運命の章 28話
――生と死の境界は、時として驚くほど曖昧なものだ。
明保能阿久刀は、その境界線上に立っていた。いや、「立っていた」という表現すら正確ではない。かろうじて倒れずにいる、と言うべきか。全身を巡る血が沸騰しているかのように熱く、同時に凍りついているかのように冷たい。相反する感覚が、彼の肉体を支配していた。
最後の一撃――途上点の極致を放った代償は、想像以上に重かった。
阿久刀の視界が、僅かに揺らいでいる。世界が、まるで水面に映った景色のように、ゆらゆらと歪んで見える。それは極度の疲労が引き起こす錯覚であり、同時に――肉体が限界を超えたことの証左でもあった。
呼吸が、浅い。
心臓が、不規則に鼓動している。
筋肉が、痙攣している。
全身の細胞という細胞が、悲鳴を上げている。休息を求めている。しかし――阿久刀は、その訴えを無視した。今、この場で倒れることは許さない。まだ、為すべきことが残っているのだから。
咒刀を握る手に、力が入らない。指が、僅かに震えている。刀身の重さが、これほどまでに重く感じられたことは、かつてなかった。まるで、鉄の塊を握っているかのようだ。
「(……立て。立ち続けろ)」
阿久刀は、自分自身に命じた。その声は、心の中で響く。しかし、その声すらも――力を失いかけていた。
足が、僅かに震えた。
膝が、崩れそうになる。
しかし――阿久刀は、歯を食いしばって耐えた。武人の誇りが、彼を支えている。倒れることは、敗北を意味する。そして――敗北は、死を意味するのだ。
海竈門岬を吹き抜ける風が、阿久刀の頬を撫でた。その風は、潮の香りを運んでいる。そして――血の匂いも。この戦場で流れた、夥しい量の血の匂いを。
阿久刀の脳裏に、先ほどまでの戦いの光景が蘇る。
震駭との死闘。
それは、阿久刀の人生において、最も過酷な戦いの一つであった。二十年前の北の叛乱以来の、文字通り命を賭けた戦い。一瞬の油断が、即座に死に直結する――そのような極限の緊張の中で、阿久刀は戦い続けた。
そして――倒した。
いや、倒したと信じている。
最後の一撃――「驚異的な出来事、不可思議なもの、驚くべきことの前兆、怪物」そして「神々の警告」という咒を込めた、究極の一刀。それは、震駭の巨体を地に伏させた。阿久刀は、その光景を目の当たりにして――ようやく、戦いが終わったのだと理解したはずだった。
しかし――
「お師匠様っ!」
東雲の叫び声が、阿久刀の思考を現実へと引き戻した。
その声には、激しい心配と焦燥が込められている。東雲は、師の異常な様子に気づいたのだ。阿久刀の全身が震えていること。顔色が蒼白であること。呼吸が乱れていること。それらの全てが――師が限界を超えていることを、雄弁に物語っていた。
「ちょっと! 平気!?」
アティヤの声も、続いて響いた。
その声には、東雲とは異なる種類の心配が込められている。アティヤにとって、阿久刀は――仲間を殺した人間である。そして――自分を人間として扱ってくれた、数少ない者の一人でもある。その人物が、今まさに倒れようとしている。アティヤの心が、激しく痛んだ。
二人は、阿久刀の傍らに駆け寄った。
東雲は、師の左腕を支えようとした。その動作は、慎重である。師の身体に無理な負担をかけないように、細心の注意を払っている。
アティヤは、阿久刀の右側に立った。いつでも支えられるように、しかし――まだ触れてはいない。アティヤは、阿久刀という人物が、他者に支えられることを好まない性格であることを、理解していたのだ。
「……平気だ」
阿久刀の声は、掠れていた。
しかし――その声には、揺るぎない意志が込められている。
「……多少、疲れたが……」
