運命の章 23話
投稿する本文を間違えました。ごめんなさい。
血と硝煙の匂いが、海竈門岬の蒼穹を重く覆い尽くしていた。
明保能阿久刀は、咒刀を手に戦場の只中に立っていた。その刀身には、幾筋もの鮮血が滴り落ちている。陽光を受けて、その紅い雫が宝石のように輝き、そして地面に吸い込まれていった。
周囲には、倒れた兵士たちの姿があった。
ある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負い、そしてある者は意識を失って地に伏していた。彼らは皆、祖国の名誉のため、使命のため、誇りのために戦った。しかし、その勇気は――咒刀という、時代を超越した武器の前には、あまりにも無力であった。
栗林勇二中尉は、三八式歩兵銃を両手で握り締めながら、その光景を目の当たりにしていた。
部下たちが、次々と倒れていく。
刀一本で。
たった一本の、古めかしい刀で。
近代兵器を手にした訓練された兵士たちが、まるで稲を刈るように斬り倒されていく。
「僕たちは――」
栗林の唇から、掠れた声が漏れた。
「足を踏み入れるべきじゃなかった」
その言葉には、深い後悔が滲んでいた。しかし、後悔したところで、もう遅い。時を巻き戻すことはできない。為してしまったことは、取り消すことができないのだ。
栗林は、三八式歩兵銃の銃口を、咒刀を振るう阿久刀へと向けた。その手は、僅かに震えている。恐怖ではない――いや、恐怖もある。しかし、それ以上に、この状況への怒りと、そして執念が、栗林の心を支配していた。
「ここは魔境だ」
栗林は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「怪物の住む島だ」
その言葉と共に、栗林は引き金を引いた。
轟音が響き、銃口から火花が散った。三八式歩兵銃から放たれた銃弾が、空気を裂いて阿久刀へと飛翔する。その速度は、音速に迫るものであった。常人であれば、目で追うことすら叶わない。
しかし――
阿久刀は、その銃弾を躱した。
いや、「躱した」という表現すら、正確ではない。まるで、銃弾がどこに飛んでくるのかを事前に知っていたかのように、阿久刀は身体を僅かに傾けた。銃弾は、阿久刀の頬を掠めることすらなく、虚空を切り裂いて遠くへと飛んでいった。
「くそ――」
栗林は舌打ちしながら、素早く再装填した。その動作は訓練されたもので、無駄がない。ボルトを引き、薬莢を排出し、新たな弾丸を装填する。一連の動作に要した時間は、わずか数秒。
そして、再び引き金を引く。
パン!
二発目の銃弾が放たれる。しかし、それもまた阿久刀には命中しなかった。
栗林は、阿久刀の心臓と頭を集中的に狙い撃つことに決めた。そうでなければ、この化け物が死ぬとは思えなくなっていた。腕や足を撃ったところで、おそらくは何の意味もない。この男を止めるには、即死させるしかないのだ。
「隊長!」
背後から、部下の悲痛な叫び声が聞こえた。
栗林が一瞬だけ振り返ると、そこには阿久刀の咒刀に斬られた兵士が倒れていた。彼は胸を深く切り裂かれており、口から血を吐いている。もう、助からないだろう。
栗林の心が、激しく痛んだ。
部下を守れなかった。
上官として、指揮官として、最も為すべきことを為せなかった。
その自責の念が、栗林の胸を締め付ける。しかし、今はそれを嘆いている時ではない。せめて、残された部下を――いや、もう部下は残っていないのか。
栗林の周囲を見渡すと、もう立っている兵士はいなかった。全員が、地に倒れている。
つまり――
もう、阿久刀を阻む壁は無くなったのだ。
栗林と阿久刀の間には、もう何もない。ただ、二十メートルほどの距離があるだけ。その距離は、あの化け物にとっては、ほんの一瞬で詰められる距離であろう。
阿久刀は、一直線に走り始めた。
その速度は、人間のそれとは思えないほど速い。地面を蹴る足音が、規則正しく、しかし驚異的な速さで響く。まるで、疾風が形を成して走っているかのようだ。
栗林は、三八式歩兵銃で迎え撃った。
三八式歩兵銃の装弾数は五発。。ならばと、この三発を一気に撃ち終えると、すぐに再装填をする。これが最後の再装填となるだろう。――何としてでも、阿久刀を倒さねばならない。
極限の集中状態に入る。
栗林の視界が、狭まっていく。周囲の音が、遠くなる。世界が、ゆっくりと動き始めたかのような感覚。それは、死線を何度も潜り抜けてきた者だけが到達できる、特殊な精神状態であった。
狙いを定める。
阿久刀の心臓。
いや、心臓で死ぬのか?。確実に死に至るとすれば。ならば――頭だ。
栗林は、阿久刀の頭部に照準を合わせた。そして、引き金を引く。
パン!
