運命の章 13話
暗闇——それは、光の不在ではなく、光そのものが存在し得ない場所であった。阿久刀は、その無限の闇の中に立っていた。いや、「立つ」という表現すら相応しくない。彼の身体は存在しているようでいて、同時に存在していない。触れることのできる地面はなく、しかし彼は落下することもない。重力という概念すら、この場所には適用されないのだ。
これは夢である。しかし、ただの夢ではない。碧天の神力によって編まれた、魂と魂が直接に触れ合う特別な空間——神域である。
阿久刀の意識は明瞭だった。現実世界で眠りについている自身の肉体を、遠い場所に感じながらも、今ここに在る精神は確かに覚醒している。この矛盾した状態こそが、神域の本質であった。
視線の先に、一つの光が浮かんでいた。
白帝——いや、この場では、器ではなくテンそのものと呼ぶべき存在が、静かに佇んでいる。
少女の姿をしているが、その本質は人間のそれとは全く異なる。白亜色の髪は、まるで月光が糸となって紡がれたかのように淡く輝き、その光は周囲の闇を押しのけることなく、ただそこに在るだけで空間全体を変容させている。瞳は閉じられており、表情は無い——いや、表情という人間的な概念を超越した、何か別の次元の「在り方」がそこにあった。
阿久刀は、深く息を吸い込んだ。この場所に息は必要ない。しかし、心を落ち着けるための儀式として、彼は呼吸の動作を行う。
「聖上」
阿久刀の声は、言葉として発せられたのか、それとも思念として伝わったのか、その境界は曖昧だった。しかし、その呼びかけは確かに空間に響いた。
阿久刀は片膝をついた。この動作もまた、身体が無いに等しいこの場所では奇妙なものだが、彼の魂が示す敬意の形として、自然に現れた。
白帝は、阿久刀を見ようとしない。
その態度は無視ではなかった。阿久刀はそれを理解していた。この方は今、器ではなくテンとして在る。神として在る者にとって、時間という概念は人間のそれとは全く異なる。
人間は、限られた命の中で、刻一刻と過ぎ去る時を追いかけるように生きる。一瞬一瞬が貴重であり、時間に追われ、焦り、急ぐ。しかし、神は違う。神にとって、千年も一瞬も等しい。過去も未来も現在も、全てが同時に存在する。だからこそ、神は急がない。待つことも、待たないことも、その区別すら意味を持たない。
阿久刀は静かに待った。人間としての焦燥を心の奥底に沈め、ただ在ることに専念する。これもまた、碧天から教わった術の一つであった。神と対峙するには、人間としての時間感覚を捨てねばならない。
やがて——それが一瞬だったのか、それとも永劫の時が流れたのか、阿久刀には判別できなかったが——白帝が動いた。
ゆっくりと、まるで時の流れそのものを操るかのように、白帝は阿久刀の方を向いた。その動きは優雅であり、同時に絶対的な威厳を帯びている。閉じられていた瞼が開かれる。その瞳に映るのは、阿久刀という個人ではなく、彼の魂の本質——過去から未来まで、全ての可能性を含んだ存在そのものであった。
白帝は歩み始めた。足音はない。いや、足音という概念が存在しない。ただ、白帝の存在が阿久刀に近づいてくる。その接近は、物理的な距離の縮小ではなく、魂と魂の距離が縮まることを意味していた。
阿久刀の目前で、白帝が立ち止まる。
そして、右手が、ゆっくりと伸ばされた。細く白い指が、阿久刀の頭に触れる。その接触は、羽毛よりも軽く、しかし山よりも重かった。
「ありがたく」
阿久刀は、心の底からそう呟いた。これから自分が見るものは、神が許した記憶——器の白帝、ハクという少女の過去である。
白帝の手から、温かな光が流れ込んできた。それは視覚で捉えるものではなく、魂で感じるものだった。阿久刀の意識は、その光に包まれ、引き込まれ、そして——
別の場所へと移行した。
月弓尊宮。
