運命の章 18話
空は蒼穹に満ちる――明保能阿久刀は、愛馬の手綱を握りながら、静かに息を吐いた。
一行は再び馬に跨がり、海竈門岬を目指して疾駆していた。蹄の音が規則正しく大地を打ち、朝の冷気を孕んだ風が頬を撫でる。しかし、その疾走の中にあっても、阿久刀の心は穏やかならざる波に揺れ続けていた。
前に座るアティヤの背中が、小刻みに震えている。
「平気か?」
阿久刀は低く声をかけた。その声には、気遣いが滲んでいる。
「平気じゃない。けど我慢する」
アティヤの返答は、歯を食いしばったような響きを帯びていた。乗馬酔いに苦しんでいるのは明白であった。顔色は蒼白で、額には脂汗が浮かんでいる。しかし、その表情には、弱音を吐くまいとする強い意志が宿っていた。
貧民街で生き延びてきた者の、したたかさと強さ――それが、この少女の芯を形作っているのだろう。阿久刀は、そんなアティヤの様子を見て、僅かに表情を和らげた。紫とは違う、しかし確かにこの少女には、尊重すべき強さがある。
阿久刀がアティヤと二人乗りを選んだのは、決して偶然ではなかった。聞かねばならぬことがある。確かめねばならぬことがある。その覚悟を胸に、阿久刀は馬を走らせ続けた。
一方、東雲は白帝を前に座らせた己が馬上で、見るからに全身を強張らせていた。
普段の東雲ならば、馬の扱いは優雅そのものである。明保能家で鍛えられた騎乗術は、既に一流の域に達していた。しかし今、その動きは明らかに硬い。手綱を握る手に力が入りすぎており、馬もそれを感じ取って時折不安げに首を振る。
それも無理からぬことであった。
東雲が前に乗せているのは、神を宿す器なのだ。テンを宿す現人神、白帝その人である。万が一にも落馬などさせれば、それこそ一族郎党、極刑に処されかねない。その重圧が、東雲の全身を縛っていた。
「(お、落ち着け……落ち着くのです、わたし……)」
東雲は心の中で己に言い聞かせた。しかし、その試みは功を奏さない。むしろ、意識すればするほど、身体は硬くなっていく。
白帝は、そんな東雲の緊張を感じ取っているのか、いないのか。相変わらず無表情のまま、前方を見据えている。その横顔は、まるで月光が形を成したかのように神々しく、東雲はその美しさに、そして神性に、改めて畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
阿久刀は、そんな東雲の様子を横目で確認しながら、心の中で苦笑した。東雲らしい真面目さである。その誠実さこそが、彼女の美点であり、同時に弱点でもある。しかし今は、その真面目さに助けられている。東雲が白帝を護ってくれている――その事実が、阿久刀に、アティヤと向き合う余裕を与えていた。
馬は疾走を続ける。
木々の間を縫うように、二頭の馬は駆けていく。朝露に濡れた草が、蹄に蹴散らされて飛沫を上げる。鳥たちの囀りが遠く聞こえ、やがてそれも風の音に呑まれていく。
阿久刀は、深く息を吸い込んだ。そして、心を決めた。
聞かねばならない。
今この時に。
「アティヤ」
阿久刀の声が、風を切り裂いて響いた。
その声音には、僅かな、しかし確かな覚悟が込められていた。これから問うことは、この少女にとって、おそらく触れられたくない領域であろう。しかし、それでも阿久刀は問わねばならない。白帝を護るために。この島を護るために。そして――この少女自身を護るために。
「………なに?」
アティヤの返答は、僅かに警戒を含んでいた。阿久刀の声の調子から、何か重要な話が来ることを察したのだろう。その敏感さもまた、貧民街で生き延びるために磨かれた本能であった。
「天蓋向日葵は今どこにいる」
その問いは、単刀直入であった。
一瞬、時が止まったかのような沈黙が訪れた。
アティヤの身体が、明らかに硬直する。背中越しにも、その動揺が伝わってきた。
「どうして……向日葵のこと……」
アティヤの声は掠れた。驚愕と困惑が、その声を震わせている。
なぜ、この男は向日葵のことを知っているのか。幻夢郷宮での出来事は、秘密のはずだった。誰にも知られていないはずだった。それなのに――
「手の内は明かさない」
阿久刀の返答は、冷徹であった。
「答えろ。彼女はどうした?」
