ある意味では美しい光景であった。

長く綺麗な髪が、風に揺れる。柔らかな頬に、陽光が当たる。僅かに開いた唇からは、何の言葉も漏れない。ただ――静かに、向日葵の首は、地面へと落ちようとしていた。

東雲は――その光景を見て、深く息を吐いた。

「(……終わった……)」

東雲の心の中で、安堵の言葉が響いた。

この狂気に満ちた女が――ようやく、この世から消える。

アティヤを誑かし、白帝を拐かそうとし、そして――多くの人々を巻き込んで混乱を引き起こした、この女が。

もう二度と、誰かを傷つけることはない。

東雲は、そう信じた。

しかし――

「あらぁ」

呑気な声が、響いた。

その声は――あまりにも場違いであった。まるで、朝の挨拶をするかのような、明るく、柔らかな声。それが、首を切られた者の口から発せられるなど――常識では、考えられない。

東雲の思考が――停止した。

何が起きているのか。

理解できない。

いや、理解したくない。

向日葵の両手が――素早く動いた。

その動作は、驚くほど正確である。まるで、何度も練習してきたかのような、無駄のない動き。向日葵の手が、落ちかけていた自分の首を――掴んだ。

両手で、丁寧に。

そして――

首を、元の位置に押し当てた。

切断面と切断面が、ぴたりと合わさる。

血が、滴り落ちる。しかし――向日葵は、気にしなかった。むしろ、満足そうな表情すら浮かべている。

「ちょっと痛いですけど」

向日葵の声が、再び響いた。

その声は――相変わらず、呑気である。まるで、軽い擦り傷を負ったことを報告するかのような、気楽な調子だ。

向日葵は、片手で首を押さえたまま、もう片方の手で帯を解き始めた。その動作は、優雅である。着物を脱ぐ時のような、女性らしい仕草。しかし――その目的は、傷口を縛ることであった。

帯が、首に巻かれる。

一周、二周、三周――

きつく、きつく縛り上げられていく。

そして――向日葵は、懐から何かを取り出した。

それは――釘であった。

鉄製の、太い釘。大工が木材を固定する時に使うような、無骨な道具。

向日葵は――その釘を、自分の首に突き刺した。

ブスリ、という生々しい音が響いた。

肉を貫く音。骨に突き刺さる音。それらが混じり合って、耳障りな不協和音を奏でる。

しかし――向日葵は、表情一つ変えなかった。

「しゃべれるから我慢しますねぇ」

向日葵の声は――依然として、明るい。

その言葉と共に、向日葵は首を左右に動かしてみせた。釘が、首の肉に食い込む音がする。しかし、首は――固定されていた。もう、落ちることはない。

東雲は――言葉を失っていた。

口が、開いたまま閉じない。目は、見開かれたまま瞬きすらできない。全身が、硬直している。

「(……なん……なんなの……これ……)」

東雲の思考は、混乱していた。

目の前で起きていることが――理解できない。

首を切られた人間が、生きている。

それは、常識外である。

しかし、それだけではない。

首を切られた人間が――自分で首を固定している。

そして――何事もなかったかのように、喋っている。

これは――現実なのか?

それとも――悪夢なのか?

東雲の心の中で、現実と幻影の境界が揺らいでいた。

アティヤもまた――青ざめていた。

その顔は、蒼白を通り越して、灰色に近い。唇は震え、全身から脂汗が滲み出ている。

「(……ひまわり……あなた……)」

アティヤの心の中で、恐怖が広がっていく。

この女は――本当に、人間なのか?

アティヤは、向日葵を人間だと思っていた。

確かに、少し変わっている。常識が通じないところもある。しかし――それでも、人間だと。

しかし――

今、目の前で起きていることは――人間の所業ではない。

これは――化物だ。

人の姿をした、化物。

阿久刀は――その光景を見て、僅かに眉を寄せた。

「……首を切って生きてるだと?」

阿久刀の声は、低かった。

しかし――その奥には、深い困惑が滲んでいた。

阿久刀は、これまで多くの戦場を生き抜いてきた。数え切れぬほどの敵を斬り、そして――数え切れぬほどの異常な光景を目の当たりにしてきた。

しかし――

首を切られて生きている人間など――見たことがなかった。

いや、そもそも――そのようなことが可能なのか?