阿久刀の意識が最初に捉えたのは、その名であった。言葉として聞こえたわけではない。しかし、この場所の本質が、直接彼の魂に刻み込まれた。
天高くある月に建てられた、現世におけるテンの住処の一つ。
阿久刀の視界が広がっていく。彼は今、記憶の中を彷徨っている。厳密には、器の白帝——ハクの記憶を、追体験しているのだ。
目の前に広がるのは、想像を絶する光景だった。
宮殿は、草一つない丘の上に浮かんでいた。いや、丘というよりも、光そのものが凝固して形を成したような、透明で幻想的な構造物である。柱も壁も床も、全てが淡い光を放っており、その光は虹色に輝いている。しかし、その輝きは眩しすぎることなく、むしろ目を慰めるような柔らかさを持っていた。
周囲を見渡せば、そこは昏き彼方であった。眼下には、綿のような光の線が果てしなく広がり、遠くには裸の山々の頂が上に顔を出している。空は暗黒の黒色で、無数の星が臣下の礼のごとく瞬いていた。太陽は、通常よりも遥かに近く、しかし熱くなく、ただ優しい光を注いでいる。
「これが……月弓尊宮……」
阿久刀は、その荘厳さに圧倒された。神々の住処とは、このようなものなのか。人間の想像力では到底及ばない、美しさと神秘が融合した場所。
しかし、阿久刀はすぐに気づいた。この場所に、人の姿はない。
月弓尊宮は、テンのための場所である。器となった人間——つまりハクは、ここでは生きていけない。なぜなら、ここには空気がないからだ。いや、正確には、人間が呼吸できる空気という概念が存在しない。この場所は、肉体を持つ者のために作られていないのだ。
記憶の視点が移行する。
阿久刀の意識は、別の場所へと導かれた。
幻夢郷宮。
地上に建てられた、器のための宮殿。
視界が一変した。先ほどの月弓尊宮とは対照的に、ここは確かに地上にある。しかし、その荘厳さは決して劣るものではなかった。
朝廷の最奥——誰も容易には立ち入ることができない聖域に、幻夢郷宮は建っている。
宮殿の構造は、伝統的な様式を踏襲しながらも、随所に神秘的な装飾が施されている。柱には金箔が貼られ、屋根には瑠璃瓦が葺かれている。しかし、それらの装飾は単なる美しさのためだけではなく、この場所を俗世から隔離するための術式が込められていた。
庭園は、幻想的なまでに美しかった。四季折々の花が同時に咲き誇り、本来は異なる季節に咲くはずの桜と紅葉が隣り合って存在している。小川が流れ、その水は透明で、底に敷かれた色とりどりの石が鮮やかに見える。池には錦鯉が泳ぎ、その動きは優雅で、まるで舞を踊っているかのようだ。
しかし、この美しさには、どこか人工的な、作られた感じがあった。自然の美ではなく、神の意志によって形作られた、完璧すぎる美。それは息苦しいほどの完成度を持っていた。
阿久刀の視点——いや、ハクの視点は、回廊を移動している。
そして、彼女の姿が、鏡のような水面に映り込んだ。
ハク。
器の白帝。
阿久刀は、その姿を初めて明確に見た。
十代半ばと思われる少女だった。白亜色の髪は腰まで届き、風に揺れている。肌は雪のように白く、透き通っている。顔立ちは整っており、しかしどこか儚げで、まるで今にも消えてしまいそうな印象を与える。
その瞳が、印象的だった。深い紫色——いや、色という概念を超えた、何か別の次元の色彩が宿っている。その瞳には、人間の感情が宿っていた。しかし同時に、その奥底には、人ならざるものの影が見え隠れしている。
ハクは、雲海を眺めていた。
幻夢郷宮は地上にあるが、その標高は非常に高く、眼下には雲海が広がっている。遠くには山々が連なり、さらにその向こうには、人々が暮らす街が小さく見えた。
ハクの心が、阿久刀に流れ込んでくる。これが記憶の追体験の本質である。彼は、ハクが感じたことを、そのまま感じることができる。
孤独。
圧倒的な孤独感が、ハクの心を支配していた。