阿久刀は、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出す。呼吸を整える。心拍を落ち着かせる。意識を、現実に繋ぎ止める。
その一連の動作が、どれほど困難であったか――それは、阿久刀自身にしか分からない。全身の筋肉が、意思に反して痙攣している。肺が、十分な酸素を取り込むことを拒んでいる。心臓が、不規則に鼓動している。それらの全てに抗いながら、阿久刀は――なんとか、姿勢を保った。
死ねない意志。
それが、阿久刀を支えている唯一のものであった。
東雲とアティヤは、そんな阿久刀の様子を、心配そうに見つめていた。二人とも、何か言葉をかけたいと思っている。しかし――何を言えばいいのか、分からない。ただ、傍らに立っていることしかできない。それが、二人にとっての――精一杯の支えであった。
阿久刀は、視線を前方へと向けた。
そこには――震駭の巨体が、地に伏している。
あの最後の一撃を受けて、震駭は倒れた。その身体は、ぴくりとも動いていない。まるで、生命の灯火が消えたかのように、静かである。
「(……終わった……のか……?)」
阿久刀の心の中で、僅かな疑念が芽生えた。
本当に、終わったのだろうか。
あの化物が、この程度で死ぬのだろうか。
しかし――阿久刀は、その疑念を押し殺した。今は、それを確認する余裕すらない。ただ――震駭が動かないという事実だけが、阿久刀にとっての唯一の希望であった。
阿久刀は、咒刀を握り締めたまま、震駭へと視線を向けた。そして――低く、しかし明瞭な声で告げた。
「……これで満足された、と理解してもよろしいですか?」
その言葉は、問いかけであり、同時に――確認でもあった。
「震駭様」
阿久刀は、敬称を付けて呼んだ。それは、敵への礼儀である。たとえ、どれほど破天荒な人物であろうとも――命を賭けて戦った相手には、敬意を示す。それが、阿久刀という武人の在り方であった。
静寂が、訪れた。
波の音だけが、遠くから聞こえてくる。風が、草木を揺らす音が、微かに響く。しかし――震駭からは、何の反応もない。
東雲とアティヤは、息を詰めて見守っていた。二人とも、これで本当に戦いが終わったのだと、信じたかった。しかし――同時に、何か嫌な予感も抱いていた。この島では、常識では考えられないことが起きる。だから――
その時――
震駭の顔に、笑みが浮かんだ。
それは、ほんの僅かな変化であった。口角が、ほんの少しだけ上がる。目尻に、僅かな皺が寄る。しかし――その僅かな変化が、阿久刀の心に――絶望を呼び起こした。
「(……まさか……)」
阿久刀の思考が、凍りついた。
そして――次の瞬間。
「がははははははは!!!」
震駭の哄笑が、海竈門岬全体に響き渡った。
その声は、先ほどまでと何も変わらない。力強く、野性的で、そして――戦いを心の底から楽しんでいる響きを帯びている。
震駭は――立ち上がった。
いや、「立ち上がった」などという生易しい表現では、到底その光景を言い表すことはできない。震駭は――軽やかに、まるで何事もなかったかのように、飛び起きたのだ。
その動作には、一片の苦痛の色もない。
疲労の色もない。
ダメージを受けた様子すら、見られない。
まるで――今まで繰り広げられた死闘が、全て幻影であったかのように。
「誉れ! 誉れ! まっことに天晴れだ! 明保能の誉れだ!!」
震駭の声は、賞賛に満ちていた。
その目には、純粋な喜びが輝いている。阿久刀の最後の一撃――あの究極の一刀を受けて、震駭は――喜んでいるのだ。それは、強敵と戦えた喜び。死線を潜り抜けた歓喜。そして――自分を本気にさせてくれた相手への、心からの賞賛であった。
しかし――
阿久刀にとって、その光景は――悪夢であった。
「……それはさすがに……冗談でしょう……」
阿久刀の声が、掠れた。
