運命の章 22話
血と硝煙の匂いが、海竈門岬の大気を支配し始めた。
「くそ! こいつ!?」
怒号と共に、一人の兵士が東雲の咒刀に身を切り裂かれた。刃が肉を裂く音――それは、湿った布を引き裂くような、生々しい音であった。兵士の口から、短い悲鳴が漏れる。しかしそれも一瞬のこと。次の瞬間には、その身体は地に崩れ落ち、もう二度と立ち上がることはなかった。
東雲は、足を止めなかった。
彼女の身体は、まるで疾風そのものが形を成したかのように、戦場を駆け抜けていく。抜き放たれた咒刀の刃が、陽光を受けて銀色に輝く。その輝きは美しく、凶刃であった。刃が描く軌跡は、死の舞踏を奏でる指揮棒のようである。
一人、また一人と、兵士たちが東雲の剣に倒れていく。
彼らは勇敢であった。恐怖に震えながらも、銃剣を構えて東雲に挑んだ。しかし、その勇気は報われることがなかった。東雲の剣技は、彼らが想像する遥か上の次元にあったのだ。
銃剣が東雲を捉えようとする。しかし、その刃が東雲の肌に触れる前に、東雲の咒刀が兵士の急所を貫いていた。心臓を、喉を、あるいは頭を――一撃必殺。それが、弐の剣の本質であった。
血飛沫が、東雲の頬を濡らす。しかし、彼女は表情一つ変えなかった。瞳には、冷徹な決意だけが宿っている。これは戦いだ。生き残るか、死ぬか。その二択しかない世界。ならば、東雲は生き残ることを選ぶ。そして、白帝を護り抜くことを選ぶ。
阿久刀もまた、壮絶な戦いを繰り広げていた。
彼の咒刀は、正確無比な軌跡を描いて敵を斬り伏せていく。銃撃が彼に向けられる。しかし、阿久刀の刀は、その全てを弾き返した。銃弾が刀身に当たり、火花を散らして軌道を逸らされる。その光景は、まるで魔術を見ているかのようであった。
遠距離から狙撃する兵士がいた。阿久刀は、その銃口の向きを見ただけで、弾道を予測した。そして、身体を僅かに傾けることで、銃弾を躱す。あるいは、咒刀で弾き飛ばす。その一連の動作は、流水のように滑らかであった。
銃剣を構えて挑んでくる兵士たちには、容赦がなかった。阿久刀の咒刀が、彼らの身体を次々と切り裂いていく。壱の剣――攻撃、防御、受け流し、全ての基礎を極限まで高めた剣技。その完成度は、芸術の域に達していた。
しかし、阿久刀の表情には、一切の喜びがなかった。むしろ、そこには虚無が宿っている。この兵士たちを殺すことに、阿久刀は何の喜びも感じていなかった。ただ、必要だから殺す。それだけのことだ。
「シノ」
阿久刀の声が、戦場に響いた。その声は低く、明瞭であった。
「はい」
東雲が即座に応える。師の声を聞き逃すことなど、あり得ない。
「任せる」
その一言だけ。しかし、その言葉には、全ての信頼が込められていた。
阿久刀は、一直線に栗林へと走り始めた。その速度は、人間のそれとは思えぬほど速い。地面を蹴る足音が、規則正しく響く。阿久刀の目は、ただ一点、栗林中尉だけを見据えていた。
東雲は、残りの兵士たちを相手にすることを引き受けた。彼女の視線が、戦場を素早く走査する。そして、標的を定めた。
猪木上等兵。
アティヤを「穢児」と罵り、仲間を裏切り者と断じた、あの男。東雲の心の中に、僅かな怒りが芽生えた。いや、怒りというよりも――義憤であった。アティヤがどれほど苦しんでいるか。その痛みを、東雲は理解していた。だからこそ、あの男を許すわけにはいかない。
東雲は、猪木に向かって駆け出した。
「てめえ!」
猪木の怒号が響いた。その声には、恐怖と憎悪が混じり合っている。
猪木は、三八式歩兵銃を東雲に向けて構えた。その銃口が、東雲の胸を捉える。引き金に指がかけられる。そして――
パン!
