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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子


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14/28

運命の章 14話

東天に曙光が滲み始める刻限、明保能阿久刀は深い眠りの淵から意識を浮上させた。

瞼を開く。最初に映ったのは、梢の間から覗く藍色の空であった。夜の帳は未だ完全には去らず、しかし確実に、不可逆的に、光が闇を押しのけつつある。その境界の時間――魑魅魍魎が消え、人の世が目覚める前の、世界が最も静謐に満ちる瞬間。

阿久刀は身を起こした。全身に鈍い疲労が残っている。それは肉体の疲弊ではない。魂の、精神の疲労であった。

碧天の神力によって編まれた夢の中で、阿久刀は白帝――いや、器の少女ハクの記憶を追体験した。幻夢郷宮への侵入者。屋根から落ちてきた薄めの褐色の肌を持つ少女。そして、柱の影から現れた白亜色の髪の少女。

「……天蓋向日葵」

阿久刀は低く呟いた。その名を口にすると、舌の上に苦い味が広がるような感覚がある。あの少女の存在には、何か得体の知れぬものが纏わりついていた。優雅で、おっとりとした振る舞いの下に潜む、狂気の影。

視線を巡らせる。焚火の残り火は既に消え、白い灰だけが風に舞っていた。東雲とアティヤは、それぞれ離れた場所で丸くなって眠っている。少し離れた木の根元には、白帝が正座の姿勢のまま瞑目していた。眠っているのか、それとも器の内なる対話をしているのか。その区別は、人間には判別できない。

阿久刀は静かに立ち上がった。身体を伸ばす。関節が小さく音を立てる。額の傷が僅かに疼いた。東雲に斬らせたあの傷――神咒を断ち切るために必要だった、自らの選択の痕跡。

「なんとも大胆なことをする」

独り言が、朝靄に溶けていく。アティヤのことである。幻夢郷宮の屋根から侵入するなど、常軌を逸している。いや、常軌を逸しているからこそ、誰も予想せず、結果として成功したのかもしれない。

思考が巡る。なぜアティヤは、あの難攻不落の聖域に侵入できたのか。幻夢郷宮は朝廷の最奥にあり、無数の術式によって守られている。天ノ橋以外に入り口はなく、その橋を渡るには白帝の許可が絶対に必要だ。にもかかわらず、アティヤは屋根から――つまり、空から侵入した。

「碧天」

阿久刀は声を潜めて友を呼んだ。返事はない。しかし阿久刀は知っている。碧天は常に傍にいる。姿を見せていないだけで、確かに存在している。

数秒の沈黙の後、虚空が僅かに揺らいだ。そこから、純白の巨大な狼の頭部がゆっくりと現れる。琥珀色の瞳が、阿久刀を静かに見つめていた。

「甘いものが欲しいか?」

阿久刀は苦笑を浮かべながら、懐から小さな布袋を取り出した。中には飴色の棒状の菓子が入っている。花林糖――米粉と小麦粉を練って油で揚げ、黒砂糖の蜜をまとわせた菓子である。

碧天の顎が大きく開いた。阿久刀はその口腔に花林糖を放り込む。碧天は満足そうに咀嚼し、その巨体が僅かに震えた。喜びの表現である。

『うむ。存外に旨い』

碧天の声が、言葉というよりも思念として阿久刀の心に響く。

「褒美だな。昨夜、テンのもとへ送り出してくれた礼だ」

阿久刀は腰を下ろし、碧天と向き合った。二人の間には、長年培われた絆がある。主従でも、友でもある。いや、それ以上の何かだ。魂と魂が直接に触れ合う、言葉を超えた関係性。