その声には――心底からの困惑と、そして――失望が滲んでいた。
阿久刀は、理解していた。自分の最後の一撃が――震駭の身体の内部を、完全に破壊したことを。細胞という細胞を、八つ裂きにしたことを。内臓を、粉々にしたことを。骨を、砕いたことを。
それは――確実に、致命傷であったはずだ。
常人であれば、何度も死んでいる。
いや、常人どころか――武人であっても、即死である。
それなのに――
震駭は、立っている。
何事もなかったかのように。
その現実が――阿久刀の心を、深く抉った。
東雲とアティヤは――もはや言葉を失っていた。
二人の表情は、絶望を通り越して――ポカンと口を開けたまま、硬直している。目は見開かれ、身体は微動だにしない。まるで、時が止まったかのように。
この光景を、どう理解すればいいのか。
二人の脳は、情報の処理を拒否していた。
これは――現実なのか。
それとも――悪い夢なのか。
しかし、現実は――容赦なく続いていく。
「五十四回は死んだ。いやいや、もっとか。俺様もやばかったわ!!」
震駭は、あっけらかんと告げた。
その声には、一片の深刻さもない。まるで、軽い怪我をしたことを報告するかのような、呑気な調子である。
「五十四回……死んだ……とは?」
阿久刀は、思わず問い返した。
その声には、困惑があった。五十四回、死んだ――その言葉の意味が、理解できなかったのだ。
「ん? 言葉通りよ。俺様は百八の命をもっとるからなあ!!」
震駭の返答は、さらに阿久刀を困惑させた。
百八の命。
それは――比喩ではない。
震駭は、本当に――百八の命を持っているのだ。
その真実を理解した瞬間、阿久刀の心の中で――何故か納得した。納得できてしまった。
「(……馬鹿げているお人だ……)」
阿久刀は、心の中で呟いた。
いや、「馬鹿げている」などという言葉では、到底その異常さを言い表すことはできない。これは――もはや、理の外である。常識を超えている。人間の領域を、遥かに逸脱している。
百八の命。
つまり――震駭を殺すには、百八回殺さなければならないのだ。
そして、阿久刀の最後の一撃は――そのうちの五十四回分――いや、もしかしたらそれ以上を奪ったのかもしれない。しかし――それでも、震駭は生きている。まだ、半分以上の命が残っているのだ。
その事実が――阿久刀の心を、深く打ちのめした。
勝てない。
この男には、勝てなかった。
いや、勝つことは可能かもしれない。しかし――それには、あと五十回以上――同じ威力の攻撃を繰り出さなければならない。そして、それは――今の阿久刀には、不可能であった。
一度の、最後の一撃を放つだけで――阿久刀の身体は、完全に限界を超えた。もう一度、同じ攻撃を繰り出すことなど――夢物語である。
ならば――
「(……詰んだ……か……)」
阿久刀の心の中で、少しばかり諦念が芽生えた。
しかし――その諦念を、阿久刀は即座に押し殺した。まだ、終わったわけではない。まだ、為すべきことがある。東雲を護らねばならない。アティヤを護らねばならない。そして――白帝を護らねばならない。
そのためならば――阿久刀は、己の命を賭ける覚悟であった。
「さあて! 続きといこうではないか!」
震駭の声が、再び響いた。
その声には――さらなる戦闘への渇望が満ちている。震駭にとって、この戦いは――まだ終わっていないのだ。むしろ、これからが本番だとでも言いたげである。
阿久刀は、深く息を吸い込んだ。
そして――静かに、しかし明確に答えた。
「俺はもう動けません」
その言葉は、真実であった。
阿久刀の身体は、もう限界を超えている。咒刀を握る力すら、残っていない。足は震え、視界は揺らぎ、呼吸は乱れている。これ以上、戦い続けることは――不可能であった。
