運命の章 20話
二十代半ばと思しき痩身の男が、拠点の奥より悠然と歩み出た。
軍服を纏いながらも、その着こなしには気品が漂う。顔立ちは整い、額の広さが知性を、切れ長の瞳が洞察力を物語っていた。この男の存在そのものが、周囲の喧騒を静謐へと変える力を持っているかのようであった。
「隊長!」
兵士たちは一斉に背筋を伸ばし、右手を額に当てて敬礼した。その動作の統一性、規律正しさが、この男への絶対的な信頼を雄弁に語っている。
この男こそが、零零七部隊の指揮官――栗林勇二中尉であった。
栗林は、混乱する拠点の様子を一瞥すると、まず負傷者の有無を確認するかのように視線を巡らせた。そして、その視線がアティヤに留まる。僅かに目を細め、安堵の色が浮かんだ。
「アティヤ上等兵か。無事だったのだな」
栗林の声は穏やかであった。しかしその奥には、部下を案じる上官としての温かさと、同時に状況を冷静に分析する軍人としての鋭さが同居している。それは、修羅場を幾度となく潜り抜けてきた者だけが持つ、独特の落ち着きであった。
「はい。ご心配をおかけしました」
アティヤは、右手を額に当てて敬礼で応えた。その動作には、栗林という上官への敬意と、無事に戻れたことへの安堵が込められていた。
栗林の視線が、ゆっくりとアティヤの背後へと移動した。
そこには、異国の装束を纏った三人の人影がある。一人は壮年、というには若く見える男――腰に刀を佩き、その佇まいからして只者ではないことが窺える。一人は年若い少女――こちらも刀を帯び、凛とした表情で立っている。そして、最も栗林の注意を引いたのは――白亜色の髪を持つ、神々しいまでに美しい少女であった。
栗林の背筋に、言い知れぬ戦慄が走った。
あの少女は、何者なのか。纏う雰囲気が、明らかに他の二人とは異質である。まるで、俗世から隔絶された聖域から降臨した、神の使いのような――
「そちらの方々は?」
栗林の問いかけは、表面上は穏やかであった。しかし、その奥には警戒が潜んでいる。この島に来てから、栗林は幾度となく、常識では説明のつかない現象を目の当たりにしてきた。人の姿を真似る妖怪染みた生き物。幻影を作り出す摩訶不思議な術。そして――人間とは思えぬ戦闘能力を持つ者たち。
だからこそ、栗林は油断しなかった。目の前にいる三人が、どれほどの力を持っているのか。その真意は何なのか。全てを見極めるまでは、決して気を緩めるわけにはいかない。
「島の住人です。話し合いをしたいと……」
アティヤの説明に、栗林は僅かに眉を動かした。話し合い――その言葉が、栗林の心に僅かな希望を灯した。武力衝突を避けられるのであれば、それに越したことはない。しかし同時に、疑念も湧き上がる。なぜ、島の住人が、わざわざこの拠点まで来たのか。その目的は、本当に「話し合い」だけなのか。
「話し合い……か」
栗林は、その言葉を反芻するように呟いた。そして、壮年の男――阿久刀へと視線を向ける。
阿久刀もまた、栗林を見つめ返していた。その瞳には、敵意はない。しかし、警戒もまた消えていない。互いに、相手の力量を測り合っているのだ。
「個人的に、だ。島の代表でなく、国の要人でもない」
阿久刀が、一歩前に進み出た。その動作は静かで、戦いの中を生きた者の歩みであった。しかし同時に、無用な戦いを望んでいないことも、その佇まいから窺える。
「俺は阿久刀と言う。家名を名乗れない非礼は許してくれ」
阿久刀の声は、低く、しかし明瞭であった。家名を名乗れない――その言葉の裏には、複雑な事情があるのだろう。栗林は、それ以上追及することはしなかった。
「僕は栗林。階級は中尉。この零零七を預かっている指揮官だ」
栗林もまた、簡潔に自己紹介を返した。二人は立ったまま、向かい合っている。座る気配はない。これは、形式的な会談ではなく、真剣勝負の前哨戦なのだ。言葉という武器を用いた、静かなる戦い。
周囲の兵士たちは、息を詰めて二人のやり取りを見守っていた。銃を手にしながらも、発砲する様子はない。上官の命令を待っているのだ。しかし、その緊張は尋常ではない。いつ何時、この場が修羅場と化してもおかしくない――そんな危うい均衡の上に、この瞬間は成り立っていた。
「それで、話とは?」
栗林が、口火を切った。その声には、僅かな焦りが滲んでいた。時間は限られている。できるだけ早く、相手の真意を見極めねばならない。
「単刀直入に言う。即刻、島を去れ」
阿久刀の言葉は、明確であった。遠回しな表現も、外交辞令もない。ただ、核心を突く一言。
栗林は、その言葉を聞いて、僅かに目を細めた。予想していた通りの要求であった。しかし――
「率直な人だ」