彼女は、神を宿す器である。それは、最高の栄誉とされている。人々は彼女を崇め、跪き、頭を下げる。しかし、誰も彼女に近づこうとはしない。いや、近づくことが許されない。
常に側にいるのは、御役目様と呼ばれる付喪神たちだけである。彼らは忠実で、献身的だが、しかし彼らもまた、ハクという人間ではなく、器としての白帝に仕えている。
ハクは、何度も自分の中に宿るテンに呼びかけた。
「神尊様」
その呼びかけは、心の中で何千回、何万回と繰り返されてきた。しかし、返事はない。テンは、器の呼びかけに答えることはない。いや、答える必要を感じていないのかもしれない。神にとって、器は単なる依代であり、対話の対象ではないのだ。
「……ふぅ」
ハクは、深くため息をついた。その吐息には、疲労と諦めが混じっていた。
彼女は齢四歳でテンを宿した。それから十年が経過している。この十年間、ハクは毎日を幻夢郷宮で過ごし、朝廷の政治からは隔離されてきた。それは、代々の器たちが辿ってきた道でもあった。
器は政治に関わらない——それが不文律である。
しかし、最近、その不文律が揺らぎ始めていた。
朝廷が、数百人もの下人を幻夢郷宮に送り込もうとしている。表向きの理由は「聖上への奉仕」だが、ハクにはその真意がわかっていた。
宰相の斎宮春日——権力欲に取り憑かれた老獪な政治家が、器であるハクを自らの影響下に置こうとしているのだ。
「(神尊様は、人の世に関心などないのに……。どうして、彼らは気を引きたがるのですか……)」
ハクの心に浮かぶ疑問を、阿久刀も共有した。
神は、人間の政治闘争など歯牙にもかけない。しかし、人間たちは、神の名を利用しようとする。器を支配すれば、神の権威を利用できると考える。その愚かさと傲慢さ。
ハクの心労は、日に日に積み重なっていた。
魑魅魍魎の巣窟——それは朝廷を指す言葉なのか、それとも人間という存在そのものを指すのか。ハクは、時々わからなくなる。
「主様」
低く、しかし明瞭な声が響いた。
ハクが振り向くと、そこに一人の女性、いや女の形を模した付喪神が立っていた。
小袖白菊。
ハクの御役目様の一人である。
長身痩躯の黒髪の女性で、年齢は二十代半ばに見える。しかし、付喪神に年齢という概念は適用されない。彼女は、ハクが祖母から譲り受けた白菊の小袖が付喪神となった存在である。
小袖白菊の容姿は、厳格という言葉が相応しかった。切れ長の目は鋭く、常に周囲を警戒している。腰には刀が差されており、その手は常に柄に近い位置にある。彼女の役目は、ハクを守ること——あらゆる危険から、たとえそれが人間であろうと、神であろうと。
「どうしました?」
ハクの声には、僅かな疲れが滲んでいた。
「天ノ橋に留め置いた者達が催促しております。中に入れろと」
小袖白菊の声は冷たく、感情を排している。しかし、その奥底には、僅かな怒りが潜んでいることを、ハクは感じ取った。
天ノ橋——それは、幻夢郷宮への唯一の入り口である。長い石橋が、俗世と聖域を繋いでいる。しかし、その橋を渡ることができるのは、ハク自身か、もしくは彼女が明確に許可した者だけである。それ以外の者が無理に渡ろうとすれば、術式が発動し、橋は崩れ落ちる。
ハクは、深く息を吸い込んだ。
「宰相のご意向には従えませんと、かの者達に説明を。テンの許しなく、拙も許すことはできません」
その言葉は、形式的なものだった。実際には、テンが許可を出すことなど有り得ない。そもそも、テンは人間の要求など聞き入れない。ハクの言葉は、遠回しな拒絶であった。
小袖白菊は、無言で頭を下げた。そして、踵を返そうとした——その時である。
小袖白菊の動きが、突如として止まった。
彼女の視線が、上へと向けられる。天井——いや、天井の遥か上、屋根の上を見据えている。
「白菊?」
ハクが問いかけた瞬間、小袖白菊の左手が閃光のように動いた。
刀が抜かれる。
そして、投げつけられた。
ズドンッ!