阿久刀の脳裏に、様々な可能性が駆け巡る。

咒か。

術か。

それとも――この女自身が、人間ではないのか。

向日葵は――阿久刀の困惑など意に介さず、にっこりと微笑んだ。

その笑顔は――変わらず、美しい。

柔和で、優しげで、そして――どこか無邪気である。

まるで、何事もなかったかのように。

「アティヤが言ってたの」

向日葵の声が、朗らかに響いた。

「努力と根性で大抵のことはどうにかなると」

その言葉に――アティヤの顔が、さらに青ざめた。

「(……そんなこと……言った……?)」

アティヤの記憶を、必死に辿る。

確かに――そのようなことを、言ったかもしれない。

いや、言った。

零零七部隊で訓練を受けている時、教官がそう言っていた。「努力と根性があれば、どんな困難も乗り越えられる」と。

アティヤは――その言葉を覚えていた。

そして――向日葵に、そのことを話したのかもしれない。

しかし――

まさか、その言葉が――こんな形で使われるとは。

「それなら死ぬことも努力すれば死なないようにできるんじゃないかなぁと」

向日葵の声は――相変わらず、呑気である。

その論理は――あまりにも飛躍していた。

努力と根性で困難を乗り越える――それは、精神論である。訓練や鍛錬によって、己の限界を超える。そのような意味だ。

しかし――

すでに死に至りながら死を退けることに、努力と根性が通用するのか?