「昨夜の夢で見た。アティヤが幻夢郷宮に侵入したところだ」

阿久刀は静かに語り始めた。碧天は黙って聞いている。

「なぜあの娘は、幻夢郷宮に入れたと思う?」

阿久刀の問いに、碧天は僅かに首を傾げた。そして、まるで当然のことを述べるかのように答える。

『人の施した人避けの術など、足に絡む茨にもならぬ』

その言葉は、神獣らしい超然とした物言いであった。人間が作り出した術式など、御遣様にとっては取るに足らないものだ、という傲慢さと真実が同居している。

「それは御遣様らしい答えだ」

阿久刀は溜息を吐いた。碧天の言葉は正しい。しかし、それは碧天のような神獣に対してのみ適用される真理である。アティヤは人間だ。たとえ何らかの特殊な能力を持っていたとしても、朝廷が何百年もかけて築き上げた防御の術式を、ただの人間が突破できるとは思えない。

「……術避けの何かを持っていたのか。それとも、誰かの手引きか」

阿久刀の呟きは、自問であった。答えは今、この場にはない。しかし、その答えを見つけることは、極めて重要だ。なぜなら、それは島の防御体制の根幹を揺るがす情報だから。

もし術避けの道具が存在するならば、それはどこから来たものなのか。島の外――界外からもたらされたものなのか。それとも、島の内部に裏切り者がいて、アティヤに与えたのか。

そして、もう一つの疑問。

「天蓋向日葵……」

阿久刀は、その名を再び口にした。あの少女もまた、幻夢郷宮に侵入した。アティヤとは異なり、正面から堂々と。まるで招待された客人のように。

あの少女の存在は、謎に満ちている。どこから来たのか。何が目的なのか。そして、なぜ白帝――いや、器のハクに接触しようとしたのか。

「碧天」

阿久刀の声には、僅かな緊張が含まれていた。

「最悪、自決も覚悟しないと駄目そうだ」

その言葉は、重かった。自決――それは、武人にとって最後の選択肢である。しかし、状況によっては、それが最善の選択となることもある。捕らえられて敵に情報を吐かされる前に、己の命を絶つことは、武士の誉れとする者もいる。

阿久刀の懸念は、そこにあった。この先、海竈門岬に辿り着き、そこで何が待っているのか。界外の者たちが、どのような力を持っているのか。未知数すぎる。もし圧倒的な力の差があり、捕縛が避けられない状況になったら――

碧天は、顎を大きく開いて笑った。

『かかか。その時は我と二人、思う存分暴れてやろうぞ』

碧天の声には、戦いへの期待が滲んでいた。神獣である碧天にとって、死は終わりではない。魂は不滅であり、たとえ肉体が滅んでも、やがて別の形で顕現する。だからこそ、碧天は死を恐れない。むしろ、死ぬ前に全力で暴れることこそが、神獣の本懐であった。

「あぁ、それもいいかもなぁ」

阿久刀は、碧天の首筋を優しく撫でた。温かい体温が、手のひらに伝わってくる。この温もりが、阿久刀の心を落ち着かせた。

二人の間に、しばしの沈黙が流れる。それは気まずい沈黙ではなく、互いの存在を確認し合う、心地よい静寂であった。

やがて、東の空がより明るくなり始めた。暁光が森を照らし、木々の葉が金色に輝き始める。鳥たちが目覚め、囀りが聞こえ始めた。

「起こすか」

阿久刀は立ち上がった。東雲とアティヤを起こす時間だ。二日の内に海竈門岬に到達しなければならない。そして、そこで何が待っているにせよ、準備を整えておく必要がある。

阿久刀は東雲に近づいた。丸くなって眠る少女の肩を、優しく揺する。

「シノ」

呼びかけると、東雲は即座に目を開けた。その反応の速さは、武家の娘として訓練された結果である。眠りから覚めた瞬間でも、周囲の状況を即座に把握し、必要なら戦闘態勢に入る。それが、東雲に叩き込まれた習慣であった。