轟音と共に、刀が天井を貫通した。木片と瓦が降り注ぎ、埃が舞い上がる。ハクに降りかかろうとした破片を、小袖白菊が瞬時に切り払う。その動きは、目にも留まらぬ速さであった。
埃が風に流されていくと——
天井に、ぶら下がっている人影があった。
少女だった。
年端もいかない、十代前半と思われる少女が、屋根の梁に必死にしがみついている。顔を真っ赤にして、両手に力を込めて、落ちないように耐えている。
その容姿を見て、阿久刀——記憶を追体験している阿久刀は、息を呑んだ。
薄めの褐色の肌。紫色を帯びた黒い長髪。
アティヤだった。
一年前のアティヤ。今よりも幼く、しかしその目には、今と同じ強い意志が宿っていた。
「あいたっ!」
力尽きたアティヤが、屋根から落ちた。しかし、その落下は決して優雅なものではなく、尻から地面に激突した。派手な音を立てて、アティヤは悲鳴を上げた。
呻くアティヤの喉元に、小袖白菊の刀が押し付けられた。その動きは、落下からコンマ数秒の出来事であり、人間の反応速度を遥かに超えている。
「痴れ者に死を」
小袖白菊の声には、一片の慈悲もなかった。彼女は本気で、今この場でアティヤを殺すつもりだった。侵入者には死を——それが、御役目様の絶対の掟である。
「待ってください」
ハクの声が、小袖白菊を止めた。
小袖白菊は、僅かに眉を動かしたが、刀を引くことはなかった。ただ、ハクの言葉を待っている。
ハクは、アティヤを見つめた。その瞳には、興味と疑問が浮かんでいる。
慈悲から止めたのではない。ハクは、冷静に状況を分析していた。なぜこの少女は、幻夢郷宮に侵入できたのか。天ノ橋以外に入り口はない。そして、天ノ橋は強固な術式で守られている。この少女は、一体どうやって——
「名は?」
ハクの問いかけに、アティヤは必死に答えた。刀が喉元にあるため、動けない。僅かでも動けば、頸動脈が切れる。
「恵み野と申します」
その声は震えていた。恐怖で身体が硬直している。しかし、目だけは、諦めていなかった。
「何故ここにいるのです?」
「従者の一団の一人として参りました。どうしても聖上のお側にお仕えしたく、直訴を——」
その言葉を聞いて、ハクは無表情のまま、内心で判断を下した。
嘘だ。
まず、この少女の容姿が全てを物語っていた。薄めの褐色の肌——これは、純血の大洲人ではない。異国の血が混じっている。そのような者が、従者の一団に加わることなど有り得ない。朝廷は血統を重視する。混血児は、決して宮中に入ることを許されない。
そして、この少女の纏う雰囲気——育ちの良い者特有の優雅さがない。むしろ、その目つきは、下町で育った者の鋭さを持っている。生き延びるために戦い続けてきた者の目だ。
だが、ハクが最も気になったのは、別のことだった。
どうやって、この少女は幻夢郷宮に侵入したのか。
天ノ橋には、許可なく渡れない。では、別の経路があるのか。それとも、何らかの術を使ったのか。もしくは——
「主様」
小袖白菊の声が、緊張を帯びていた。
彼女の刀が、アティヤから離れ、別の方向を指し示した。
ある柱を指している。
「あのぉ~……」
柱の影から、ひょっこりと顔を半分だけ出した少女がいた。
白い肌。白亜色の髪——いや、髪の色はハクと同じだが、その質感は全く異なる。ハクの髪が神々しい光を帯びているのに対し、この少女の髪は、柔らかく、人間的な温もりを感じさせる。
柔和に微笑んで、その少女は言った。
「わたし、天蓋向日葵ともうします」
その声は、呑気なまでに明るかった。まるで、友人の家を訪ねてきたかのような、気楽な調子である。緊張感の欠片もない。
ハクは、首を傾げた。
「今日は、いったいどうしたのでしょうか……?」
その言葉は、心からの疑問だった。
立て続けに、予想もしないことが起きている。十年間、何事もなく静かに過ごしてきた幻夢郷宮に、突然二人の侵入者が現れた。しかも、一人は屋根から侵入し、もう一人は正面から堂々と入ってきた。
これは、偶然なのか。
それとも——




