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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子


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運命の章 16話

夜が明けようとする刻限――それは、闇と光の境界に佇む、世界が最も静謐に満ちる時間であった。

幻夢郷宮の一室。格子戸から差し込む微かな曙光が、寝台に横たわる二つの人影を淡く照らし出している。白亜の敷布が、まるで雪原のように二人の肌を覆い隠していた。

アティヤは、天井の梁を見つめていた。

その瞳には焦点がなく、ただ虚ろに木目を追っている。呼吸は規則正しく、身体は静止しているが、その内なる心は激しく波立っていた。まるで、穏やかな水面の下で渦巻く激流のように。

隣には、向日葵が眠っている。

白亜色の髪が枕に広がり、月光を受けて淡く輝いている。その寝顔は穏やかで、まるで天使のようであった。規則正しい寝息が、静寂の中に小さな波紋を投げかける。

アティヤの視線が、ゆっくりと向日葵へと向けられた。

何があったのか――その問いに、アティヤの心は明確な答えを持っていた。いや、持たざるを得なかった。記憶は鮮明すぎるほどに、その全てを克明に刻み込んでいる。

向日葵に愛された。

いや、正確には違う。「愛し合った」という言葉は、この状況には相応しくない。アティヤは、ただ身を委ねただけだった。抵抗することもなく、拒絶することもなく、ただ向日葵の導くままに、その甘い毒に身を浸したのだ。

「……はは……あたし、なにやってるんだろ……」

掠れた声が、唇から漏れた。

自嘲の笑い。しかし、その笑いは空虚で、どこか痛々しい響きを帯びていた。

アティヤは、自分自身に腹が立っていた。

言葉巧みに踊らされて――その事実が、まず第一に彼女の自尊心を傷つけた。向日葵の甘言に、あまりにも容易く屈服してしまった自分。貧民街で生き延びるために培ってきたはずの警戒心は、一体どこへ消えたのか。

向日葵の言いようにされて――その事実が、次に彼女の誇りを傷つけた。抵抗する力はあった。拒絶する意志も、最初は確かに存在した。それなのに、「愛している」というたった一言に、全てが崩れ去った。

そして、最も許せないのは――

それでも、喜びを感じている自分がいるということだった。

向日葵に抱かれた時、確かに幸福感があった。生まれて初めて、誰かに必要とされているという実感があった。独りぼっちではない、という安心感があった。

その感情を、アティヤは否定できなかった。

否定したかった。こんなのは本当の愛ではない、と。利用されているだけだ、と。しかし、心の奥底では――本当の愛かどうかなど、どうでもよかったのだ。

ただ、誰かに愛されたかった。

それだけが、アティヤの切実な願いであった。

アティヤは、ゆっくりと身を起こした。

敷布が滑り落ち、褐色の肌が曙光に照らされる。肩、背中、腰――向日葵につけられた痕が、薄紅色に残っていた。それを見て、アティヤは再び自嘲の笑みを浮かべる。

寝台から降りる。足が床に触れると、冷たさが伝わってきた。その冷たさが、僅かに彼女の意識を覚醒させる。

衣服を拾い上げる。昨夜、向日葵に脱がされた時、無造作に床に放られていたものだ。アティヤは黙々と、それらを身に纏い始めた。

まず、肌着。次に、小袖。そして、袴。

衣服を身につけるという行為は、単なる実用的な動作ではなかった。それは、向日葵との密着から自分を切り離す儀式でもあった。肌を覆うことで、心にも一枚の壁を作ろうとしている。

しかし、その試みは――

「んふふ。恵み野ちゃん……」

突然、背後から腕が伸びてきた。

アティヤの身体が、強引に引き戻される。バランスを崩し、再び寝台に倒れ込んだ。

「ちょ……もう朝だから……」

アティヤは、弱々しく抗議した。しかし、その声には力がない。本気で拒絶しようとしているようには聞こえなかった。

向日葵は、アティヤを背後から抱き締めた。

その身体は、依然として何も纏っていない。生まれたままの姿で、向日葵はアティヤの背中に自らの身体を密着させた。柔らかな感触。温かな体温。そして、甘やかな香り。

「恵み野ちゃんは温かくて気持ちいいですよ」

向日葵の声は、蕩けるように甘かった。その吐息が、アティヤの耳元をくすぐる。

「うぅ……」

アティヤは、小さく呻いた。

本気で引き離そうとすれば、できたはずだ。向日葵の腕力は、それほど強くない。貧民街で生き延びてきたアティヤの方が、遥かに力がある。

しかし、アティヤは抵抗しなかった。

なぜなら――この抱擁が、心地よかったからだ。

温もり。それは、アティヤがこれまでの人生で最も欠如していたものであった。貧民街では、誰もが敵であり、信用できる者など一人もいなかった。抱き締められるどころか、触れられることすら稀であった。