銃声が響いた。
一発だけではない。猪木の周囲にいた他の兵士たちも、一斉に発砲した。パン! パン! パン! 銃声が連続して轟く。硝煙が立ち上り、戦場を白く染める。
銃弾が、東雲に向かって飛来する。
その数は、十発を超えていた。どれほど優れた剣士であろうと、これほどの数の銃弾を全て防ぐことは不可能だ。猪木たちは、そう信じていた。いや、信じたかった。この化け物じみた少女を、ようやく倒せる――そんな希望が、彼らの心を支配していた。
しかし――
東雲は、突如として足を止めた。
走るのをやめ、その場に立ち止まる。そして、銃弾を正面から受けた。
猪木たちの目が、驚愕に見開かれた。
何をしている? なぜ躱さない? なぜ防がない?
疑問が、彼らの脳裏を駆け巡る。しかし、その答えを見出す前に――
銃声が止んだ。
硝煙が、ゆっくりと晴れていく。
そして、猪木たちは見た。
東雲が、無傷で立っていることを。
「な……なんだと……?」
猪木の声は、震えていた。信じられない。この目で見ているのに、信じられない。
東雲の服は、所々が裂けていた。それは、銃弾が衣服を貫通した痕であった。しかし、その下の肌には――傷一つない。血も流れていない。まるで、銃弾が幻影であったかのように。
「そんな……馬鹿な……」
別の兵士が、呆然と呟いた。
彼らは知らなかった。東雲が何をしたのかを。
東雲は、銃弾を受け流したのだ。
銃弾が肌に触れる瞬間、東雲は身体の表面を僅かに動かした。筋肉を、皮膚を、神経を――全てを精密に制御し、銃弾の威力と流れに逆らわず、その勢いを利用して、肌の表面で滑らせた。まるで、水が岩の表面を流れるように。銃弾は、東雲の肌を傷つけることなく、弾道を逸らされて地面に落ちたのだ。
それは、まさに神業だ。
猪木たちには、そう見えた。しかし、実際には――これは島の武人ならば、困難ではあるが、不可能ではない技術であった。素質は問われる。そして、過酷な鍛錬が必要だ。しかし、修得できないわけではない。
東雲は、その技術を完全に習得していた。師である阿久刀から学び、日々の鍛錬で磨き上げた技。それが、今、東雲の命を救ったのだ。
しかし――
「お気に入りの服だったんですが……」
東雲の声が、静かに響いた。
その声には、僅かな悲しみが込められていた。この服は、清子が仕立ててくれたものだった。上質な布を使い、丁寧に縫い上げられた、東雲の宝物の一つ。それが、今、無残にも裂かれてしまった。
東雲の瞳が、僅かに冷たさを増した。
猪木たちは、その変化を感じ取った。背筋に、冷たいものが走る。まずい。この少女が、本気で怒っている。
しかし、もう遅かった。
東雲は、既に動き始めていた。
東雲の身体が、疾風のごとく駆け出した。
その速度は、先ほどまでとは比較にならないほど速い。まるで、何かが外れたかのように。いや、正確には――東雲が、本気を出したのだ。
最初の犠牲者は、東雲に最も近くにいた兵士であった。彼は、慌てて銃剣を構えようとした。しかし、その動作が完了する前に――
東雲の咒刀が、彼の喉を一閃した。
血が、噴水のように吹き出す。兵士の目が、驚愕に見開かれる。しかし、その驚きを認識する間もなく、彼の意識は闇に沈んだ。
次の兵士。
東雲の刀が、彼の心臓を正確に貫いた。刃が肉を裂き、骨を砕き、心臓を破壊する。兵士の身体が、痙攣するように震える。そして、力を失って倒れた。
次。
また次。
そしてまた次。
東雲の刀は、止まることなく敵を斬り続けた。その動きは、まるで舞踏のようであった。しかし、それは死の舞踏。一つ一つの動作が、一人の命を奪っていく。
兵士たちは、恐怖に支配されていた。しかし、それでも戦わねばならない。逃げることは、軍人として許されない。死ぬまで戦う――それが、彼らに課せられた使命であった。
だから、彼らは戦い続けた。
銃剣を構え、東雲に挑む。しかし、その全てが無駄であった。東雲の剣技は、彼らの想像を遥かに超えているのだ。
一人の兵士が、東雲の背後から襲いかかろうとした。しかし、東雲は振り向くことなく、背後に咒刀を突き出した。刃が、兵士の腹を貫く。兵士は、信じられないという表情で、自分の腹を見下ろした。そして、血を吐いて倒れた。
別の兵士が、横から斬りかかってきた。東雲は、身体を僅かに捻ることで、その刃を躱した。そして、反撃の一刀を浴びせる。兵士の胸が、深々と切り裂かれた。
戦場は、地獄と化していた。
血が地面を染め、悲鳴が空気を震わせ、死の匂いが全てを覆っていく。
しかし、東雲は止まらなかった。
そして、ついに――猪木の前に辿り着いた。
「ざけんなぁ!」
猪木は、絶叫した。
その声には、恐怖と怒りと、そして絶望が混じり合っている。仲間が次々と倒れていく。その現実に、猪木の理性は崩壊しかけていた。
猪木は、三八式歩兵銃を東雲に向けた。しかし、その手は激しく震えている。狙いが定まらない。それでも、猪木は引き金を引いた。
パン!
