運命の章 15話
幻夢郷宮への無断の侵入という前代未聞の事態から、既に一月の歳月が流れていた。
朝廷は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。神の器が住まう聖域への不敬極まる侵入——これは単なる不法侵入などという生易しい罪ではない。神への冒涜であり、秩序への挑戦であり、千年続いてきた伝統への唾棄であった。
明官の一団——金枝王と呼ばれる身代わり王の世話を掌る役人たちが、調査と称して幻夢郷宮への立ち入りを求めた。彼らの言葉は丁寧であったが、その裏には明白な意図が潜んでいる。明官たちは、この機に乗じて幻夢郷宮への影響力を強めようと画策していたのだ。
しかし、テンは無関心を示した。
人間の政治闘争など、神にとっては塵芥に等しい。陽官たちの思惑も、野心も、全ては神の視界には入らない。そして、器である白帝もまた、テンの意志を体現するかのように、明官たちの要求を丁重に、しかし断固として拒絶した。
明官たちは天ノ橋の袂に集まり、声高に叫んだ。
「侵入者を罰せよ!」
「不敬の罪人を処刑せよ!」
「秩序を乱した者に死を!」
彼らの声は、日に日に大きくなっていった。朝廷の他の派閥も、この混乱に乗じて自らの立場を強化しようと画策し始めた。宰相の斎宮春日は、巧みに朝廷を操り、侵入者への厳罰を求める声を煽った。
だが、白帝は動じなかった。
結果として、アティヤと天蓋向日葵と名乗る二人の少女は、白帝の庇護の下に置かれることとなった。処刑ではなく、しばしの間、下女として幻夢郷宮に留まることが許されたのである。
この決定は、朝廷に新たな波紋を呼んだ。なぜ聖上は、罪人を庇うのか。そこにはどのような意図があるのか。様々な憶測が飛び交い、陰謀論が囁かれた。
しかし真実は、誰にも分からない。白帝の——いや、テンの真意は、人間には測り知れないのだ。
春の陽光が、幻夢郷宮の回廊を優しく照らしていた。
木々の新緑が風に揺れ、鳥たちの囀りが静寂を彩っている。この聖域には、俗世の喧騒は届かない。時間の流れすらも、ここでは異なる速度で進んでいるかのようであった。
回廊の一角で、向日葵は箒を手に、丁寧に床を掃いていた。その動作は優雅で、まるで舞を踊っているかのようだ。白亜色の髪が陽光を受けて淡く輝き、その姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった。
「聖上さまぁ——お掃除終わりましたー」
向日葵は、あけすけな振る舞いのまま、白帝に抱きつこうと駆け寄った。その無邪気な様子は、まるで主人に懐く子犬のようである。
しかし、次の瞬間——
小袖白菊の手が、電光石火の速さで向日葵の襟首を掴んだ。
「きゃあっ!」
短い悲鳴と共に、向日葵の身体が宙を舞った。そして、床に転がり落ちる。痛みで顔を顰めながらも、向日葵はすぐに起き上がった。
「あ!これって不敬なんでしょうか?」
向日葵は、遅れて戻ってきたアティヤに向かって首を傾げた。その表情には、反省の色は微塵もない。むしろ、どこか楽しんでいるようにすら見える。
「恵み野ちゃん、どう思います?」
「知らないわよ……」
アティヤは呆れたように溜息をついた。掃除道具を抱えたまま、疲労の色を隠せずにいる。この一月、アティヤは幻夢郷宮での生活に慣れようと必死であった。しかし、向日葵の奔放な振る舞いには、未だに戸惑いを覚えることが多かった。
向日葵は、アティヤに抱きついた。そして、頬を頬に擦り寄せる。その仕草は、親愛の情を示すものであったが、同時にどこか不自然な、作られたような印象も与えた。
「人の花。過ぎたることは許さぬ」
小袖白菊の声が、冷たく響いた。その目には、向日葵への警戒が露わに宿っている。
小袖白菊は、向日葵という存在を信用していなかった。いや、信用できなかった。この少女の纏う雰囲気——優雅で、おっとりとしているように見えて、その実、何か得体の知れぬものが潜んでいる。それを、小袖白菊は本能的に感じ取っていた。