だからこそ、この温もりは――抗いがたいものだった。

向日葵は、アティヤの髪に顔を埋めた。深く息を吸い込む。

「んー……恵み野ちゃんの匂い……好きです……」

その言葉は、ねっとりとした粘性を帯びていた。まるで蜜のように甘く、しかし同時に、どこか危険な響きを持っている。

アティヤの心臓が、激しく鼓動し始めた。

理性は警告を発している。これ以上、向日葵に近づいてはいけない。この少女は危険だ。その甘言に惑わされてはいけない。

しかし、感情は――別のことを囁いていた。

もう少しだけ。もう少しだけ、この温もりに浸っていたい。

その葛藤が、アティヤの表情を歪めた。

向日葵は、そんなアティヤの様子を観察していた。その瞳には、何か深い洞察が宿っている。まるで、アティヤの心の内を全て見透かしているかのように。

そして――向日葵は、静かに口を開いた。

「一緒に……この島を出ませんか?」

その言葉は、唐突であった。

しかし同時に、アティヤの心を激しく揺さぶるものでもあった。

「島を出るって……」

アティヤは、思わず振り返った。向日葵の顔を見つめる。その瞳には、確信が宿っていた。冗談でも、思いつきでもない。本気の提案だ。

「島を出るんです」

向日葵は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「恵み野ちゃんなら、界外に詳しいですよね?」

その問いかけは、アティヤの正体を見抜いていることを意味していた。

アティヤの背筋に、冷たいものが走った。

「あ、あたしは……」

言葉が、喉に詰まった。

どう答えればいいのか。否定すべきか。それとも、認めるべきか。

しかし、向日葵は――アティヤの答えを待つことなく、次の言葉を告げた。

「わたしは、恵み野ちゃんを一番愛している人ですよ」

その言葉は、致命的であった。

アティヤの心の、最も深い部分を射抜く言葉。

愛している――その言葉を、アティヤは生まれてこの方、ほとんど聞いたことがなかった。いや、正確には、まともな形で聞いたことがなかった。

貧民街では、「愛している」という言葉は、しばしば利用や搾取の道具として使われた。本心からではなく、相手を騙すための甘言として。だから、アティヤはその言葉を信じなかった。信じられなかった。