「お、おはようございます」

東雲の声は僅かに掠れていた。喉が乾いているのだろう。阿久刀は水袋を取り出し、東雲に手渡す。

「飲め。それから顔を洗ってこい」

「はい」

東雲は水袋を受け取ると、近くの小川へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、阿久刀は内心で安堵した。東雲は、昨夜のアティヤとの喧嘩から立ち直っているようだ。あの二人の関係性は複雑だが、少なくとも殺し合うような事態にはならないだろう。

次に、阿久刀はアティヤに近づいた。この少女は、東雲とは対照的に、深い眠りに落ちている。肩を揺すっても、なかなか目を覚まさない。

「おい。起きろ」

声をかけても反応がない。阿久刀は溜息をつくと、アティヤの頬を軽く叩いた。

「うぅ……もう少し……」

アティヤは寝言を呟きながら、身体を丸めた。まるで子供のようだ。阿久刀は苦笑すると、今度は少し強めに肩を揺すった。

「起きろ。日が昇る」

「……うぅ……おはよ。うぅ、からだ……カラダいたい……」

ようやく目を開けたアティヤは、全身を伸ばしながら呻いた。昨夜の喧嘩の疲れが残っているのだろう。身体のあちこちに打撲の痕がある。

「身体が痛いのは、お前が東雲と喧嘩したからだ」

阿久刀の言葉に、アティヤは苦い顔をした。昨夜の出来事を思い出したのだろう。恥ずかしさと、そして何か別の感情が、その表情に浮かんでいた。

東雲が小川から戻ってくると、すぐに身支度を始めた。その動きは無駄がなく、訓練された者特有の効率性がある。一方、アティヤは再び横になろうとして、東雲に背中を叩かれた。

「起きてください。すぐに出発です」

東雲の声は冷たかった。しかし、その冷たさには昨夜までのような敵意は感じられない。むしろ、姉が妹を叱るような、そんな調子であった。

「わかったわよ……」

アティヤは不満そうに立ち上がった。

阿久刀は、白帝の方を向いた。少女は依然として正座の姿勢を崩さず、瞑目している。その姿は、まるで彫像のようだ。

「聖上」

阿久刀が声をかけると、白帝はゆっくりと瞼を開いた。その瞳には、深い紫色の光が宿っている。しかし、その光は昨日よりも僅かに弱まっているように見えた。

「感謝申し上げます」

阿久刀は深く頭を下げた。昨夜、白帝は自らの記憶を阿久刀に見せてくれた。それは、神が人間に与える、極めて稀な恩寵である。

「またゆめのなかで」

白帝の声は、いつもと変わらぬ平坦な調子だった。しかし、阿久刀はその声の奥に、僅かな疲労を感じ取った。

阿久刀は段々と理解してきた。器の少女ハクと、神のテンは、融合と分離を繰り返しているのだ。完全に一つになることもなく、完全に別れることもない。その狭間で、ハクは自己を保ち続けている。

それは、想像を絶する苦痛を伴うはずだ。器がテンを宿すということは、人間が裸で太陽に向かっていくようなものだ。圧倒的な熱量に、肌を、肉を、骨を焼かれ、想像を絶する苦痛にのたうち回る。しかし、それでも近づかずにいられない。魂が、テンを求めるからだ。

器の魂は、遅かれ早かれテンと融合し、やがて殆どをテンが支配するようになる。それが、器の宿命であった。

しかし、ハクという器は異質だ。十年もの間、己を保ち続けている。これは、驚異的なことだ。器の平均寿命は五年から九年。最も短命な者は、融合からわずか四十二秒で薨去したと記録に残っている。それを考えれば、ハクの強靭さは尋常ではない。