「ごめんなさぁい」
向日葵は、アティヤの背中に隠れながら謝罪した。その声は、のんびりと間延びしている。恐怖を感じている様子は全くない。
小袖白菊は警戒心をさらに強めたものの、それ以上の行動には出なかった。白帝が向日葵の処分を決めていない以上、小袖白菊も勝手に手を下すことはできない。
白帝は、相変わらず回廊の端に座し、雲海を眺めていた。その姿は静謐そのものであり、周囲の騒動など全く耳に入っていないかのようであった。
「ほら、行くわよ」
アティヤが向日葵の手を引いた。
「はぁい」
二人は調理場へと向かった。休憩時間である。昼御飯を作る時間だ。
とはいえ、用意するのは二人分だけである。白帝も、付喪神たちも、食事を必要としない。幻夢郷宮に住む者たちは、総じてそういった存在であった。
この宮殿に調理場が存在すること自体が異例なのだ。元々、ここには調理の必要がなかった。しかし、アティヤと向日葵という人間が来てから、急遽、調理場が設けられたのである。
調理場は、幻夢郷宮の中でも最も「人間的」な場所であった。
竈があり、鍋があり、食材が並んでいる。その光景は、どこにでもある普通の台所と変わらない。しかし、この場所だけが、幻夢郷宮という非日常の中にある、小さな日常の島であった。
アティヤは、竈に火をつけた。乾いた薪が燃え始め、暖かな炎が立ち上る。鉄鍋を火にかけ、熱していく。
「今日は野菜炒めとご飯とスープね」
アティヤは手慣れた様子で食材を取り出し始めた。この一月で、アティヤは調理にもかなり慣れてきた。元々、貧民街で育った彼女は、限られた食材で食事を作ることには長けていた。ただし、その料理法は豪快で、繊細さには欠けていたが。
「スープ?」
向日葵が首を傾げた。
「あ、えっと、味噌汁……味噌汁よ」
アティヤは慌てて言い直した。この島では、スープという言葉は馴染みがない。味噌汁と呼ぶのが正しいのだ。アティヤは時々、こうして界外の言葉を口にしてしまい、後から焦ることがあった。
「わたし、ご飯を炊きますねー」
向日葵は、朝から水に浸けておいた白米を取り出し、炊飯にかかった。その手つきは丁寧で、無駄がない。一粒一粒の米を大切に扱っている。
アティヤは、豚バラ肉を切り始めた。包丁の扱いは、お世辞にも上手いとは言えない。肉の厚さはバラバラで、切り口も粗い。しかし、アティヤは気にしない。見た目よりも、味が重要なのだ。
キャベツ、玉ねぎ、人参、椎茸を次々と刻んでいく。こちらも大きさはバラバラだ。大きな塊もあれば、細かく刻まれたものもある。統一感など、アティヤの辞書には存在しない。
熱した鉄鍋に、刻んだ食材を放り込む。ジュウジュウという音と共に、香ばしい匂いが立ち上った。アティヤは豪快に鍋を振り、食材を炒めていく。火加減は強火。一気に火を通す。
仕上げに塩を振り、大皿に盛り付ける。
その様子を見ていた向日葵は、目を丸くした。
「なに?」
アティヤが不機嫌そうに尋ねる。
「んー。気になります。なんかとっても気になります」
向日葵の声には、驚きと、そして僅かな困惑が混じっていた。
「だからなに?」
「あ、ご飯が炊けました。お味噌汁も出来上がりです」
向日葵は、話題を変えるように、炊き上がったご飯と味噌汁を食卓に運んだ。その動作は優雅で、まるで宮中の侍女のようであった。
アティヤは、片付けを後回しにして椅子に座った。料理は温かい内が美味しい。それが、アティヤの信条であった。
「いただきます」
「頂戴いたします」
二人は手を合わせ、食事を始めた。
静かな食事の時間が流れる。
アティヤは、ご飯を勢いよくかきこんでいた。その食べっぷりは、決して上品とは言えない。しかし、それがアティヤらしさでもあった。
対照的に、向日葵は、一口一口を丁寧に味わっている。箸の持ち方も美しく、姿勢も正しい。まるで貴族の令嬢のような優雅さであった。
「恵み野ちゃんの先生は何て方ですか?」
突然、向日葵が尋ねた。
「……先生?」
アティヤは、口に含んでいたご飯を飲み込みながら、首を傾げた。