常識的に考えれば――通用しない。

死は、絶対である。

どれほど努力しようとも、どれほど根性があろうとも――死ぬ時は死ぬ。

それが、この世の理である。

しかし――

向日葵は、その理を――否定したのだ。

「だから首を切られても傷口同士をぴったりくっつけて押さえておけばどうにかなると思ったんです」

向日葵は、丁寧に説明した。

その口調は――まるで、学校で先生が生徒に授業をするかのような、教育的な響きを帯びている。

訳のわからない説明。

常識では理解できない論理。

しかし――向日葵は、それを実行した。

そして――成功したのだ。

阿久刀は――深く息を吐いた。

そして――再び、咒刀を構え直した。

その刃が、向日葵を捉える。

今度は――容赦しない。

「身体を真っ二つにされても同じことが言えるのか?」

阿久刀の声は――冷徹であった。

その目には――明確な殺意が宿っている。

次は――八つ裂きに切り刻む。

それが、阿久刀の決意であった。

向日葵の首を切っただけでは――足りなかった。

ならば――完全に破壊する。

肉を裂き、骨を砕き、内臓を引き裂く。

そうすれば――さすがの向日葵も、生き延びることはできないだろう。

阿久刀の咒刀が――淡く輝き始めた。

途上点が、発動される。

刃に込められた咒の力が、増幅されていく。

向日葵は――その光景を見て、僅かに表情を曇らせた。

しかし――恐怖の色は、その顔には浮かんでいない。

むしろ――何か別の感情が、向日葵の瞳に宿っていた。

それは――期待であった。

「見せろ。死ぬ前に、お前の本性を」

阿久刀の声が――静かに、しかし明確に響いた。

その言葉は――命令であった。

向日葵という女の――真の姿を見せろ、と。

これまで、向日葵は仮面を被っていた。

優雅で、おっとりとした、柔和な少女――という仮面を。

しかし――その仮面の下には、何があるのか。

阿久刀は――それを見たかった。

いや、見なければならなかった。

この女を殺す前に、その本質を理解しておかなければ――後に禍根を残す可能性がある。

向日葵は――阿久刀の言葉を聞いて、にっこりと笑った。

その笑顔は――これまでで最も美しいものであった。

まるで、待ち望んでいた瞬間が訪れたかのような――歓喜に満ちた笑顔。

そして――

向日葵は、叫んだ。

「ああああああ!!!!」

その声は――魂の底から絞り出されたものであった。

「聖上様!!」

向日葵の両手が、白帝の方向へと伸ばされる。

その仕草は――まるで、愛する者に抱きつこうとするかのような、切実なものであった。

「愛しています!!愛しております!!」

向日葵の声が――さらに大きくなった。

その声には――抑えきれない情熱が込められている。

それは――もはや、愛などという言葉では言い表せぬほどの、狂気に満ちた執着であった。

「その唇を口の中をわたしの唾液でどろどろに汚してあげたい!!」

向日葵の言葉が――さらに過激になっていく。

その内容は――もはや、愛の告白などではない。

これは――欲望の吐露である。

肉欲と、執着と、そして――狂気が混じり合った、恐るべき欲望。

「あなたの纏ったもの全てでわたしを包んで欲しい!!」

向日葵の声は――陶酔に震えていた。

「星の光のような目も!!桃のような甘い肌も!!千の花の香りの吐息も!!」

その言葉は――詩的ですらあった。

しかし――その詩は、狂気の詩である。

「わたしのものです!!」

向日葵の叫びが――所有欲を露わにした。

「百日でも!!十年でも!!千年でも!!あなたと交わり続けたい!!」

その言葉に――東雲とアティヤは、思わず顔を背けた。

あまりにも――卑猥である。

いや、卑猥などという言葉では、到底その異常さを言い表すことはできない。

これは――狂気そのものだ。

「溺れたい!!爛れたい!!食べたい!!むしゃぶりつきたい!!」

向日葵の声が――最高潮に達した。

「あなたが欲しいいいいいいいい!!!!」

その叫びは――まるで、舞台に立つ役者が、観客に向かって愛を叫ぶかのようであった。

身振り手振りを交えて。

全身で感情を表現して。

まさに――本心の演技である。

しかし――その演技は、真実の狂気から生まれたものだ。

向日葵は――本気で、白帝を愛しているのだ。

いや、「愛」などという言葉では――その感情を言い表すことはできない。

これは――執着である。

所有欲である。

そして――破滅への渇望である。

白帝と共に、破滅したい。

それが、向日葵の真の願いであった。

阿久刀は――その光景を見て、心底、見下げ果てた。

「……もういい」

阿久刀の声は――冷たかった。

その声には――嫌悪が滲んでいる。

もう、これ以上――この女の狂気を見る必要はない。