その声には、一切の妥協がなかった。阿久刀は、この問いへの答えを、何としても得ねばならなかった。天蓋向日葵――あの少女は、あまりにも危険すぎる。その居場所を把握しておかねば、後々、取り返しのつかない事態を招きかねない。
阿久刀の脳裏には、夢見の中で見た光景が鮮明に蘇っていた。
幻夢郷宮の一室。月光の下、向日葵がアティヤを抱き締める場面。甘言を囁き、愛を語り、そして――少女の心を完全に絡め取っていく様。
それは、愛などではなかった。
支配であった。
向日葵は、アティヤの心の最も脆弱な部分――「独りぼっちでいたくない」という切実な願いを見抜き、そこに付け込んだのだ。愛という名の甘い毒を注ぎ込み、アティヤの意志を侵食していった。
その恐ろしさを、阿久刀は理解していた。
だからこそ、向日葵の行方を知らねばならない。あの少女が再びアティヤに接触すれば、アティヤは再び絡め取られるだろう。そして今度こそ、取り返しのつかないことになる。
アティヤは、しばしの間黙り込んだ。
答えるべきか、黙秘すべきか。その葛藤が、アティヤの表情に浮かんでいた。向日葵のことを話せば、彼女を裏切ることになる。しかし、話さなければ――この男は、どうするだろうか。
結局、アティヤは口を開いた。
「……わからない」
その声は、小さかった。しかし、確かに、アティヤ自身の言葉であった。
「どういうことだ?」
阿久刀の声が、僅かに鋭くなった。嘘をついているのか――その疑念が、声に滲んでいる。
「幻夢郷宮を脱出できた直後に、何か大きな影に覆われて……気を失ったの」
アティヤの言葉が、途切れ途切れに紡がれる。
「気がついたら、城下町の外れに倒れてた。あの子とあたしだけで……向日葵は、もういなかった」
大きな影――それは、一体何だったのか。
阿久刀の思考が、高速で回転する。幻夢郷宮から白帝を連れ出した直後、何者かが介入した。向日葵を連れ去り、白帝とアティヤだけを残した。
その「何者か」の正体は――
御遣様だろうか?。玉天が気づいて動いたのかもしれない。いや、それなら白帝を取り返しているはすだ。あるいは、別の存在が関与したのか。
いずれにせよ、向日葵は何者かの手によって、どこかへ連れ去られたのだろうか。生きているのか、死んでいるのか。それすらも、今は分からない。
「北部にいる仲間に、なんとか連絡を取って……合流しようとして……」
アティヤの声が、さらに小さくなる。
「それで、あんたと出くわしたの」
阿久刀は、その言葉で思い出した。あの夜の街道。突如として路地から飛び出してきた白帝とアティヤ。そして、彼女たちを追っていた四人の男。
「あんたが殺したのが……あたしの仲間よ」
アティヤの声には、僅かな非難が込められていた。しかし、それは激しい怒りではなかった。むしろ、諦念に近い響きがあった。
仲間――しかし、本当に「仲間」だったのだろうか。
阿久刀は、その疑問を口にしなかった。今は、それよりも重要なことがある。
「向日葵の行方は、本当にわからないのか?」
阿久刀は、再度確認した。この問いが、最も重要なのだ。
「本当よ」
アティヤは、力強く答えた。その声には、嘘をついている様子はなかった。本当に、向日葵の行方を知らないのだろう。
阿久刀は、深く息を吐いた。ならば、向日葵の捜索は、別の手段を講じるしかない。
「愛してるんだろう」
阿久刀の言葉が、唐突に響いた。
その瞬間――
アティヤの思考が、完全に停止した。
「………は……?」
間の抜けた声が、アティヤの口から漏れた。何を言われたのか、一瞬理解できなかったのだ。脳が、情報の処理を拒否している。
「ん?」
阿久刀は、首を傾げた。何か変なことを言っただろうか、という表情である。その無邪気さが、かえってアティヤの混乱を深めた。
アティヤは、ポカンと口を開けたまま、固まっていた。馬の揺れも、風の音も、全てが遠くなる。世界が、ぼやけていく。
「寝たんだろう?」
阿久刀は、さらに追い打ちをかけた。
その言葉は、あまりにも直接的で、容赦がなかった。
その瞬間――
アティヤの顔が、これ以上ないほど真っ赤に染め上がった。
耳まで、首筋まで、全てが紅潮する。まるで、茹でたエビのような色彩である。いや、それ以上だ。アティヤは、生まれてこの方、これほど恥ずかしい思いをしたことがなかった。
「な……なな……なんなん……なんで……」