「先生ですよ。礼儀作法や朝廷の所作を教えてくれる先生です」
向日葵の声は、相変わらず柔らかい。しかし、その質問の裏には、何か探るような意図が感じられた。
「一団に参加するには先生の推薦状がないと駄目だったじゃないですか。だから、どなたに頂いたのかなって思って」
その言葉に、アティヤは危うく喉を詰まらせるところだった。
アティヤが従者の一団に参加した——それは、表向きの説明である。実際には、アティヤは候補者の一人を襲い、推薦状を奪い取って潜り込んだのだ。先生など、最初から存在しない。
「あー……あたしの先生は厳しい人で、むやみに名前を教えちゃだめって言われてるのよ……」
アティヤは、苦し紛れに嘘をついた。その声は、僅かに震えている。
「そうなんですか?けど、恵み野ちゃんって大雑把だから、てっきり寛大な先生かと思ったんですけどねー」
向日葵の言葉は、鋭かった。その観察眼の鋭さに、アティヤは冷や汗をかく。この少女は、一見するとのんびりしているように見えて、実は非常に鋭い洞察力を持っているのだ。
「わたしの先生なら、角を生やして鬼のような顔をしてますよぉ」
向日葵は、にこやかに答えた。その笑顔には、どこか作り物めいた印象がある。
「そ、そう」
アティヤは、なんとか誤魔化せたかと内心で安堵した。しかし、その安堵も束の間——向日葵の視線が、じっとアティヤを見つめていることに気づいた。
「ふふ。恵み野ちゃんはかわいいですねー」
向日葵の声が、ねっとりとした響きを帯びる。その視線は、まるで獲物を見定める捕食者のようであった。
向日葵は、ゆっくりと手を伸ばした。そして、アティヤの頬に触れる。
アティヤの頬には、ご飯粒がついていた。向日葵は、指先でそれを掴むと——
自分の口に運んだ。
その仕草の艶めかしさに、アティヤは思わず息を呑んだ。頬が、一気に熱くなる。心臓が激しく鼓動し始めた。
「は、はやく食べて仕事に戻るわよっ」
アティヤは慌てて立ち上がった。居心地が悪い。このままここにいては、何か取り返しのつかないことになりそうな予感がした。
アティヤは、急いでご飯を口にかきこむと、食器を洗い場に放り込んだ。そして、逃げるように調理場を出ていった。
向日葵は、取り残された形となった。しかし、その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「ふふふ……」
向日葵の笑い声が、静かに調理場に響いた。
午後の陽光が、幻夢郷宮を黄金色に染めていた。
アティヤは、一人になれたことを確認すると、深く息をついた。胸の鼓動が、ようやく落ち着き始める。
「なんなのよ……あの子」
アティヤは、小声で呟いた。
向日葵という存在は、アティヤにとって謎に満ちていた。優雅で、おっとりとしていて、どこか浮世離れしている。しかし同時に、何か計り知れない深さを持っている。
そして——あの視線。
あれは、単なる親愛の情ではない。もっと別の、何か濃密な感情が込められている。それが何なのか、アティヤには分からなかった。いや、分かりたくなかった。
「……仕事しよ」
アティヤは、気持ちを切り替えて仕事に戻った。
幻夢郷宮の清掃は、決して楽な仕事ではない。広大な宮殿の隅々まで、埃一つ残さず掃除しなければならない。しかし、アティヤにとっては、この仕事は悪くなかった。少なくとも、貧民街で生き延びるために盗みや詐欺を働くよりは、遥かにましである。
アティヤは、掃除道具を抱えて廊下を歩いた。
幻夢郷宮の内部構造を調べること——それが、アティヤに課せられた任務である。最も本来は市井を探り情報を集める事だったのだが、アティヤは独断でこの宮殿の秘密を探り、情報として持ち帰ることにしたのだ。それができれば、多大な功績だ。仲間たちからも認められ、もう二度と「穢児」などと蔑まれることもなくなるだろう。
しかし、その任務は、思うように進んでいなかった。
最大の障害は——監視の目である。
アティヤは、常に見られている感覚に苛まれていた。視線を感じる。しかし、その視線の主は、決して姿を現さない。