栗林の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。それは、阿久刀の直截さを評価する笑みであった。この男は、信用できるかもしれない――栗林の心に、そんな思いが芽生えた。
「返答は?」
阿久刀は、栗林の笑みを無視して、答えを求めた。その目には、一切の妥協を許さぬ強さが宿っている。
栗林は、深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと息を吐き出す。この返答が、全てを決することになる。戦うか、去るか。その選択を、今、この場で下さねばならない。とはいえ、返答は決まっている。
「残念だが……無理だ」
栗林の声は、静かであった。しかし、そこには揺るぎない決意が込められていた。
「何故だ?」
阿久刀の問いに、栗林は三つの指を立てた。
「一つ、我々は任務を達成していない。二つ、帰還命令は出ていない。三つ、軍人は命令に従う」
一つ一つの理由を、栗林は明確に述べた。それは、軍人としての誇りであり、同時に責任でもあった。命令に背くことは、栗林には許されない。たとえ、それがどれほど理不尽なものであろうとも。
空気が、剣呑なものへと変わった。
周囲の兵士たちが、一斉に銃を構え直す。引き金に指をかけ、いつでも発砲できる態勢を取った。拠点全体が、戦闘態勢へと移行する。
阿久刀は、困った表情で嘆息した。その表情には、僅かな悲しみが浮かんでいる。
「命を大事にするべきだ。無用な戦いはしたくない」
その言葉には、真実が込められていた。阿久刀は、本心から戦いを避けたがっている。しかし同時に、もし戦いになれば――容赦はしない。その覚悟もまた、言葉の端々から感じられた。
「僕も同じ考えだ。でも、こればかりは譲れない。それに情報収集のために散らばった仲間もいる。彼らを置き去りにはしない」
栗林の声にも、苦悩が滲んでいた。戦いたくない。しかし、戦わねばならない。その矛盾が、栗林の心を引き裂いている。
苦難を乗り越えた仲間を見捨てることは、栗林にはできなかった。共に血を流し、共に汗を流し、共に笑い、共に泣いた仲間たち。彼らを見捨てて、自分だけが生き延びることなど――栗林の誇りが、それを許さなかった。
「散らばった仲間を呼び戻すには何日必要だ?」
阿久刀は、譲歩の余地を探ろうとした。全員を呼び戻す時間を与えるから、その後に去ってくれ――そんな提案を、心の中で組み立てている。
「……半月、いや一ヶ月はかかる。それでも全員が集まるかはわからない」
栗林の答えは、正直であった。あえて連絡を絶っている者がいれば、呼び戻すことは不可能だろう。深い部分に潜り込んでいれば、なおさらだ。島の奥深くに入り込んだ者を、どうやって見つけ出せばいいのか。
「その者達は諦めろ」
阿久刀の言葉は、冷徹であった。しかし、それは冷酷さからではない。現実を見据えた上での、苦渋の提案であった。
「諦める?」
栗林の声が、僅かに上ずった。仲間を諦めろ――その言葉が、栗林の心を激しく揺さぶる。
「探し出した者は出来うる限り我が家が身柄を預かろう。島で暮らせるよう手配もしよう。ただし、お前達は今すぐ島を去れ」
阿久刀の提案は、驚くべきものであった。敵であるはずの兵士たちを、保護すると言うのだ。島での生活を保証するとまで言う。それは、常識では考えられない譲歩であった。
栗林は、沈黙した。
初対面であるにも関わらず、阿久刀の言葉に嘘は見られない。この男は、信用のおける人物なのかもしれない――栗林の心に、そんな思いが芽生えた。
しかし――
栗林を含め、零零七の兵士たちは、島に上陸以来、想像を越えるものを目にしてきた。その結果、疑えば目に鬼を見るといえる印象を、島に抱いている。それこそ、同じ人間なのかと信じることが難しいほどに。
絵物語の生き物が空を飛ぶ。刀で銃弾を切り払う。幻影を作り出す。獣が言葉を話す。常識が通用しない世界。そんな島で、どうやって相手を信用すればいいのか。
「俺は反対だ!」
沈黙を破ったのは、アティヤと同じ年頃と思しき若者――猪木孝介上等兵であった。憤りのあまり、その声は震えている。
「こんな化け物ども信用できるかよ!」
その言葉は、あまりにも率直であり、そして侮蔑に満ちていた。
「化け物呼ばわりなんて……無礼な!」
東雲が、突っかかるように身を乗り出す。右手は、咒刀の柄に伸びている。いつでも抜けるように、いつでも斬れるように。その目には、激しい怒りが燃えていた。
阿久刀は、東雲を手で制した。その動作は静かだが、有無を言わさぬ力があった。東雲は、僅かに唇を噛みながらも、一歩下がる。