しかし――
阿久刀は、その事実を認めることを、拒絶した。たとえ、身体が動かなくとも――武人の誇りが、彼を支えている。倒れることは、許されない。まだ、護るべき者たちがいるのだから。
「んん? ならばその娘らをもらうぞー!」
震駭の声が、一変した。
その声には――先ほどまでの戦闘への渇望ではなく、別の種類の欲望が込められている。それは――肉欲である。震駭の視線が、東雲とアティヤへと向けられた。その目には、明確な欲望の色が浮かんでいる。
東雲とアティヤは――反射的に、阿久刀の背後に隠れた。
二人とも、震駭という男の恐ろしさを、身をもって理解している。この男は――常識が通じない。理屈が通じない。そして――人の話を聞かない。だから――逃げるしかないのだ。
しかし――
阿久刀は、二人を護る構えを取った。咒刀を、震駭に向けて構える。その手は震えているが――それでも、阿久刀は諦めなかった。それに、阿久刀には奥の手がある。できれば、やらせたくないが。
「いえ。選手交代です」
阿久刀の声が、静かに響いた。
その瞬間――
阿久刀の背後の空間が、歪み始めた。
それは、まるで水面に波紋が広がるような、不可思議な現象であった。空気が、揺らめいている。光が、屈折している。そして――何か巨大な存在が、その歪みの中から姿を現そうとしていた。
東雲とアティヤは、その現象を目の当たりにして――驚愕した。
これは――何なのか。
しかし、阿久刀は――落ち着いた表情で、その歪みを見つめていた。その顔には、僅かな安堵の色が浮かんでいる。
そして――
『久しいな。いびつもの』
低く、しかし明瞭な声が響いた。
それは、人間の声ではない。もっと深く、もっと重厚な――神獣の声である。
歪みが、大きく広がった。
そして――その中から、一頭の狼が姿を現した。
純白の毛並みを持つ、巨大な白狼。
その身体は、常の大きさ――人間の背丈ほどの大きさであった。しかし、その存在感は――圧倒的である。纏う雰囲気が、他の全ての存在を圧倒している。
碧天――阿久刀の御遣様にして、神獣である白狼が――姿を現したのだ。
碧天は、舞い降りるように地面に着地した。その動作は、優雅であり、同時に――威厳に満ちていた。四本の足が地面に触れた瞬間、周囲の空気が一変する。神聖な気配が、岬全体を包み込んだ。
碧天の琥珀色の瞳が、震駭を捉えた。
その目には――明確な嫌悪と、そして――軽蔑が宿っている。
震駭は――その視線を受けて、思わず声を上げた。
「うげっ!!」
その声は――まるで、大の苦手な教師に遭遇した子供のような、驚きと困惑が混じり合ったものであった。
震駭という男は、この世の誰をも恐れない。金枝王も、朝廷も、この世のあらゆる人の権力者も――震駭にとっては、取るに足らぬ存在である。しかし――御遣様だけは、別であった。
御遣様――それは、神の化身である霊獣。
震駭がどれほど強大であろうとも――神獣の前では、ただの人間に過ぎない。その事実を、震駭は本能的に理解していたのだ。
碧天は、震駭を蔑んだ目で見つめた。
その視線には――明確な敵意が込められている。いや、敵意というよりも――侮蔑であった。碧天にとって、震駭という存在は――不愉快な塵芥に過ぎないのだ。
『我が友をいたぶってくれたな。その礼をしてやろう』
碧天の声は、低く響いた。
その声には――怒りが込められている。阿久刀を傷つけた者への、神獣の怒り。それは、天災にも等しい恐ろしさを孕んでいた。
「いたぶってはおらんぞ!! 戦いは互角であったわ!!」
震駭は、慌てて言い訳した。
その声には――珍しく、焦りの色が滲んでいる。震駭という男が、ここまで動揺することは――極めて稀であった。それだけ、碧天という存在が――震駭にとって脅威なのだ。