言葉が、まともに出てこない。アティヤの口は、ぱくぱくと動いているが、意味のある言葉を紡げずにいた。舌が縺れ、喉が詰まり、呼吸すら忘れそうになる。
「見たからな」
阿久刀は、あっけらかんと答えた。その口調には、何の悪気もない。ただ事実を述べているだけ、という調子である。
「途中で目は閉じたぞ。聞いてはいたが」
その言葉で、アティヤは全てを理解した。
夢見――ハクの記憶を追体験する術。アティヤはその事実を知らないまでも、理解してしまった。
この男は、記憶を見たのだ。幻夢郷宮での生活を。向日葵との出会いを。そして――あの夜のことも。
向日葵に抱かれた夜。
愛を囁かれ、肌を重ね、魂を絡め取られた、あの夜を。
全て、見られた。全てを見ていたのは白帝と阿久刀。いや、「見られた」どころではない。追体験されたのだ。阿久刀は、ハクの視点を通して経験したのだ。向日葵の手が肌を撫でる感触も。囁かれる甘言も。身体の奥底から湧き上がる熱も。全てを――
「ああああああああああああああああああーーーーーッッッ!!!!!」
アティヤの絶叫が、朝の静寂を引き裂いた。
その声は、森を震わせ、鳥たちを驚かせ、そして二頭の馬を驚愕させるのに充分であった。
馬たちは、突然の叫び声に驚き、前脚を跳ね上げて嘶いた。興奮状態に陥った馬は、制御を失いかける。暴れ始める馬を、阿久刀と東雲は必死に宥めた。
「どう! どう!」
阿久刀は、愛馬の首筋を撫でながら、優しく語りかけた。その手つきは熟練されており、徐々に馬は落ち着きを取り戻していく。
東雲もまた、同様に馬を宥めていた。しかし、その表情には、明らかな困惑と怒りが浮かんでいる。
危うく白帝を落馬させるところであった。東雲は、心臓が止まるかと思った。生きた心地がしなかった。もし白帝が落馬していたら――想像するだけで、背筋が凍る。
「何なんですか! 何がしたいんですか! あなたは!」
東雲は目を吊り上げて、アティヤを睨んだ。その視線には、激しい非難が込められている。
しかし、東雲の文句も、アティヤには届かない。それどころではない。
アティヤは、阿久刀の胸を叩きながら、「あああーーー!!!」と叫び続けている。その顔は、恥ずかしさと怒りで歪んでいる。もはや、理性など働いていなかった。ただひたすらに、この恥ずかしさから逃れたい一心で、叫び続けるしかなかった。
「落ち着け。馬が驚く」
阿久刀は、冷静に答えた。その声には、僅かな困惑が滲んでいる。これほどまでに動揺されるとは、阿久刀も予想していなかった。
「落ち着けるわけないでしょ!」
アティヤは、さらに声を荒げた。
「あんたは……あんたは……!」
しかし、それ以上の言葉は出てこなかった。恥ずかしさのあまり、脳が機能停止しているのだ。何を言えばいいのか。どう抗議すればいいのか。全てが、混乱の渦の中に呑まれていく。
阿久刀は、そんなアティヤの様子を見て、小さく溜息をついた。
「すまない」
その言葉には、謝罪の念が込められていた。確かに、阿久刀の言い方は、あまりにも直接的すぎた。もう少し、オブラートに包むべきであったかもしれない。
しかし、阿久刀には時間がなかった。海竈門岬に到着するまでに、アティヤから必要な情報を全て聞き出さねばならない。ならば、遠回しな問いかけをしている余裕はないのだ。
「………もういい」
アティヤは、力なく呟いた。恥ずかしさで死にそうだが、それでも現実は続く。逃げることはできない。もう、全て見られてしまったのだ。ならば、隠すことなど何もない。
「ほかに何が聞きたいの……」
アティヤの声は、諦念に満ちていた。その声音には、もう抵抗する気力が残っていないことが表れている。
阿久刀は、一瞬の逡巡の後、核心を突く問いを発した。
「お前の目的を教えろ」
その声は、静かであった。しかし、その奥には、深い覚悟が宿っている。
「この島に何をしに来た。そして、何を持ち帰ろうとしている」
アティヤは、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「あたしは……旧皇国、今は二十七番植民地って呼ばれる国の……陸軍特務調査隊"零零七"所属の……上等兵よ」
その言葉は、阿久刀にとって聞き慣れぬものであった。
植民地? 皇国? 特務調査隊?