十分に、理解した。

この女は――救いようがない。

ならば――殺すしかない。

阿久刀は――咒刀を振り上げた。

次の一撃で――完全に、この女を葬る。

しかし――

その僅かな隙を、向日葵は見逃さなかった。

向日葵の身体が――爆発的な速度で動いた。

阿久刀に向かって――飛びかかる。

そして――

阿久刀の身体に、抱きついた。

その動作は――素早く、そして確実であった。

阿久刀は――反応が遅れた。

向日葵の動きが、予想外だったのだ。

首を切られて、釘で固定している状態で――これほどまでに素早く動けるとは。

向日葵の腕が、阿久刀の背中に回される。

その抱擁は――強く、しかし優しい。

まるで、長年愛した恋人を抱き締めるかのような――情愛に満ちた抱擁であった。

「……あぁ……そう……そうだったんですね」

向日葵の声が――阿久刀の耳元で囁かれた。

その声は――合点がいったとでも言いたげな、納得の響きを帯びている。

阿久刀は――向日葵を振りほどくこともせず、ただ黙って見つめた。

この女が、何を言おうとしているのか。

それを、聞く必要があった。

向日葵は――阿久刀の顔に手を添えた。

その手は――柔らかく、温かい。

まるで、恋人の頬を撫でるかのような、優しい仕草。

「恋を知らない哀れなお方…」

向日葵の声が――憐憫を帯びた。

その言葉は――阿久刀を憐れんでいるのだ。

恋を知らない――それが、向日葵にとっては、最も不幸なことなのだろう。

向日葵の舌が――阿久刀の右頬を舐め上げた。

ベロリ、という生々しい音が響く。

その感触は――湿っていて、温かく、そして――気持ち悪い。

阿久刀の全身に、悪寒が走った。

しかし――阿久刀は、表情一つ変えなかった。

ただ、黙って――向日葵の行為を受け入れた。

向日葵は――その反応を見て、さらに愛しさを覚えた。

この男は――何があっても、動じない。

顔色一つ変えない。

その冷徹さが――向日葵の心を激しく揺さぶった。

「(……ああ……この人も……素敵……)」

向日葵の心の中で――新たな欲望が芽生えた。

しかし――その欲望は、即座に押し殺された。

向日葵にとって――白帝以外は、全て無意味なのだ。

どれほど魅力的な男であろうとも。

どれほど強い男であろうとも。

白帝に比べれば――塵芥に等しい。

「恋とはこれほどに素敵なものなんですよぉ」

向日葵の声が――蕩けるように甘く響いた。

その声は――まるで、秘密を打ち明けるかのような、親密な響きを帯びている。

阿久刀は――短く答えた。

「そうか」

その声は――平坦であった。

何の感情も込められていない。

ただ――事実を受け入れた、という調子である。

向日葵は――その反応に、僅かに失望した。

もう少し――何か反応が欲しかった。

怒りでもいい。

嫌悪でもいい。

何か――強い感情を見せて欲しかった。

しかし――阿久刀は、何も見せなかった。

ならば――

向日葵は、阿久刀の身体から手を離した。

そして――後ろへと飛んだ。

その動きは――軽やかである。

まるで、鳥が羽ばたくかのような、優雅な跳躍。

向日葵の身体が――崖の方向へと向かった。

そして――

「……あぁ…甘いです」

向日葵の声が――最後の言葉を告げた。

その声には――満足が込められている。

阿久刀の頬を舐めた――その味が、甘かったのだろう。

いや、違う。

向日葵にとって――この瞬間そのものが、甘美だったのだ。

白帝への愛を叫び。

阿久刀に抱きつき。

そして――この世から消える。

それが――向日葵にとっての、完璧な幕引きであった。

向日葵の身体が――崖から身を投げた。

その動作は――躊躇いがない。

まるで、水に飛び込むかのような、気軽さすらある。

向日葵の身体が――空中を舞った。

白亜色の髪が、風に揺れる。

着物の裾が、翻る。

そして――

向日葵の姿が――崖の向こうへと消えていった。

「ひまわりッ!!!」

アティヤの叫び声が――岬に響き渡った。

その声は――魂の底から絞り出されたものであった。

アティヤは――走った。

崖際まで――必死に走った。

そして――崖の縁に辿り着くと、身を乗り出して――下を覗き込んだ。

そこには――

ただ、波飛沫が見えるだけであった。

白く泡立つ波が、岩に打ちつけられている。

その音が、遠くから聞こえてくる。

しかし――向日葵の姿は、どこにもなかった。

海に呑まれたのか。

それとも――岩に打ちつけられて、砕け散ったのか。

いずれにせよ――向日葵は、もういない。

「……う…うぅ………うあぁぁ……………」

アティヤは――うなだれて泣いた。

その肩が、激しく震えている。

涙が、頬を伝って流れ落ちる。

そして――地面に、ポタポタと落ちていく。