しかし――
阿久刀は、静かに告げた。
「貴方の命の数を誤っていました。俺の負けです」
その言葉は、真実であった。
阿久刀は、震駭を過小評価していた。百八の命を持つなどという、常識外の存在であることを――阿久刀は知らなかったのだ。もし、最初からそれを知っていれば――阿久刀は、別の戦略を取っただろう。
しかし、今更それを嘆いても仕方がない。
『だそうだ』
碧天の声が、簡潔に響いた。
その声には――阿久刀への同意と、そして――震駭への軽蔑が込められている。
「うおおお!! 阿久刀! 俺様が愛しくはないのか!! 大切ではないのかあ!!」
震駭の叫びが、岬に響き渡った。
その声には――何か奇妙な懇願の響きがあった。震駭は、本気で――阿久刀に愛されたいと思っているのだ。それは、恋愛感情などではない。もっと純粋な――戦友としての、あるいは好敵手としての、友情を求めているのだ。
しかし――
「一切。全く。そんなこと思いません」
阿久刀の返答は、冷徹であった。
その声には、一片の躊躇いもない。明確な拒絶。それが、阿久刀の真意であった。
どうすれば、この男を愛せるというのだろうか。
破天荒で、下劣で、常識が通じず、人の話を聞かず、そして――女性を見れば褥を共にしようとする。そのような男を、どうして愛することができようか。
阿久刀だけでなく、東雲も、アティヤも――心底、嫌な気分になっていた。この男と関わることの不快さを、三人は共有していたのだ。
碧天は、そんなやり取りを見て――僅かに呆れたような表情を浮かべた。その顔には、「やはり、この男は救いようがない」とでも言いたげな、諦念が浮かんでいる。
『さて次は我が遊んでやろう』
碧天の声が、再び響いた。
その瞬間――
碧天の身体が、急速に巨大化し始めた。
それは、まるで山が立ち上がるかのような、圧倒的な変化であった。碧天の身体が、みるみるうちに大きくなっていく。人間の背丈ほどだった身体が――瞬く間に、城壁をも優に超える高さまで成長した。
巨大な白狼。
その姿は、まさに神話に語られる神獣そのものであった。純白の毛並みが、陽光を受けて神々しく輝いている。琥珀色の瞳が、遥か上空から震駭を見下ろしている。その存在感は――もはや、言葉では言い表すことができないほど、圧倒的であった。
そして――碧天から放たれる神威。
それは、まるで暴風のように、周囲の全てを圧倒した。
東雲とアティヤは――その神威を受けて、思わず膝をつきそうになった。全身が震える。呼吸が苦しくなる。まるで、巨大な重石が全身に乗せられたかのような、圧迫感。
これが――神獣の力なのか。
二人は、――碧天という存在の恐ろしさを、理解した。
震駭は――その神威を受けて、僅かに顔を顰めた。
しかし――恐怖の色は、その顔には浮かんでいない。むしろ――何か不満げな表情である。
「おおう! お前はお呼びでないぞー!」
震駭は、両手を上げて――まるで子供のように、抗議した。
その姿は、先ほどまでの戦闘狂とは思えないほど、無邪気である。震駭にとって、碧天は――戦いたくない相手なのだ。いや、正確には――戦っても面白くない相手なのだ。
なぜなら――神獣相手では、勝ち目がないことを、震駭は理解しているから。
そして――
碧天は、震駭の抗議など意に介さなかった。
巨大な前足が――震駭に向かって、振り下ろされた。
その動きは、一見すると緩やかである。しかし――それは錯覚に過ぎない。碧天の巨体から繰り出される一撃は――その質量だけで、あらゆるものを粉砕する力を持っているのだ。そして、その速さは光の如くだ。
震駭は――躱す暇もなかった。
いや、躱そうとすら、しなかった。
なぜなら――躱したところで、無意味だと理解していたから。
ドォォォォン!!!