「すぐに出発だ。急ぐぞ」

阿久刀は荷物をまとめ始めた。焚火の跡を埋め、周囲に散らばった物を片付ける。東雲も手伝い、二人で素早く野営地を元の状態に戻していく。

馬が二頭、近くの木に繋がれていた。阿久刀は馬の背を撫で、耳元で囁く。

「もう少しだけ、頼むぞ」

馬は鼻を鳴らして応えた。この馬たちも、長い旅路に疲れているはずだ。しかし、彼らは文句一つ言わず、主人に従ってくれる。

阿久刀は馬に跨がり、白帝を前に抱えるようにして座らせた。少女の身体は驚くほど軽い。まるで羽毛のようだ。しかし、その軽さの中に、計り知れない重みが宿っているのを、阿久刀は感じ取っていた。

東雲も馬に乗り、アティヤを後ろに乗せた。アティヤは不満そうな表情を浮かべている。

「お腹すいたんだけど……」

アティヤの腹が、タイミング良く鳴った。グゥーという音が、朝の静寂に響く。東雲は呆れたように溜息をつくと、懐から干し肉を取り出してアティヤに投げて寄越した。

「文句は無しです」

「……わかってるわよ」

アティヤは干し肉を受け取ると、不機嫌そうに齧り始めた。しかし、その目には、昨日までの敵意は消えていた。代わりに、何か複雑な感情が宿っている。

二頭の馬は、全速力で駆け抜けた。

朝日が昇り、森が光に包まれる。鳥たちの囀りが響き、風が木々を揺らす。美しい朝であった。しかし、阿久刀の心は平穏ではなかった。

この先に何が待っているのか。海竈門岬に、本当に船があるのか。そして、その船は――界外への道を開くものなのか。

阿久刀は手綱を握り締めながら、前方を見つめた。答えは、もうすぐ明らかになる。


二度目の野宿を迎えた。

太陽は西の空に沈み、薄暮の光が森を包んでいる。長い一日の旅路の果てに、一行は適度な開けた場所を見つけ、そこで野営の準備を始めた。

「山芋と山菜を見つけました」

東雲が、両手いっぱいに採取した食材を抱えて戻ってきた。その顔には、達成感が浮かんでいる。山の中で食料を調達する技術は、武家の娘にとって必須の技能であった。

「食べられる……?茸を採ってきたわよ」

アティヤも、遅れて戻ってきた。しかし、その手に持っているのは、明らかに毒々しい色をした茸であった。傘の部分が鮮やかな赤色で、白い斑点が無数に散らばっている。

東雲は一目見るなり、無表情でその茸を受け取り、そのまま森の奥へと放り投げた。

「ちょっと!せっかく見つけたのに!」

アティヤは抗議の声を上げた。しかし、東雲は冷静に答える。

「これは毒キノコです。食べますか?」

その問いかけは、修辞疑問であった。食べるわけがない、という前提が含まれている。

「……」

アティヤは黙り込んだ。確かに、毒キノコを食べたいとは思わない。しかし、それを見分けられなかったことが、少し恥ずかしかった。

阿久刀は、二人のやり取りを苦笑しながら見守っていた。この二人は、昨夜の喧嘩以降、微妙に関係性が変化している。完全に仲良くなったわけではないが、少なくとも敵対はしていない。むしろ、姉妹のような、そんな雰囲気すら感じられる。

阿久刀は焚き火に鍋を置いた。そして、東雲が採ってきた山芋と山菜を丁寧に洗い、適度な大きさに切っていく。山芋は粘りが強く、包丁にまとわりつく。しかし、阿久刀の手つきは慣れたもので、素早く、そして無駄なく食材を処理していく。

鍋に水を張り、切った食材を加える。やがて水が煮立ち始めると、阿久刀は懐から小さな袋を取り出した。中には、拳大の大きさの、真ん丸い物体が入っている。

「なにそれ?」「飯玉だ」

阿久刀は呟きながら、その物体を鍋に投入した。

「干し肉は入れないの?」

アティヤが、期待に満ちた声で尋ねた。彼女は、昨日食べた燥肉の味が忘れられないのだ。あの香ばしさ、柔らかさ、そして深い旨味。貧民街で育ったアティヤにとって、あれほど美味しい食事は生まれて初めてであった。