「猪木! 口を挟むな!」
大島が、猪木を羽交い締めにする。その力は強く、猪木は身動きが取れない。
「なんでだよ! 仲間が何人も死んでるんだぞ! 島の奴に殺されたんだ!」
猪木の叫びは、魂の底から絞り出されたものであった。その声には、悲しみと、怒りと、そして恐怖が混じり合っている。
暴れる猪木を見て、阿久刀は、自分が彼の言う仲間を切り殺したことを口にすることはしないと決めた。それを告げたところで、事態は悪化するだけだ。無用な刺激を与える必要はない。
「アティヤは裏切った! やっぱり信用するべきじゃなかった!」
猪木の矛先が、アティヤへと向けられた。
「あたしは裏切ってない!」
アティヤは、必死に反論する。しかし、その声は僅かに震えていた。本当に、自分は裏切っていないのだろうか――その疑念が、アティヤの心を蝕み始めている。
「敵を連れてきただろ!」
「敵じゃない!」アティヤは本心で叫ぶ。「仲間を守るために必要なことをしただけ!」
アティヤは、声を張り上げた。その声には、確信が込められている。
「仲間でしょ!!」
その言葉は、アティヤの魂の叫びであった。貧民街で生き延びてきたアティヤにとって、「仲間」という言葉は、特別な重みを持っている。独りぼっちではない。誰かに必要とされている。その証が、「仲間」という言葉なのだ。
「何が"仲間"だ!」
猪木は、アティヤを軽蔑の目で見た。その視線は、冷たく、鋭く、アティヤの心を深く傷つける。
アティヤは、その視線を何百回と受けてきた。差別の目。蔑みの目。人間として扱われない――そんな視線を、生まれてこの方、浴び続けてきた。
「穢児のくせに!」
その言葉が、アティヤの心に突き刺さった。
穢児――皇国人と征服者の間に産まれた子供を、そう呼ぶ。混血児。汚れた血。穢れた存在。そんな意味が込められた、差別用語。
アティヤは、一瞬、顔を下げた。身体が震える。怒りと、悔しさで。
しかし――
「うるさい! 言いたきゃ言え! いくらだって言え!!」
アティヤは、正面から言い返した。その声には、屈しない強さがあった。
アティヤは、恐れるつもりはなかった。
軍に入隊してからも、冷遇される毎日だった。特務調査部隊"零零七"に配属されてからは、能力を認められて、極少ないながら仲間もできた。それでも、猪木達を含む多くは、アティヤを仲間と思うことはなかった。
それでも、死んだ方がいいとは、決して思わなかった。
生きたい。認められたい。仲間になりたい。その願いだけが、アティヤを支えてきた。
「あたしは仲間を見殺しにしない!」
その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。たとえ差別されようとも、蔑まれようとも、アティヤは仲間を守る。それが、アティヤの誇りであった。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! お前は嘘つきだ! 裏切り者! 裏切り者!」
猪木は、もはや理性を失っていた。ただひたすらに、アティヤを罵り続ける。その声は、次第に狂気を帯びていく。
「猪木上等兵」
栗林が、静かに呼びかけた。しかし、その声には、有無を言わさぬ威厳があった。
栗林の目が、猪木の目を捉える。その視線は、静かであり、しかし絶対的であった。
「黙れ」
その一言で、猪木の口が閉じられた。上官の命令は、絶対である。それが、軍人の掟であった。
「部下が失礼した。この島に来て心が磨り減っているんだ」
栗林の声には、謝罪と、そして憐憫さが滲んでいた。
人間は、未知の、理解できない世界に足を踏み入れれば、急速に精神を削り取られ、病んでいく。特に、神秘から離れて久しい人間であれば、言うまでもない。
零零七の兵士たちは、この島で、常識では説明のつかない現象を目の当たりにしてきた。それは、彼らの世界観を根底から覆すものであった。信じていたものが、崩れ去る。頼りにしていたものが、通用しない。そんな状況の中で、彼らは必死に耐えてきた。
しかし、その限界が近づいている。猪木の暴発は、その兆候に過ぎない。このままでは、零零七全体が、狂気に呑まれかねない。
「ところで一つ気になってしかたがない事がある」
栗林の声が、再び響いた。その声音が、変わっている。先ほどまでの穏やかさは消え、代わりに、深い畏怖が滲んでいた。
全身が逆立つような畏敬の念――それが、栗林の心を支配している。
栗林の視線が、白帝へと向けられた。
白亜色の髪。神々しいまでの美しさ。そして、その纏う雰囲気。それは、人間のそれではない。もっと高次の、神聖な存在の気配。
「そこの女性は、何者だ?」