しかし――

向日葵は、違った。

昨夜、向日葵はアティヤに愛を示した。言葉だけでなく、行動でも。その全身全霊で、アティヤを愛したのだ。

それが本物かどうか――アティヤには判断できない。

しかし、少なくとも――アティヤが欲しがっていたものを、向日葵は与えてくれた。

『アティヤを愛してくれる人』

それを、ようやく見つけたのだ。

手放したくない。

その欲求が、アティヤの心を激しく染め上げていった。黒く、粘性のある欲望が、理性を侵食していく。

「あぁ、でも」

向日葵は、一旦言葉を切った。

そして、僅かに困ったような表情を浮かべる。しかし、その困惑は演技のようにも見えた。計算されたものであるかのように。

「もう一人、連れ出したい人がいるんですよ」

その言葉に、アティヤは眉を寄せた。

「もう一人……?」

「えぇ」

向日葵は、にっこりと微笑んだ。

その笑顔は、天使のように無垢であり、しかし同時に、悪魔のように妖艶でもあった。

「聖上様です」

――世界が、静止した。

アティヤの思考が、完全に停止する。

聖上。白帝。テンを宿す器。この国の、いや、この島の最高位の存在。

その方を、連れ出す?。

「え……え……?」

アティヤは、言葉を失った。

困惑、驚愕、恐怖――様々な感情が、一度に押し寄せてくる。

「ま、待って……聖上様を連れ出すって……それって……」

「誘拐です」

向日葵は、あっけらかんと答えた。

その口調は、まるで「今日の夕飯は何にしましょうか」と尋ねるかのように、軽やかであった。

「むり……無理よ……そんなこと……」

アティヤは、必死に首を横に振った。

聖上を誘拐する――それは、この国において最大の罪である。発覚すれば、極刑は免れない。いや、極刑で済めば幸運だ。おそらくは、想像を絶する拷問の末に殺されるだろう。

「無理じゃありませんよ」

向日葵は、自信に満ちた声で答えた。

「わたしには、計画があります」

そして、向日葵はアティヤの耳元に顔を寄せた。

「聖上様も、この宮殿を出たがっているんです」

その囁きは、悪魔の誘惑であった。

「ずっと、ずっと、閉じ込められて……誰とも話すことができず……ただ神の器として扱われて……」

向日葵の声が、僅かに悲哀を帯びる。

「可哀想だと思いませんか?」

その問いかけは、アティヤの心に深く突き刺さった。

可哀想――確かに、そうかもしれない。

アティヤ自身、貧民街で独りぼっちだった。誰からも愛されず、誰からも必要とされず、ただ生きるためだけに毎日を過ごしていた。

白帝もまた、同じなのだろうか。

神を宿す器として、幻夢郷宮に閉じ込められ、誰とも心を通わせることができず、ただ孤独に耐えている。

「でも……」

アティヤは、なおも躊躇した。

理性が、最後の抵抗を試みている。これは間違っている。犯罪だ。裏切りだ。

しかし――

「恵み野ちゃん」

向日葵の手が、アティヤの頬に触れた。

優しく、しかし確実に、アティヤの顔を自分の方に向けさせる。

二人の視線が、交わった。

向日葵の瞳は、深い紫色に輝いていた。その瞳の奥には、何か計り知れない感情が渦巻いている。愛情か、狂気か、それとも――その全てか。

「わたしは、恵み野ちゃんを愛しています」

再び、その言葉。

「だから、一緒に逃げましょう」

そして、致命的な一言。

「三人で」

向日葵の唇が、アティヤの唇に重ねられた。

柔らかく、温かく、そして甘い口づけ。

アティヤの心の中で、最後の抵抗が崩れ去った。

理性が、感情に飲み込まれる。

正しさよりも、温もりを選んだ。

倫理よりも、愛情を選んだ。

――いや、違う。

アティヤは、本当は分かっていた。

これは愛情などではない。向日葵の言葉は、甘い毒だ。利用されているだけかもしれない。騙されているだけかもしれない。

しかし――

それでも、アティヤには選択肢がなかった。

独りぼっちに戻るくらいなら、騙されている方がましだった。

利用されているだけでも、必要とされていることに変わりはなかった。

だから――

「……わかった」

アティヤは、静かに答えた。

「あたしも、一緒に行く」

その言葉を口にした瞬間、アティヤの中で何かが決定的に変わった。

もう、後戻りはできない。

運命の歯車が、不可逆的に回り始めた。

向日葵は、満面の笑みを浮かべた。

「えぇ。それでこそ、わたしの愛する恵み野ちゃんです」

そして、二人は抱き合った。

曙光が、部屋をより明るく照らし始める。

新しい一日が始まろうとしていた。

しかし、この日は――全てを変える、運命の日となるのであった。


それから数日後。

向日葵の計画は、驚くほど綿密であった。

幻夢郷宮の構造、警備の配置、御役目様たちの行動パターン――全てを、向日葵は完璧に把握していた。まるで、この日のために長い時間をかけて準備してきたかのように。

そして、ある夜――

満月が中天に昇る刻限。

向日葵とアティヤは、白帝の私室へと忍び込んだ。

部屋は、静寂に包まれていた。白帝は、いつものように正座の姿勢で瞑目している。その姿は、まるで彫像のようであった。

「聖上様」