アティヤの心は――引き裂かれていた。

向日葵は――確かに、アティヤを利用した。

愛していると言いながら――実際には、白帝を手に入れるための道具として扱った。

その事実を、アティヤは理解している。

しかし――

それでも、アティヤは――向日葵を愛していた。

生まれて初めて、愛してくれた人。

生まれて初めて、必要としてくれた人。

たとえ、それが虚構であったとしても――アティヤにとっては、真実だったのだ。

だから――

向日葵の死が――アティヤの心を深く抉った。

阿久刀は――そんなアティヤの様子を、静かに見つめていた。

そして――自分の右頬に手を当てた。

向日葵が舐めた場所。

その感触が、まだ残っている。

阿久刀は――その場所を、手で拭った。

しかし――感触は消えなかった。

「(見事に毒を遺していった…不遜な女だ…)」

阿久刀の心の中で――苦々しい思いが渦巻いた。

己の手で殺せなかった。

それが――阿久刀にとって、酷く心残りであった。

向日葵という女は――最後まで、自分の意志で行動した。

阿久刀に斬られることなく。

自ら、死を選んだ。

それは――ある意味では、敗北であった。

阿久刀が、向日葵を完全に支配することはできなかった。

向日葵は――最後まで、自由であった。

その事実が――阿久刀の心に、小さな棘のように刺さっていた。

風が――冷たすぎる風が吹いた。

それは、まるで――冬の訪れを告げるかのような、凍てつく風であった。

草木が、激しく揺れる。

海が、荒れ始める。

そして――

白帝が、動いた。

碧天の傍らを離れて――崖際まで歩く。

その足取りは――静かである。

しかし――その一歩一歩に、絶対的な意志が込められていた。

「聖上様……?」

東雲の声が――不安げに響いた。

白帝が、何をしようとしているのか。

それが、東雲には分からなかった。

東雲は――白帝の後を追おうとした。

しかし――

『邪魔立てするな』

碧天の声が――東雲を制止した。

その声には――明確な命令の響きがあった。

碧天に止められ――阿久刀もまた、ただ白帝を見守ることしかできなかった。

白帝は――崖際に立った。

その向こうには――海が広がっている。

そして――遥か遠くには、巨大な鉄の船が浮かんでいた。

戦艦・闇御津羽。

界外の技術が生み出した――鉄の巨人。

八岐大蛇を越えて、この島に辿り着いた――唯一の船。

白帝の瞳が――その船を捉えた。

そして――

白帝の唇が、ゆっくりと動いた。

「『人ノ粒』」

その声は――小さかった。

しかし――

今まで聞いた誰の声よりも、心に響き渡る強い声であった。

それは――神の声であった。

テンの声。

この世界を創造し、支配する――神の声。

阿久刀は――その声を聞いて、全身が震えた。

これは――咒だ。

いや、咒などという生易しいものではない。

これは――神咒である。

神が直接発する、絶対の命令。

それに逆らうことは――この世界の理に逆らうことを意味する。

「『罷レ』」

白帝の声が――再び響いた。

その声は――簡潔であった。

しかし――その言葉が意味することは、明確である。

去れ。

消えろ。

この世から、失せろ。

それが――テンの命令であった。

白帝の手が――伸ばされた。

戦艦・闇御津羽に向けて。

その手は――細く、白く、そして――神々しい。

まるで、世界そのものを掌握しているかのような――絶対的な存在感を放っていた。

阿久刀は――即座に、戦艦に視線を移した。

そして――

目の当たりにした。

神の怒りを。

戦艦・闇御津羽が――軋み始めた。

その音は――遥か遠くにいる阿久刀たちにも、はっきりと聞こえてきた。

ギシギシギシ、という――金属が軋む音。

それは――まるで、巨大な獣が呻いているかのような、不気味な音であった。

巨大な鉄の船が――海の上で、ひしゃげていく。

ゆっくりと。

しかし――確実に。

船体が、内側から圧縮されていく。

まるで、巨大な手に握り潰されているかのように。

船の煙突が、折れ曲がった。

船橋が、崩れ落ちた。

甲板が、陥没していく。

そして――船体そのものが、どんどん小さくなっていく。

その光景は――あまりにも非現実的であった。

巨大な戦艦が――まるで紙細工のように、容易く潰されていく。

中にいる者たちが、どうなっているのか。

想像もできない。

いや、想像したくない。

おそらくは――即死であろう。

圧縮される船体に押し潰され、肉も骨も――全てが一緒くたになって、潰されていく。

その苦痛を感じる間もなく――死んでいくのだろう。

それは――ある意味では、慈悲であった。

阿久刀は――その光景を、ただ黙って見つめていた。

東雲もまた――言葉を失っていた。