それは、硝子風鈴の付喪神であった。
透明な存在である硝子風鈴は、目に見えない。しかし、確かにそこにいて、アティヤの一挙手一投足を監視している。不審な行動をすれば、即座に殺される。その確信が、アティヤの動きを縛っていた。
「(見られてるのはわかるんだけど……どこから見てるのかまったくわからないし……)」
アティヤは、周囲を警戒しながら廊下を進んだ。しかし、硝子風鈴の姿は、やはり見えない。
「(とにかく覚えられるだけ覚えて、隙を見て逃げないと)」
アティヤは、心の中で決意を新たにした。
神の住む聖域に侵入できたとは、仲間たちも想像していないはずだ。この情報があれば、国に帰れる。そして、自分を認めてもらえる。もう二度と、独りぼっちにはならない。
その希望だけが、アティヤを支えていた。
夕刻が近づき、陽光が朱色に染まり始めた頃。
アティヤは、仕事を終えて一休みしようと、露台へと向かった。そこからは、眼下に広がる雲海を一望できる。
「……こんなの、向こうでも見たことない……」
アティヤは、思わず感嘆の声を漏らした。
雲海が、夕日を受けて黄金色に輝いている。遠くには山々が連なり、さらにその向こうには、人々が暮らす街が小さく見えた。空には、夕焼けが広がり、赤、橙、紫、藍——様々な色が混じり合って、息を呑むような美しさを作り出している。
泥と汚水にまみれた貧民街で生きてきたアティヤにとって、これほど美しい景色は、生まれて初めてであった。世界には、こんなにも美しい場所があるのだと、アティヤは初めて知った。
しばしの間、アティヤは景色に見惚れていた。しかし、やがて現実に引き戻される。仕事は終わっていない。まだやるべきことがある。
アティヤは、掃除道具を抱えて廊下を歩き始めた。
幻夢郷宮の内部構造——それを、少しずつ頭に叩き込んでいく。どこに何があるのか。どの部屋がどう繋がっているのか。非常口はあるのか。全てを記憶しなければならない。
しかし、その作業は遅々として進まなかった。
なぜなら——
「人の花」
突然、背後から声がかかった。
アティヤは、ビクリと身体を震わせた。振り返ると、そこには小袖白菊が立っていた。
長身痩躯の黒髪の女性。いや、女性の姿をした付喪神。その鋭い目が、アティヤを見据えている。
「お、御役目様。何かご用ですか?」
アティヤは、努めて平静を装って尋ねた。しかし、声は僅かに震えている。
「手のひらを出せ」
小袖白菊の声は、冷たく、命令的であった。
「え……?」
アティヤは戸惑った。なぜ手のひらを出さなければならないのか。その理由が分からない。
しかし、小袖白菊の目は、有無を言わさぬ強さを持っていた。逆らえば、殺される。その確信が、アティヤの心を支配した。
アティヤは、恐る恐る右手を差し出した。
次の瞬間——
閃光が走った。
「あいたっ!」
アティヤの悲鳴が、廊下に響いた。
小袖白菊の刀が、アティヤの手のひらを切り裂いたのだ。傷は浅い。手を両断されたわけではない。しかし、それでも血がボタボタと流れ落ちる。鋭い痛みが、アティヤの全身を駆け巡った。
小袖白菊は、自らの手のひらでアティヤの血を受け止めた。そして——
その血を、飲み干した。
「覚えた」
小袖白菊は、短くそう告げると、踵を返して去っていった。傷を押さえてうずくまるアティヤなど、眼中にないかのように。
「なん……なのよ……!くそ……!」
アティヤは、痛みに耐えながら立ち上がった。手のひらから血が流れ続けている。このままでは、出血多量で倒れてしまうかもしれない。
アティヤは、必死に自室へと向かった。
部屋に辿り着いた時、アティヤの顔は蒼白になっていた。
手のひらを押さえているが、血は止まらない。指の間から赤い液体が滲み出し、床にポタポタと落ちている。
部屋は二人部屋であった。アティヤと向日葵が共に使う部屋である。
扉を開けると、先に向日葵が戻っていた。椅子に座り、何か小さな物を手にいじっている。
「えぇ?恵み野ちゃん、それどうしたんですか?」