向日葵は、恭しく声をかけた。

白帝の瞼が、ゆっくりと開かれる。

白帝の声は、平坦であった。しかし、その奥には僅かな疑問が含まれている。

「このような時刻に何用ですか」

「お話があります」

向日葵は、一歩前に進み出た。

「聖上様。この宮殿を、出ませんか?」

その言葉に、白帝の表情が――僅かに、本当に僅かに動いた。

「………出る?」

「えぇ」

向日葵は、確信に満ちた声で答えた。

「外の世界を、見に行きましょう」

白帝は、しばしの沈黙の後――

「それは禁じられています」

そう答えた。

「わたしは器です。外に出ることは許されていません」

その声には、諦念が滲んでいた。

しかし同時に――僅かな、本当に僅かな渇望も感じられた。

向日葵は、その僅かな渇望を見逃さなかった。

「聖上様は、外の世界を見たいと思ったことはありませんか?」

その問いかけに、白帝は答えなかった。

しかし、その沈黙こそが――答えであった。

「雲海の向こうに広がる街を」

向日葵は、静かに語り続けた。

「人々が笑い、泣き、怒り、喜ぶ場所を」

「季節ごとに変わる景色を」

「誰かと心を通わせることを」

一つ一つの言葉が、白帝の心に深く突き刺さっていく。

白帝は――いや、器の少女ハクは、確かに望んでいた。

外の世界を見たい。

人々と触れ合いたい。

ただの一人の少女として、生きてみたい。

しかし――それは、許されない願いであった。

器は、器としてのみ存在することを許される。人間としての感情を持つことは、認められていない。

「でも……」

白帝の声が、初めて感情を帯びた。

「わたしがいなくなれば……困る人が……」

「困りません」

向日葵は、断言した。

「聖上様は、ずっと利用されてきただけです」

その言葉は、冷酷であった。

しかし同時に――真実でもあった。

朝廷の政治家たちは、白帝を利用しようとしていた。神の権威を借りて、自らの立場を強化しようとしていた。白帝自身の幸福など、誰も考えていなかった。

「聖上様が本当に望むことを、してもいいんです」

向日葵は、白帝の手を取った。

「わたしたちと一緒に、逃げましょう」

白帝は、向日葵の手を見つめた。

温かな手。

この一ヶ月、向日葵は白帝に優しく接してきた。他の者たちが神として畏怖するのに対し、向日葵だけは、白帝を一人の少女として扱ってくれた。

それが――ハクは嬉しかった。

「………わたしは………」

白帝の声が、震えた。

器の制御が、僅かに緩んでいる。今、表に出ているのは、テンではなく、ハクであった。

「行きたい……です……」

その言葉は、小さかった。

しかし、確かに――ハク自身の意志であった。

向日葵は、満面の笑みを浮かべた。

「えぇ。それでは、参りましょう」

そして――

幻夢郷宮からの脱出が、始まったのである。

向日葵の計画は、完璧であった。

まず、硝子風鈴の監視を欺くために、向日葵は事前に幻夢郷宮内に幻術を仕掛けていた。それは、彼女たちが部屋にいるように見せかける高度な術であった。

次に、天ノ橋を渡らずに幻夢郷宮を出るために、向日葵は裏道を用意していた。それは、地下に張り巡らされた、古い水路であった。太古の時代の建設時に使われたものだが、今では誰も使っていない。

アティヤは、白帝を抱えて水路を進んだ。冷たい水が膝まで浸かる。暗闇の中、向日葵が持つ小さな灯りだけが頼りであった。

「大丈夫ですか、聖上様」

アティヤは、心配そうに尋ねた。

白帝は、無言で頷いた。その表情には、不安と期待が入り混じっていた。

やがて、水路の出口に到達した。

重い鉄格子が道を塞いでいたが、向日葵は事前に鍵を外していた。格子を押し開けると、外の空気が流れ込んできた。

「出られました……」

アティヤは、感嘆の声を漏らした。

本当に、幻夢郷宮から脱出できたのだ。

三人は、夜の闇に紛れて街道を走った。

目指すは、北の港。そこには、向日葵が事前に手配した小舟があるはずだった。

しかし――

彼女たちは、気づいていなかった。

既に、追手が動き始めていることを。

小袖白菊は、すぐに異変に気づいた。

硝子風鈴からの報告が途絶えた瞬間、彼女は部屋に飛び込んだ。そして、そこにいたのは――幻影であった。

「……やられた」

小袖白菊の顔が、激しい怒りに歪んだ。

付喪神たちは、すぐに幻夢郷宮中を捜索した。しかし、白帝の姿はどこにもなかった。

そして、向日葵とアティヤも消えていた。

「拐かされた」

小袖白菊は、そう結論づけた。

そして、即座に朝廷に報告が上げられた。

神を宿す器の誘拐――それは、前代未聞の大事件であった。

朝廷は、大混乱に陥った。

しかし同時に――追手の派遣も、迅速に行われた。

向日葵たちが逃げ切れるかどうか――それは、時間との勝負であった。

月が雲に隠れ、三人の逃亡者を闇が包み込んだ。

運命の歯車は、もう止まらない。

この逃避行の果てに、何が待っているのか――

それは、誰にも分からなかった。

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