「入れません。飯玉を入れましたから」

東雲が、素っ気なく答えた。しかし、その口元には、僅かな笑みが浮かんでいる。アティヤの食い意地の張った様子が、どこか微笑ましいのだろう。

飯玉――それは、米を炊いて固め、乾燥させた携行食である。一見すると、ただの米の塊に見える。しかし、実は中に具材が入っている。保存食としても優れており、旅人や兵士には欠かせないものだ。

鍋の中で、飯玉がゆっくりと崩れ始めた。すると、突然、芳醇な香りが立ち上った。

鮭の身の香り。

そして、香辛料の複雑な香り。

それらが混ざり合い、鼻腔を刺激する。思わず唾液が湧いてくるような、食欲を掻き立てる香りであった。

「…………」

アティヤは、鍋から目を離せなくなっていた。その視線は、まるで獲物を狙う肉食獣のようだ。口元から、僅かに涎が垂れそうになっている。

「よだれ出てます」

東雲が、冷静に指摘した。

「出てない!」

アティヤは慌てて腕で口元を拭った。顔が真っ赤になっている。恥ずかしさと、そして食欲が入り混じった、複雑な表情であった。

東雲は、その様子を見て小さく笑った。アティヤは食べ物に弱い。それが、この数日でよくわかった。どんなに意地を張っていても、美味しい食事を前にすれば、あっという間に態度が軟化する。ある意味、わかりやすい性格だ。

火が食材に通るまで、しばらく煮る。その間、阿久刀と東雲は咒刀の手入れを始めた。

咒刀の手入れは、通常の刀とは異なる。油を塗ったり、砥石で研いだりするのではない。咒を施し、使い手との繋がりを維持するのだ。

阿久刀は咒刀を膝の上に置き、瞼を閉じた。意識を集中させ、刀に宿る咒と対話する。刀は生きている。使い手の意志に応え、共に戦う相棒だ。しかし、繋がりを怠れば、咒刀は衰え、老い、やがて死ぬ。だからこそ、毎日の手入れが欠かせない。

東雲も同様に、己の咒刀と対話していた。彼女の咒刀は、まだ仮初のものだ。いずれ、自分自身の咒刀を作らなければならない。しかし、それまでの間、この借り物の咒刀を大切に扱い、信頼関係を築いていく必要がある。

「ねえ!もうできたんじゃない!」

アティヤの叫び声が、二人の瞑想を破った。鍋から立ち上る湯気と香りに、アティヤの食欲は限界に達していた。

「あぁ。完成だ」

阿久刀は瞼を開け、咒刀を腰に戻した。そして、鍋の蓋を開ける。

湯気が一気に立ち上り、さらに強烈な香りが周囲に広がった。鍋の中では、崩れた飯玉が粥状になり、鮭の身がほぐれて混ざり合っている。山芋のとろみが全体を包み、山菜の緑が彩りを添えている。

東雲が、お椀に丁寧に盛り付けていく。まず一つ目を、阿久刀に手渡す。

阿久刀はそのお椀を受け取ると、白帝の方を向いた。

「聖上」

阿久刀は、そのお椀を白帝に差し出した。白帝は、相変わらず正座の姿勢を崩さず、瞑目している。

「あはふようです」

白帝の声が、静かに響いた。食事を必要としない白帝。いや、正確には、必要とするのは器の身体だけであり、テンは食事など求めない。そして今、主導権を握っているのはテンなのだろう。

「わかっています。ただ、この香りは心を落ち着ける効能があります。器の御方のためにもどうか持っていただけないでしょうか」

阿久刀の言葉には、深い配慮が込められていた。器の身体は、テンを宿すことで常に緊張状態にある。その疲労は計り知れない。せめて、香りだけでも、器の心を癒すことができれば――。