向日葵は、アティヤの姿を見るなり立ち上がった。その表情には、驚きと心配が浮かんでいる。
向日葵は、素早くアティヤの傍に駆け寄ると、傷ついた手に触れた。
「いったい!!」
アティヤは、思わず悲鳴を上げた。傷口に触れられて、激痛が走ったのだ。
「刀傷ですねー。えーっとぉ」
向日葵は、冷静に傷を観察した。そして、棚から医療道具を取り出し始める。その手際の良さは、明らかに慣れた者のものであった。
向日葵は、まず傷口を水で洗い流した。次に、殺菌のための薬草を塗布する。そして、止血のために布を巻いていく。その一連の動作は、無駄がなく、的確であった。
「恵み野ちゃん。これ飲んでくださぁい」
向日葵は、小さな酒杯を取り出した。その中には、濃い緑色の液体が入っている。独特の、薬草の匂いが漂っていた。
「ん……」
アティヤは、疑うことなくその液体を一口で飲み干した。
その瞬間——
「……ぐほお!」
アティヤの口から、乙女らしからぬ声が漏れた。そして、そのまま後ろに倒れ込む。意識が、一気に遠のいていった。
「あー。量まちがえちゃいました」
向日葵は、頭を掻きながら呟いた。
その液体は、身体の治癒力を高める薬草液であった。しかし、本来は一滴を水に混ぜて飲むものである。それを、向日葵は原液のまま飲ませてしまったのだ。
人間の身体には、許容量というものがある。薬も、過ぎれば毒となる。アティヤの身体は、急激に流れ込んだ治癒力の波に耐えきれず、強制的にシャットダウンしたのである。
「うーん。まぁ恵み野ちゃんならだいじょうぶ」
向日葵は、鼻歌を歌いながら、口から泡を吹いているアティヤを抱え上げた。そして、寝台に寝かせる。
アティヤの顔は真っ青であったが、呼吸は安定していた。治癒力が暴走しているが、命に別状はないだろう。向日葵は、そう判断した。
向日葵は、アティヤの額に手を当てた。熱はない。脈も正常だ。
「大丈夫ですよ。すぐに元気になりますから」
向日葵は、眠るアティヤに優しく語りかけた。その声には、不思議な温もりがあった。
夜が深まる。
幻夢郷宮は、静寂に包まれていた。月が中天に昇り、その光が宮殿を銀色に染めている。
部屋には、吊り灯籠の明かりが灯っていた。その光は柔らかく、部屋全体を優しく照らしている。
アティヤは、ゆっくりと意識を取り戻した。
最初に感じたのは、身体の重さであった。鉛のように重い。動かそうとしても、思うように動かない。頭がぼんやりとしていて、くらくらする。
しかし、不思議なことに——痛みはなかった。
アティヤは、手のひらを見た。そこには、包帯が巻かれていた。血は止まっている。傷の痛みも、もうない。
「………ん………」
アティヤは、身体を起こそうとした。しかし、力が入らない。仕方なく、横になったまま周囲を確認する。
天井が見えた。木目の美しい、丁寧に磨かれた天井である。自分が寝台に横たわっていることを、アティヤは理解した。
そして——隣に、誰かがいることに気づいた。
アティヤが視線を向けると、そこには向日葵が眠っていた。
白亜色の髪が、月光を受けて淡く輝いている。穏やかな寝顔。規則正しい寝息。その姿は、まるで天使のようであった。
「……」
アティヤは、静かに向日葵を見つめた。
この一ヶ月、向日葵と共に過ごしてきた。最初は警戒していた。得体の知れない少女。何を考えているのか分からない。しかし、次第に——アティヤは、向日葵に惹かれ始めていた。
それは、恋なのだろうか。
「(……もしかして……あたし………)」
アティヤは、その可能性を考えた。しかし、すぐに頭を左右に振って否定する。
「(ないないない。そんなこと絶対にない!)」
アティヤは、自分に言い聞かせた。恋などではない。ただの、同情だ。同じような境遇の者同士、共感しているだけだ。それ以上の何かではない。
しかし——
「……んんー……」
向日葵が、身じろぎをした。そして、ゆっくりと瞼を開ける。
二人の視線が、交わった。