銃弾が放たれた。
しかし――
阿久刀は、走りながら咒刀で銃弾を弾き返した。
「――!」
栗林は、息を呑んだ。
今、何が起きたのか。
阿久刀の咒刀が、一閃した。その刀身が、飛来する銃弾を捉えた。そして、弾き飛ばした。銃弾は、軌道を逸らされて地面に突き刺さった。
全ては、一瞬の出来事であった。
「(なんなんだ――)」
栗林の脳裏に、戦慄が走った。
銃弾を、刀で弾く。
何度も何度も。これだけ近い距離ですらそんなことが、可能なのか?
いや、可能も何も、今この目で見たのだ。信じられないが、事実なのだ。
「(あの銃の特徴は、もう掴んだ)」
阿久刀は、心の中で冷静に分析していた。
三八式歩兵銃の銃弾は、真っ直ぐ飛んでくる。これまで島で見た火縄銃の類いは、軌道が直線から少しズレるものだった。風の影響を受けやすく、命中精度に欠けていた。
しかし、この三八式歩兵銃は違う。おそらくは、性能が向上したのだろう。その分、軌道が読みやすい。そして――切りやすい。
二発。
三発。
阿久刀は、走りながら咒刀で銃弾を次々と弾き返していった。
その光景を目の当たりにして、栗林は戦慄した。
三八式歩兵銃――それは、旧皇国では新型の部類に当たる小銃だ。発射速度は、これまでの小銃の1.5倍になる。命中精度も格段に向上している。軍の誇る、最新鋭の武器なのだ。
そんな小銃で撃った銃弾を、阿久刀はこともなげに防ぐのだ。
まるで、物語に出てくる英雄のように。
いや――英雄どころではない。これは、もはや神話の領域だ。
「うおおおおっ!」
栗林は、叫びながら銃弾が尽きるまで引き金を引き続けた。
四発目。
五発目。
全ての銃弾が、阿久刀の咒刀によって弾き返される。
もう、弾は残っていない。
三八式歩兵銃は、ただの鉄の棒と化した。
栗林の心の中で、何かが壊れた。
阿久刀が――目の前にいる人間が、人間に見えなくなった。
「アレは――」
栗林の唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
「怪物だ」
その認識が、栗林の心を真に支配した瞬間であった。
阿久刀は、栗林の焦りを見逃さなかった。
獲物が、追い詰められている。
もう、逃げ場はない。
しかし――阿久刀の心には、勝利の喜びはなかった。むしろ、深い虚無が宿っている。この男を殺すことに、何の喜びも感じていない。ただ、必要だから殺す。それだけのことだ。
距離が、ゼロになる。
栗林は、三八式歩兵銃を槍のように振りかざした。
銃剣術――それは、軍隊における基本的な白兵戦技術である。銃剣を装着した小銃を、槍として扱う戦闘法。栗林もまた、その訓練を受けていた。
「せめて――」
栗林は、歯を食いしばりながら叫んだ。
「一太刀でも――!」
三八式歩兵銃の銃剣が、阿久刀の胸を狙って突き出される。その動きは、訓練されたものだ。しかし――
阿久刀の咒刀が、一閃した。
金属が激突する音が響く。
しかし、それは一瞬のこと。
次の瞬間――三八式歩兵銃が、真っ二つに両断された。
銃身と銃床が、別々に地面に転がり落ちる。
栗林は、呆然とそれを見つめた。
切られた。
鉄の銃が、まるで竹のように切られた。
「くっ――」
栗林は、舌打ちしながら、両断された銃を投げ捨てた。そして、右手で腰からサーベルを抜き、同時に左手で拳銃を抜いた。
拳銃の引き金を連続して引く。
パン! パン! パン!
三発の銃弾が、阿久刀に向かって飛ぶ。
しかし――阿久刀は、空を飛び回る燕のように自在に咒刀を操って、銃弾を全て切り払った。
その動きは、もはや芸術の域に達していた。
「本当に――」
栗林は、怒りと畏怖が入り混じった声で叫んだ。
「この島の奴らは――!」
栗林は、果敢にサーベルで斬りかかった。
サーベルと咒刀が激突する。
キィン!