銃声が響く。しかし、銃弾は東雲に当たらなかった。猪木の手の震えが、狙いを大きく逸らしていたのだ。
東雲は、一瞬で猪木との距離を詰めた。
そして、咒刀を振るった。
猪木は、咄嗟に三八式歩兵銃で防ごうとした。しかし――
東雲の咒刀が、三八式歩兵銃を両断した。
まるで、豆腐を切るかのように。金属の銃が、いとも容易く切断される。その切断面は、驚くほど滑らかであった。
そして、東雲の刀は、猪木の身体を捉えた。
右肩から腰まで――一刀両断。
「ぐあああああ!」
猪木の絶叫が、戦場に響き渡った。
激痛が、猪木の全身を駆け巡る。視界が、真っ赤に染まる。血が、信じられないほどの量で流れ出ている。
しかし、猪木は死ななかった。
東雲の刀は、致命傷を避けていた。あと数センチ深ければ、猪木の心臓や主要な臓器を切断していただろう。しかし、東雲は――あえて外したのだ。
なぜか。
それは、東雲自身にも分からなかった。ただ、この男を一刀で殺すことが――何か違う気がしたのだ。
猪木は、地面に倒れ込んだ。激痛のあまり、身体が痙攣する。それでもなお、猪木は抵抗しようとした。
半分に切断された三八式歩兵銃を、必死に握り締める。そして、東雲に向けようとした。
しかし、その瞬間――
銃身に残っていた火薬に、切断の際に生じた火花が引火した。
三八式歩兵銃が、猪木の手の中で暴発した。
炎と絶望
「うわあああ!?」
猪木の悲鳴が、さらに大きくなった。
暴発した三八式歩兵銃が、猪木の両手を焼き尽くした。火薬の爆発で、皮膚が焼けただれる。肉が焦げる臭いが、周囲に漂う。
猪木は、地面を転がり回った。激痛のあまり、理性を失っている。ただひたすらに、痛みから逃れようと、身体を動かし続ける。
「くそ……ぉ……」
東雲は、咒刀を下げる。
もう、この男に戦う力は残っていない。それは明白であった。東雲は、猪木から視線を外そうとした。
しかし、その時――
「上等兵!」
駆けつけてきたのは、アティヤであった。
アティヤは、革袋から医療器具を取り出すなり、猪木の傍らに膝をついた。そして、手当てを始める。
「なに……しやがる…………」
猪木の声は、掠れていた。激痛と出血で、もう長くは持たないだろう。
「動かないで! 手当てをしてるの」
アティヤの声には、必死さが滲んでいた。
「さわ…んな…うらぎり…ものが……」
猪木は、アティヤの手を払おうとした。しかし、その力はもう残っていない。
「黙ってよ!」
アティヤは、猪木の抵抗を無視して、手当てを続けた。
しかし――アティヤにも分かっていた。猪木の火傷は、あまりにも酷すぎる。両手は、もう原形を留めていない。そして、最初に東雲に斬られた傷からの出血も、止まらない。
この男は、助からない。
「俺は…皇国人だ…お前とちがって…純粋な皇国人、なんだよ……」
猪木の声が、僅かに力を帯びた。
「だったらなんなのよ!」
アティヤは、叫んだ。
なぜ、この男はそんなことにこだわるのか。血統が何だというのか。皇国人だろうと、混血児だろうと、人間は人間ではないのか。
「敵の捕虜になんて……なれるかよ!!」
猪木の叫びが、戦場に響いた。
その瞬間、アティヤは気づいた。
猪木の左手が、懐に伸びている。
「お前!」
アティヤの警告が、空しく響く。