地響きのような音が、岬全体に響き渡った。
碧天の前足が――震駭を、容赦なく踏み潰したのだ。
地面が、大きく陥没する。
岩が、砕け散る。
土煙が、高く舞い上がる。
その光景は――まるで、隕石が落下したかのようであった。
煙が晴れると――そこには、地面にめり込んだ震駭の姿があった。
うつ伏せの状態で、完全に地面に埋まっている。巨大な足跡が、震駭の周囲にくっきりと刻まれている。
そして――震駭は、ぴくりとも動かなかった。
さすがの震駭も――御遣様の一撃には、耐えられなかったのだ。意識を完全に刈り取られ、もはや動く気配すらない。
『わめくな。いびつものめ』
碧天の声が、低く響いた。
その声には――明確な侮蔑が込められている。碧天にとって、震駭という存在は――不愉快な害虫に過ぎないのだ。だから――容赦なく踏み潰す。それが、碧天の在り方であった。
そして――
碧天は、再び身体を縮小させ始めた。
巨大な身体が、みるみるうちに小さくなっていく。城壁をも超える高さだった身体が――再び、人間の背丈ほどの大きさに戻った。
普段の大きさに戻った碧天は――満足そうに、小さく鼻を鳴らした。
阿久刀は――その光景を見て、深く息を吐いた。
「助かった。ありがとう碧天」
阿久刀の声には、心からの感謝が込められていた。
もし、碧天が現れなければ――阿久刀は、震駭に敗北していただろう。いや、敗北どころか――東雲とアティヤも、危険に晒されていたかもしれない。
碧天の介入が――全てを救ったのだ。
『これも困ったものだ。殺し合うか繁殖するかの二つしか頭にない』
碧天の声には、呆れが滲んでいた。
その言葉は、震駭という男の本質を、的確に言い表していた。震駭にとって、人生とは――戦うか、女と寝るか。その二択しか存在しないのだ。他の全ては、彼にとって無意味なのだ。
そして――
碧天は、視線を向日葵へと向けた。
その瞳には――明確な敵意が宿っている。いや、敵意というよりも――警戒であった。碧天は、向日葵という存在の危険性を、本能的に感じ取っていたのだ。
碧天の視線を受けて――向日葵は、思わず後ずさった。
その顔から、いつもの柔和な笑みが消えている。代わりに浮かんでいるのは――明確な恐怖である。向日葵という女は、無邪気で故に恐れない。人間の権力も、武力も、彼女にとっては楽しくない嬉しくないものだ。
しかし―碧天という存在は――向日葵にとっても、脅威だった。
碧天は、向日葵を睨みつけた。
その視線の鋭さは、まるで刃のようであった。向日葵の全身を、その視線が貫く。向日葵は、本能的に――碧天に敵対することの危険性を、理解した。
だから――向日葵は、さらに後退した。碧天から、できるだけ距離を取ろうとする。
碧天は、そんな向日葵の様子を見て――僅かに満足そうな表情を浮かべた。恐怖を与えることができた。それだけで、碧天にとっては十分であった。
そして――
碧天は、ゆっくりと白帝の傍らへと歩み寄った。
その足取りは、優雅である。四本の足が、静かに地面を踏みしめる。そして――白帝の傍らに座った。
『ゆけ。締めくくるがよい』
碧天の声が、阿久刀に向けられた。
その声には――信頼が込められている。後は、阿久刀に任せる。そういう意味であった。
阿久刀は――深く頷いた。
そして――残る力を振り絞って、向日葵へと足を進めた。
その足取りは、重い。
全身が、悲鳴を上げている。
しかし――阿久刀は、止まらなかった。
まだ、為すべきことが残っているのだから。
向日葵――天蓋向日葵という女を、始末しなければならない。
この女は、危険すぎる。
アティヤを誑かし、白帝を拐かそうとし、そして――多くの人々を巻き込んで、混乱を引き起こした。その罪は――重い。
だから――
阿久刀は、向日葵の前に立った。
咒刀を、静かに構える。
その刃は――向日葵の首筋を捉えていた。
「天蓋向日葵」
阿久刀の声は、低く、しかし明瞭であった。
「なんですかぁ?」
向日葵の声は――相変わらず、柔らかく、間延びしていた。その声には、恐怖の色など微塵もない。まるで、日常の些事を尋ねられたかのような、呑気な調子である。
しかし――その目は、違った。
向日葵の瞳の奥には――何か深い狂気が渦巻いている。それは、阿久刀にも見て取れた。この女は――正常ではない。常識が通じない。理屈が通じない。そして――何よりも、人間としての倫理が、決定的に欠如しているのだ。