堅い刃同士が激突する音が、戦場に響き渡った。
最初こそ、栗林が押し込んだように見えた。しかし、それは錯覚に過ぎなかった。
その実力の差は、歴然としたものであった。
まるで、大人と子供のようだ。
いや、それ以上だ。
栗林は、元より白兵戦は不慣れである。彼は本来、戦術家として全体を指揮することに優れた人物なのだ。剣を振るうことは、栗林の本領ではない。
対して、阿久刀は――剣の道を極めた武人である。
幼き頃より剣を学び、戦場で磨き、数え切れぬほどの敵を斬り伏せてきた。その技術は、既に達人の域を超えている。
二人の間には、越えられない壁があった。
しかし――
阿久刀は、栗林を即座に切り殺すことはしなかった。
なぜか。
それは、阿久刀自身にも、明確には分からなかった。ただ――この男を、あまりにも簡単に殺すことに、何か違和感があったのだ。
栗林勇二という男は、確かに敵であった。しかし、彼は卑怯な手段を使ったわけではない。正面から、正々堂々と戦いを挑んできた。そして、部下を想い、国を想い、家族を想って戦っている。
その姿勢に――阿久刀は、僅かな敬意を抱いていた。
だからこそ、阿久刀は――栗林に、最後の一撃を放つ機会を与えることにした。
剣戟が続く。
栗林のサーベルが、阿久刀の首を狙って横一文字に薙ぎ払われる。
しかし、阿久刀の咒刀がそれを受け止める。
栗林のサーベルが、阿久刀の胸を狙って突き出される。
しかし、阿久刀は身体を僅かに捻ることで、それを躱す。
攻防が続く。
しかし――栗林の動きが、次第に鈍くなっていく。
疲労が、栗林の全身を支配し始めていた。
呼吸が乱れる。
汗が、額から滴り落ちる。
腕が、重くなる。
一方、阿久刀は――呼吸一つ乱していない。
その差が、戦況を決定づけていた。
阿久刀は、栗林の疲労による隙を見逃さなかった。
栗林のサーベルが、大きく振りかぶられる。その隙――
阿久刀の咒刀が、一閃した。
その刃が、栗林の腹を刺す。
「――ぐっ!」
栗林の口から、短い呻き声が漏れた。
鋭い痛みが、全身を駆け巡る。しかし――栗林は、まだ倒れなかった。
阿久刀は、急所を外していた。
応急手当をすれば、助かる傷だ。
なぜ、阿久刀は致命傷を与えなかったのか。
それは――栗林に、最後の言葉を告げる機会を与えるためであった。
「もう一度言う」
阿久刀の声が、静かに響いた。
「あの娘を連れて、去れ」
その言葉には、最後の慈悲が込められていた。
しかし――
「……ため……に……」
栗林の声が、掠れながら響いた。
「なに?」
阿久刀は、聞き返した。
「国の……ため……家族の……ため……誇りの……ため……」
栗林の声は、震えていた。しかし、そこには揺るぎない決意が込められている。
「退くわけには……いかない……」
栗林は、腹の傷を押さえながらも、サーベルを握り直した。
最後の力を振り絞り、栗林は阿久刀に向かって突進した。
サーベルを、突き刺すように構えて。
その姿は――もはや、武人というよりも、何かに取り憑かれた者のようであった。
しかし、それは――栗林の、最後の誇りであった。
敵に背を向けて逃げることは、栗林には許されない。
たとえ、死が目前に迫っていようとも。
阿久刀は――その決意を、受け入れた。
ならば、せめて――苦しませずに。
阿久刀の咒刀が、袈裟斬りに振り下ろされた。
その一撃は、正確に栗林の身体を捉えた。
右肩から左腰まで――深々と、肉を裂き、骨を断ち切った。
「――」
栗林の口から、もう声は出なかった。
ただ、血だけが、大量に溢れ出た。
栗林の全身が、己の血で赤く染まっていく。
そして――地面に、膝をついた。
力が、もう残っていない。
視界が、ぼやけていく。
しかし――栗林の意識は、まだ途切れていなかった。
最後の瞬間、栗林の脳裏に浮かんだのは――
「…………ゆき……こ……」
妻の名。
「あか……ね……」
娘の名。
「………にい………さ……」
兄の名。
それらの言葉を、掠れた声で呟きながら――
栗林勇二は、血の海の中に倒れた。
もう、動くことはなかった。
静寂が、戦場を支配した。
阿久刀は、咒刀を鞘に納めた。そして、顔に付いた返り血を、指で拭った。
栗林と、その部下たち。
彼らは、まさに戦士であった。
卑怯な手段を使わず、正々堂々と戦い、そして散っていった。
その姿勢に――阿久刀は、深い敬意を抱いた。
だからこそ――
阿久刀は、静かに手を合わせた。
そして、祈りを捧げた。
それは、勝者が敗者に捧げる、最後の礼儀であった。
「安らかに」
阿久刀の声が、風に乗って消えていった。
戦いは――終わった。
多くの屍と引き換えに。