アティヤは――崖際に座り込んだまま、遠くの光景を見ることもできずにいた。

そして――

戦艦・闇御津羽は――透明な爆発に飲み込まれた。

それは――爆発などという言葉では、到底言い表せぬほどの、凄まじい現象であった。

空間そのものが――歪んだ。

海が――吹き飛んだ。

空が――裂けた。

全てが――一瞬で消し飛んだ。

そして――

静寂が、訪れた。

戦艦・闇御津羽は――もう、そこにはなかった。

跡形もなく――消え去っていた。

まるで――最初から存在しなかったかのように。

天の白帝は――その光景を、徹底的なまでに淡々と、冷徹に見届けた。

その表情には――何の感情も浮かんでいない。

喜びも、悲しみも、怒りも、何もない。

ただ――為すべきことを為した。

それだけであった。

そして――

白帝の身体が、僅かに揺らいだ。

器が――交代する。

テンが、眠りにつく。

そして――ハクが、表に出た。

ハクは――表に出るなり、疲労のあまり地面に膝をついた。

その身体は――激しく震えている。

呼吸が、荒い。

顔は、蒼白である。

神の力を行使することは――器にとって、あまりにも重い負担なのだ。

「聖上」

阿久刀の声が――ハクに届いた。

阿久刀は――非礼と承知した上で、ハクを抱えるようにして支えた。

その動作は――慎重である。

ハクの身体に、無理な負担をかけないように。

ハクは――ぱちくりと大きくまばたきをした。

そして――口をつぐむ。

心なしか――顔がほんのり赤いような気がした。

ハクは――初めて、男に抱えられたのだ。

幻夢郷宮では、誰も――ハクに触れることは許されなかった。

神を宿す器に触れることは――最大級の不敬であるとされているから。

しかし――今、阿久刀は、そのような礼儀を無視して、ハクを支えている。

その温もりが――ハクの心に、何か新しい感情を芽生えさせていた。

それが何なのか――ハク自身にも、まだ分からない。

しかし――嫌ではなかった。

むしろ――心地よかった。

『終いだ。屋敷に帰るぞ。我は酒を飲みたい』

碧天の声が――大あくびと共に響いた。

その声には――眠気が滲んでいる。

碧天もまた――この戦いで、力を使ったのだ。

震駭を踏み潰すために、少しばかり本来の姿に戻したのだ。

それは――神獣にとっても、負担のかかる行為なのだ。

だから――碧天は、酒を飲みたかった。

美味い酒を、たらふく飲んで、ゆっくり眠りたかった。

阿久刀は――ハクを東雲に預けた。

「頼む」

その言葉は、簡潔であった。

しかし――そこには、深い信頼が込められている。

東雲は――深く頷いた。

「はい」

東雲は――ハクを慎重に支えた。

その動作は――まるで、最も貴重な宝物を扱うかのような、丁寧さであった。

阿久刀は――アティヤに歩み寄った。

アティヤは――崖際に座り込んだまま、動かない。

その背中は――小さく震えている。

泣いているのだ。

向日葵の死を――悼んでいるのだ。

「アティヤ」

阿久刀の声が――アティヤの背中に届いた。

しかし――

「……………」

アティヤは――返事をしなかった。

ただ、黙って――海を見つめ続けている。

向日葵が消えた場所を。

向日葵が飛び込んだ海を。

「あたしも…死んだほうがいいのかもね……」

アティヤの声が――掠れて響いた。

その声には――深い絶望が滲んでいる。

アティヤは――もう、生きる意味を失っていた。

仲間を裏切った。

愛した人に利用された。

そして――その人は、死んだ。

ならば――自分も死ぬべきなのではないか。

アティヤの心の中で――そのような思いが渦巻いていた。

しかし――

「それは困る。お前は我が家の客だ」

阿久刀の声が――静かに響いた。

その声には――明確な拒絶が込められている。

アティヤに――死ぬことを許さない。

それが、阿久刀の意志であった。

「もうそんな必要ないでしょ」

アティヤの声は――なげやりであった。

もう、どうでもいい。

全てが、どうでもいい。

アティヤの心は――空っぽになっていた。

しかし――

「そうか。なら飯代と寝床代と協力した代金を払え。ついでに厠代も払ってもらうぞ」

阿久刀の声が――あっけらかんと響いた。

その声には――何の深刻さもない。

まるで、日常の些事を話すかのような、気楽な調子である。

そして――阿久刀が提示した金額は――

「五百万圓だ」

その数字を聞いて――

アティヤの目が、点になった。

「……………え?」

アティヤの思考が――停止した。

五百万圓。

それは――一年間、派手に遊んで暮らせる金額である。

いや、それ以上だ。

普通に生活すれば――五年は暮らせるだろう。アティヤなら七年は暮らせる自信がある。

その金額を――払え、と?