「最後に言うことはあるか?」
阿久刀の問いかけは――慈悲であった。
どれほど罪深い者であろうとも――死を前にした者には、最後の言葉を述べる権利がある。それが、この島の――いや、阿久刀という武人の流儀であった。
そして――
阿久刀は、心の中で願っていた。
「(アティヤを想うなら言葉をかけてやれ)」
アティヤは――失いすぎた。
仲間を失い、信頼を失い、そして――愛されていると信じていたものが、全て虚構であったことを知った。その痛みは――計り知れない。
だから――
せめて、向日葵から――何か慰めの言葉があれば。
たとえ、それが嘘であろうとも。
たとえ、それが演技であろうとも。
アティヤの心に――少しでも救いをもたらすことができれば。
阿久刀は、そう願っていた。
毒を飲ませた女。
そんな女の言葉でも――薬となる言葉を伝えることはできるはずだ。
向日葵は――阿久刀の問いかけを聞いて、僅かに顎に指を当てた。そして、考え込むような仕草を見せる。
その動作は、優雅である。まるで、難しい問題に取り組む学者のような、知的な雰囲気すら漂わせている。
そして――
向日葵の顔が、僅かに輝いた。
何かを思いついたのだ。その表情には、明確な歓喜が浮かんでいる。
向日葵は――ゆっくりと、阿久刀に近づいた。
その足取りは、猫のように静かである。そして――阿久刀の傍らに寄り添うと、まるで恋人のように――抱きつくようにして、その身体を寄せた。
阿久刀の鼻腔に――甘い香りが流れ込んできた。
それは、花の香りであった。しかし――それは自然の花の香りではない。もっと人工的な、作られた香り。そして――何か危険な響きを孕んだ、誘惑の香りであった。
「わたしの恋路を邪魔するのですか?」
向日葵の声が――蜂蜜のように甘く、阿久刀の耳元で囁かれた。
その声は――誘惑そのものであった。
しかし――阿久刀は、動じなかった。
「わたしが欲しいですか?」
向日葵の声が、さらに甘さを増した。
その声には――明確な誘惑が込められている。向日葵の手が、阿久刀の胸に触れる。その指先が、ゆっくりと――阿久刀の衣服の上を滑っていく。
これは――誘惑の罠である。
常人であれば――この誘惑に、抗うことは困難であろう。向日葵という女は、人を誑かす術に長けている。その美貌、その声、その仕草――全てが、計算され尽くされた誘惑の武器なのだ。
「わたしはあなたに征服されてもいいですよ?」
向日葵の囁きが――最後の一押しとなる。
その言葉は――男の征服欲を刺激するものであった。向日葵という、これほどまでに美しく、これほどまでに魅惑的な女を――征服する。その誘惑は、常人であれば――即座に陥落するだろう。
しかし――
阿久刀には、響かなかった。
阿久刀が望んだ言葉は――そんなものではない。
阿久刀が望んだのは――アティヤへの、言葉であった。
しかし――向日葵は、それを与えなかった。
ならば――
阿久刀は、一瞬だけ――アティヤに視線を走らせた。
アティヤは――うなだれたまま、立っていた。その肩は震え、顔は蒼白である。向日葵の言葉を聞いて――さらに深く、傷ついているのだろう。
阿久刀の心の中で――何かが決定した。
この女に――慈悲を与える必要はない。
阿久刀は、片手で向日葵を突き放した。
その動作は、冷徹である。一片の躊躇いもない。
向日葵の身体が――よろめいた。
そして――次の瞬間。
阿久刀の咒刀が――閃いた。
その一刀は――一片の容赦もなく、無慈悲であった。
刃が、向日葵の首筋を捉える。
そして――
円を描くように、血が滴った。
向日葵の首が――両断されたのだ。
「お前の恋など知らん」
阿久刀の声は――冷たかった。
その声には、一片の感情も込められていない。ただ――事実を述べているだけ。それが、阿久刀の在り方であった。
向日葵の首が――ゆっくりと、身体から離れ始めた。
重力に引かれて、地面へと落ちようとする。
しかし――
東雲は――その光景を目の当たりにして、安堵の息をついた。
ようやく――全てが終わったのだと。
この狂気に満ちた女が――ようやく、この世から消えるのだと。
そう信じた。
しかし――
現実は――さらなる狂気を、彼女たちに突きつけようとしていた。