月光の下、向日葵の瞳が妖しく輝いている。その瞳には、何か深い感情が宿っていた。それが何なのか、アティヤには分からない。分かりたくもない。
「恵み野ちゃん、気がついたんですね」
向日葵の声は、寝ぼけているようでいて、しかし確かに覚醒していた。
そして——
向日葵は、アティヤに抱きついた。
「ちょ、ちょっと…」
アティヤは戸惑った。身体が動かない。抵抗することもできない。
「んふふー…」
向日葵は、満面の笑顔を浮かべた。その笑顔は、純粋で、無邪気で、しかし同時に——どこか危険な響きを帯びていた。
向日葵の手が、アティヤの肌を撫で始めた。
その手つきは、優しかった。しかし、ただの優しさではない。もっと別の、何か濃密な感情が込められていた。
まるで愛撫だ。
アティヤは、身体が熱くなっていくのを感じた。媚薬を飲まされたかのように、身体の芯から熱が湧き上がってくる。心臓が激しく鼓動し、呼吸が乱れる。
「恵み野ちゃん」
向日葵は、アティヤの耳元で囁いた。その吐息が、アティヤの耳を撫でる。そして——
向日葵は、アティヤの耳たぶに口づけした。そして、甘噛みする。
「っ!」
アティヤの身体が、ビクリと震えた。驚きで、身体が固まる。
「わたし、恵み野ちゃんのこと好きですよ」
向日葵の声が、甘くねっとりとした響きを帯びる。蕩けるような声色。それは、まるで蜜のように甘く、そして毒のように危険であった。
向日葵は、動けないアティヤの身体を優しく抱き締めた。濃密な、恋の匂いが漂う。それは、甘く、危険で、そして——抗いがたい誘惑であった。
「愛してますよ」
向日葵は、アティヤの心の底の渇望を知り尽くしているかのように、彼女が欲しがっている言葉を与えていく。
愛している。
その言葉を、アティヤは生まれてこの方、一度も言われたことがなかった。誰からも愛されず、誰からも必要とされず、ただ独りで生きてきた。
だからこそ——その言葉は、アティヤの心に深く突き刺さった。
「あ、あたしは…!」
アティヤは、何か言おうとした。しかし、言葉が出てこない。
「愛してます愛してます愛してます愛してますよ」
向日葵は、次々と途切れなく愛の言葉を注ぎ込んでいく。それは、甘い毒であった。アティヤは、その毒に侵され、抵抗する力を奪われていく。
向日葵は、アティヤに覆い被さった。
月光が、二人の姿を照らしている。
「ひ、ひまわ…」
アティヤは、押し退けようとした。しかし、身体が動かない。いや、動かしたくない。その矛盾した感情が、アティヤを苦しめた。
向日葵は、アティヤの目を見つめた。そして、静かに、しかし致命的な言葉を告げた。
「愛されたくないですか?」
その問いかけは、アティヤの心の最も深い部分を抉った。
「誰にも愛されないままでいたいんですか?」
さらに深く。
「永遠に独りぼっちでいいんですか?」
その言葉は、致命傷に似た刃であった。アティヤの心を、一突きにする。
アティヤの目から、涙が溢れた。
「……………ひとりぼっちは…いや……」
その言葉は、掠れていた。か細く、しかし確かに、アティヤの本音が込められていた。
独りぼっちは、嫌だ。
誰かに愛されたい。
誰かに必要とされたい。
それが、アティヤの切実な願いであった。
だからこそ、アティヤは手段を選ばず、ここまで来たのだ。仲間を裏切ることも、嘘をつくことも、盗みをすることも——全ては、独りぼっちから逃れるためだった。
それでも、アティヤは独りぼっちのままだった。
「もう恵み野ちゃんはひとりぼっちじゃありません」
向日葵は、優しく囁いた。その声には、確信が込められている。
向日葵は、アティヤの衣服に手を掛けた。
「わたしが愛してあげますからね」
アティヤは、抵抗する意思を失った。
涙が、頬を伝って流れ落ちる。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。安堵の涙であった。
ようやく——ようやく、自分を愛してくれる人が現れた。
アティヤは、向日葵に全てを委ねた。
月光だけが、二人の姿を静かに見守っていた。