「ふ…ふ……」

アティヤの身体が――わなわなと震え始めた。

そして――

「ふざけんじゃないわよーーー!!!」

アティヤの叫び声が――岬全体に響き渡った。

その声には――怒りが満ちている。

絶望から――一気に、怒りへと転換したのだ。

「払えるわけないでしょ!!」

アティヤは――立ち上がった。

そして――阿久刀の胸倉を掴んだ。

その手には――力が込められている。

「軍人の薄給なめんなーーー!!!」

アティヤの懐は――いつも寒かった。

温かかったことなど――一度もない。

貧民街で育ち、軍に入隊してからも――ずっと、金に困っていた。

五百万圓など――あるわけがない。

むしろ――アティヤの方が、欲しかった。

阿久刀は――そんなアティヤの様子を見て、僅かに口元を緩めた。

「暁家の家訓で、貸した金は必ず取り返すべし、とある」

阿久刀の声は――相変わらず、あっけらかんとしている。

「絶望するのは自由だが、金を返すまでそんな暇は与えない」

その言葉には――明確な意図があった。

アティヤに――生きる理由を与えるのだ。

借金を返すために――生きなければならない。

それが――アティヤを縛る鎖となる。

「ちゃんと我が家でしっかりと働いてもらう」

阿久刀の声が――静かに響いた。

「だから!………ん?…はたらく?」

アティヤは――ようやく、阿久刀の言葉の意味を理解した。

働く――つまり、暁家で雇ってくれる、ということか?

「行くあてがないならしばらく暁家で暮らせ」

阿久刀は――アティヤに手を差し出した。

その手は――大きく、温かそうである。

「ちょうど一人、物好きを雇いたいところだった」

その言葉には――僅かな笑みが込められていた。

物好き――それは、アティヤのことを指しているのだろう。

アティヤは――その手を見つめた。

そして――

ゆっくりと、自分の手を伸ばした。

阿久刀の手を――握った。

その手は――予想通り、温かかった。

そして――力強かった。

「……………ぅん……うん………」

アティヤの声は――掠れていた。

しかし――そこには、僅かな希望が宿っていた。

また――生きていける。

新しい場所で。

新しい人たちと。

アティヤの心の中で――小さな光が灯り始めていた。

「屋敷では私が先輩です。敬語を使うように」

東雲の声が――得意げに響いた。

その顔には――満足そうな笑みが浮かんでいる。

ようやく――後輩ができるのだ。

東雲にとっては――嬉しいことであった。

「それはいや…」

アティヤの返答は――即座であった。

その声には――明確な拒絶が込められている。

敬語など――使いたくない。

東雲とアティヤは――同い年くらいに見える。

ならば――対等に話したい。

「ガーン」

東雲は――ショックを受けた。落ち込んだ。

その姿は――どこか滑稽である。

阿久刀は――そんな二人の様子を見て、小さく笑った。

「帰るぞ」

阿久刀の声が――一行に響いた。

その声には――疲労が滲んでいる。

しかし――同時に、安堵もあった。

ようやく――終わったのだ。

戦いが。

そして――狂気に満ちた女との対峙が。

全てが――終わった。

阿久刀たちは――歩き出した。

海竈門岬を後にして。

暁家へと――帰路につく。

アティヤは――一度だけ、立ち止まった。

そして――崖の方を一瞥した。

向日葵が消えた場所を。

しかし――

それだけであった。

アティヤは――二度と振り返らなかった。

前を向いて――歩き続けた。

新しい人生へと。

風が――優しく吹いた。

それは、まるで――全てを洗い流すかのような、清々しい風であった。

海が――静かに波打っている。

空が――青く澄み渡っている。

そして――一行は、静かに岬を後にした。

戦いの痕跡を残したまま。

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