猪木は、懐から手榴弾を取り出した。
その動作は、驚くほど素早かった。激痛に耐えながら、猪木は最後の力を振り絞って、手榴弾の安全ピンを歯でくわえた。
「化物もろとも死にやがれ!」
猪木は、安全ピンを外した。
カチリ、という小さな音が響く。それは、死の宣告であった。
「皇国万歳!」
猪木は、ありったけの大声で叫んだ。
その声には、狂気が宿っていた。しかし同時に、何か悲しい響きもあった。この男は、最後まで――皇国の兵士として死のうとしているのだ。
アティヤは、即座に動いた。
傍らにいた東雲の手を掴むと、岩陰に飛び込んだ。二人は、地面に這うようにうつ伏せになる。
そして――
数秒後。
轟音と共に、手榴弾が爆発した。
衝撃波が、周囲を襲う。岩陰に隠れていたアティヤと東雲にも、その衝撃は伝わってきた。耳が、キーンと鳴る。身体が、激しく揺さぶられる。
爆発が収まると、アティヤと東雲は顔を上げた。
そこには――
もう、猪木の姿はなかった。
いや、正確には――猪木だったものが、無残に飛び散っていた。
肉片が、周囲に散乱している。血が、地面を赤く染めている。そして、焦げた肉の臭いが、鼻を突く。
「今の…爆弾というものですか?」
東雲は、アティヤに尋ねた。
その声は、驚きがあった。爆弾の爆発という現象を、東雲は初めて目の当たりにした。火薬が爆発することは知識としては知っていたが、実際に見るのは初めてだったのだ。
「……いま……聞くな……」
アティヤの声は、掠れていた。
アティヤは、猪木がいた場所を見つめている。もう、そこには何もない。ただ、血と肉片が残されているだけ。
アティヤの目から、涙が溢れた。
猪木は、確かにアティヤを憎んでいた。差別し、罵り、裏切り者と断じた。しかし、それでも――彼は、アティヤの仲間だったのだ。
零零七部隊の一員として、共に訓練し、共に任務に挑んだ。その日々を、アティヤは忘れることができない。
「……ごめん……」
アティヤの呟きは、誰にも聞こえなかった。
ただ、血と硝煙の匂いだけが、その言葉を包み込んでいた。
戦場は、まだ終わっていない。
しかし、この一角においては――もう、戦いは終わっていた。
東雲は、ゆっくりと立ち上がった。そして、周囲を見渡す。
もう、立っている兵士はいなかった。全員が、地に倒れている。死んでいる者。瀕死の重傷を負っている者。意識を失っている者。様々であったが、共通していることは――もう、戦う力が残っていないということであった。
東雲の咒刀には、血が滴っていた。その刃は、多くの命を奪った。東雲は、その事実を受け入れた。
これは、戦いだった。
そして、戦いにおいては――勝者と敗者が生まれる。
東雲は、勝者となった。
しかし、その心には――何の喜びもなかった。
ただ、重い疲労感だけが、東雲の全身を包み込んでいた。
「お師匠様……」
東雲は、阿久刀の方を見た。
師は今、どうしているのか。栗林中尉との戦いは、決着がついたのか。
東雲の視線の先には――
まだ、戦いが続いていた。
血と鉛弾の饗宴は、ようやく幕を閉じようとしていた。
しかし、最後の戦いは――まだ、終わっていない。
阿久刀と栗林中尉の決戦が、今まさに――佳境を迎えようとしていた。