それらの言葉の意味するところを、阿久刀は完全には理解できない。しかし、一つだけ確かなことがある――アティヤは、界外の勢力に属する者なのだ。
「任務は、この島の調査。地形、人口、軍事力、文化――全てを調べて、報告すること」
阿久刀は、黙って聞いていた。その表情は、何も語らない。しかし、心の中では、激しく思考が渦巻いていた。
界外の勢力が、この島を調査している――その事実は、極めて重大である。それは即ち、界外の者たちが、この島に対して何らかの意図を持っているということだ。
侵略か。
交易か。
それとも、別の何かがあるのか。
いずれにせよ、この情報は、朝廷に報告せねばならない。しかし――その前に、阿久刀には確認すべきことがある。
「聖上を連れ去ることも、任務か?」
阿久刀の問いは、鋭かった。
「それは予定外よ」
アティヤは、即座に答えた。その声には、真実が宿っている。
「最初は、幻夢郷宮に入れるなんて思ってなかったし」
「だが入った」
「それは……色々あって……」
アティヤの声が、僅かに濁る。色々あって――その「色々」の中には、向日葵の存在があるのだろう。
「協力者は誰だ?」
阿久刀の追及は、容赦がない。
「何人かいるけど……わからない」
アティヤの答えに、阿久刀は眉を寄せた。わからない? それは、どういうことだ。
「……手を貸せ」
阿久刀は、アティヤの手を握った。
その瞬間、アティヤの身体が僅かに震えた。阿久刀の手は、温かかった。しかし同時に、何か鋭いものが、アティヤの内側に侵入してくるのを感じた。
阿久刀は、精神を集中させていた。咒を施し、アティヤの身体の巡りを探る。頭の先から足の指先まで慎重に、その全てを――
そして。
「……なるほどな。呪か」
阿久刀の声には、理解と、そして僅かな驚嘆が混じっていた。
「顔と声に、霞がかかっている感じだろう。思い出そうとすると、記憶があやふやになる」
「……うん」
アティヤは、小さく頷いた。その通りであった。協力者たちの顔を思い出そうとすると、なぜか霧がかかったように曖昧になる。声も、輪郭も、全てがぼやけてしまう。
それは、呪によるものだったのだ。
協力者たちは、自らの正体が露見しないよう、アティヤの記憶に呪をかけていた。高度な術である。おそらくは、悪虫家の技術であろう。
阿久刀の表情が、僅かに険しくなった。悪虫家が関与している――その確信が、さらに深まった。
「お師匠様! 見えてきました!」
並走する東雲が、前方を指差して叫んだ。
阿久刀は顔を上げた。
そこには――海竈門岬が、その姿を現していた。
断崖絶壁が、空高くそびえ立っている。荒々しい岩肌が、波に削られて複雑な形状を成している。そして、その向こうには――
海が広がっていた。
しかし、それは穏やかな海ではなかった。
近場の海は、確かに静かである。波も穏やかで、透き通った青い水面が、陽光を反射して輝いている。
しかし、遠目で見れば――
海は荒れ狂っていた。
波が逆巻き、巨大な渦を作り出している。そして、空からは竜巻が降り注ぎ、海面を抉り取っている。まるで、神々が怒り狂っているかのような、凄まじい光景であった。
八岐大蛇――それが、この魔の海域の名である。
島全体を厚く囲み、入ることも出ることも不可能にしている、絶対の障壁。
あの中に入れば、どれほど巨大な船であろうと、一瞬で粉砕される。神の御業としか言いようのない、圧倒的な力が、そこには渦巻いていた。
「ようやくだ」
阿久刀は、深く息を吐いた。
ここからが、正念場である。
白帝の御身は、絶対に守らねばならない。
アティヤを、できることならば斬らずに済ませたい。
そして――界外の者たちと、どう対峙するか。
知恵を絞り、力を尽くすしかない。
阿久刀は、決意を新たにした。馬に鞭を入れ、海竈門岬へと駆けていく。
運命の地が、もう目前に迫っていた。
この先に何が待っているのか――それは、まだ誰にも分からない。
しかし、ただ一つ確かなことがある。
この日、この場所で、全てが決まるのだ。
阿久刀は、咒刀の柄に手を添えた。いつでも抜けるように。いつでも戦えるように。
碧天の気配が、傍らに感じられた。神獣は、常に阿久刀と共にある。
東雲もまた、覚悟を決めた表情で馬を走らせている。白帝を護り抜く――その決意が、その瞳に宿っていた。
そして、アティヤは――
複雑な表情で、前方を見つめていた。
この先に、仲間がいる。
この先に、故郷への道がある。
しかし同時に――この先には、多くの血が流れるかもしれない。
アティヤは、己の選択の重さを、ようやく理解し始めていた。
四頭の蹄が、大地を打ち続ける。
海竈門岬が、刻一刻と近づいてくる。
運命の歯車が、最後の回転を始めた。