白帝は、ゆっくりとお椀を受け取った。そして、目を閉じたまま、その香りを静かに嗅いでいる。

「(……器の御方は相当疲弊している、か)」

阿久刀は心の中で呟いた。白帝の――いや、ハクの状態を確認できた。かなり消耗している。このままでは、海竈門岬に到達する前に、限界を迎えるかもしれない。

しかし、それを口にすることはできない。白帝の前で、器の脆弱さを指摘することは、不敬に当たる。阿久刀は無言で一歩下がり、白帝を一人にした。

東雲とアティヤは、既に粥を食べ始めていた。

東雲は、行儀作法がしっかりと身についている。背筋を伸ばし、お椀を丁寧に持ち、音を立てずに食べる。一口一口を噛みしめ、味わっている。

対照的に、アティヤは、まるで三日ぶりの食事に飛びついた野生児のようだった。行儀も何もない。ただひたすら、口に掻き込んでいる。

「……もう少し落ち着いて……」

東雲が呆れたように呟いた。しかし、その声には非難は含まれていない。むしろ、どこか諦めたような、そして僅かに楽しんでいるような響きがあった。

「おかわり!」

アティヤは、あっという間にお椀を空にすると、東雲に差し出した。その目は、まだ食べ足りないと訴えている。

「はぁ……。お師匠様、お師匠様の分です」

東雲は溜息をつきながら、阿久刀にお椀を渡した。そして、アティヤには二杯目を盛り付ける。

阿久刀は東雲からお椀を受け取り、礼を言った。

「ありがとう」

一口、口に運ぶ。鮭の味が溶け出した米に絡み、上品な香りが鼻腔をくすぐる。ホクホクとした山芋の食感と、新鮮な山菜のほのかな苦味が、全体のバランスを整えている。

「……旨い」

阿久刀の呟きは、心からのものだった。疲れた身体に、温かい食事が染み渡る。これほどの幸福感があるだろうか。

食事が終わると、片付けが始まった。使った鍋や椀を、小川の水で洗う。焚火の火を小さくし、夜を通して燃え続けるように薪を調整する。

東雲とアティヤは、早々に横になった。一日の疲れが、どっと押し寄せてきたのだろう。二人とも、すぐに眠りについた。規則正しい寝息が、夜の静寂に溶けていく。

阿久刀は、焚火の傍らに座り、夜空を見上げた。満天の星が瞬いている。この星空は、千年前も、そして千年後も、変わらずにそこにあるのだろう。人の営みなど、星々にとっては一瞬の煌めきに過ぎない。

『阿久刀』

碧天の声が、心に響いた。虚空から、碧天の顔が半分だけ現れている。

「どうした?」

『酒が飲みたいぞ』

碧天の要求は、単刀直入であった。阿久刀は苦笑する。

「今は持ち合わせがない」

『テンのもとに送り出してやったのにか?』

碧天の声には、不満が滲んでいた。昨夜も、そして今夜も、碧天は阿久刀をテンの記憶の中へと送り出す。それは、かなりの神力を消費する行為だ。その対価として、碧天は酒を要求しているのだ。

「戻ったら、いい酒をやる」

阿久刀は約束した。

「あぁ、今夜も頼むぞ」

『うむ。極上の酒を捧げるのだ』

碧天は満足そうに頷いた。そして、再び姿を消す。

阿久刀は横になり、瞼を閉じた。碧天の咆哮が、静かに、しかし確実に、夜の空間を震わせた。それは人間の耳には聞こえない、魂に直接響く音波であった。

阿久刀の意識は、ゆっくりと沈んでいく。

現実世界から離れ、夢の中へ。

そして、白帝の――器のハクの記憶の続きを見るために。

幻夢郷宮での出来事。アティヤと天蓋向日葵の侵入。その後、何が起きたのか。

答えは、夢の中にある。

阿久刀の意識は、完全に闇に沈んだ。そして――別の世界へと、誘われていった。

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