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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子


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運命の章 11話

夜の帳が深く降りた森の中、焚火の残り火が朱色の光を細々と放っていた。梢を渡る風は冷たく、時折響く梟の声が静寂に小さな波紋を投げかける。

東雲は、草の葉擦れのかすかな音に瞼を開いた。武家の娘として育った彼女の感覚は、平時においても研ぎ澄まされている。月光が木々の間から差し込み、銀色の斑模様を地面に描いている中、一つの影が動いた。

アティヤである。

褐色の肌を持つ異国の少女は、慎重な足取りで寝床から離れようとしていた。その動きには、野生の小動物のような警戒心と、同時に何か切迫したものが感じられた。

「逃げるつもりですか」

東雲の声は、夜気を切り裂く刃のように鋭かった。しかしその瞳には、単なる敵意だけではない、複雑な感情が宿っていた。

アティヤは振り返ると、その紫がかった黒髪が月光に照らされて妖艶に輝いた。一瞬、東雲の胸に鋭い痛みが走る。その姿はあまりにも――

「ち、違うわよ」アティヤの声には苛立ちと羞恥が混じっていた。「勘違いしないで」

「では何処へ行くんですか」東雲は咄嗟に苛立っている自分に気づき、内心で舌打ちした。この少女の存在は、どうにも彼女の平静を乱す。

アティヤは顔を赤らめながら、もじもじと足を擦り合わせた。その仕草は年相応の少女のもので、先ほどまでの警戒心とは対照的であった。

「だ、だから……わかるでしょッ」

「わかりません」東雲は意地悪く首を傾げた。この少女を困らせることに、奇妙な満足感を覚えている自分がいる。

アティヤは観念したように大きく息を吐いた。月光が彼女の頬の赤みを際立たせる。

「花を……摘みに行くのよ」

その言葉の意味を理解した東雲は、一瞬呆けたような表情を見せ、それから苦笑を漏らした。

「厠ですか」

「う……そ、そうよ……」アティヤの声は消え入りそうだった。

東雲は呆れたように肩を竦めた。「何杯もお代わりするからです」

しかし、その調子とは裏腹に、東雲は腰の咒刀を確認しながら立ち上がった。

「こちらです」

二人は森の奥へと歩を進めた。東雲は先導しながら、なぜ自分がこの少女に付き添っているのか自問した。警戒のため?それとも――

「ねぇ」アティヤの声が背後から聞こえた。「なんでこっちなの?」

東雲は振り返らずに答えた。「音を聞かれたくはないでしょう。それに、風の音が強いので。聞かれずに済みます」

その配慮に、アティヤは複雑な表情を浮かべた。この島の少女は、時に冷たく、時に優しい。まるで二つの心が一つの身体に宿っているかのようだ。

東雲は雑草を咒刀で切り払いながら言った。「ここでどうぞ。私は離れています」

東雲は適度な距離を保ちながら、夜空を見上げた。満月が煌々と輝いている。この月光の下で、幾度となく紫と語り合ったことを思い出す。

紫――明保能紫。師匠の愛娘にして、東雲にとっては時に姉で時に妹のような存在だった。その聡明さ、優しさ、そして――。だからこそ彼女は。

「嫌いな女……ですね」

無意識に口から漏れた言葉に、東雲は自分でも驚いた。なぜアティヤを見ると、こうも心が乱されるのか。紫の面影を重ねているからか、それとも――

「悪かったわね。嫌いな女で」

振り返ると、アティヤが立っていた。月光を背に受けた彼女の表情は読めなかったが、声には明らかな不快感が滲んでいた。

東雲は内心の動揺を隠すように、わざと冷たく言い放った。「戻りますよ」

カチャリ、という金属音。

東雲の全身の筋肉が一瞬で戦闘態勢に入った。振り返ることなく、彼女は状況を把握した。アティヤが短銃を構えている。その銃口は、東雲の背中を正確に狙っていた。

「なんのつもりですか?」

声は平静だったが、東雲の意識は既に咒刀の柄に集中していた。

「船には、あたしとあの子で行く」アティヤの声は震えていなかった。覚悟を決めた者の声だ。

「悪いけど、人質に――」

しかし、その言葉が終わる前に、東雲の身体は動いていた。

低く身を沈めながらの半回転。同時に抜刀。居合の極意――無念無想の境地から放たれた一閃は、月光を切り裂きながら短銃を横一文字に両断した。

パチン、と納刀の音が夜気に響く。

「何か言いましたか?」

東雲の声には、先ほどまでの迷いは微塵もなかった。これが明保能家に仕える武人の実力。たとえ年若い娘であろうと、その剣技は既に達人の域に達している。

アティヤは呆然と、二つに分かれて地面に転がった短銃を見つめていた。

「(なんなの……こいつ……)」

二人は無言で歩き始めた。しかし、その沈黙は長くは続かなかった。

「紫と似てません」

東雲の呟きに、アティヤが反応した。

「え?」

「やはり別人です」東雲の声には、安堵とも落胆ともつかない複雑な感情が滲んでいた。

「誰よ、それ」

「お師匠様のご息女で、私の大切な妹です」

東雲は前を向いたまま答えた。その横顔に、月光が複雑な陰影を作り出している。

アティヤは少し考えてから、挑発的に言った。「ふーん。その紫って子と、あたしは似てたんだ」

「いいえ」東雲の返答は即座だった。「似てません」

「見間違えたんでしょ」

そして、東雲は振り返った。その瞳には、冷たい炎のようなものが宿っていた。

「紫はあなたのように下品で不細工ではありません」

アティヤの表情が固まった。

東雲は容赦なく続けた。その声は、まるで冬の夜風のように冷たく、鋭い。

「品性も言葉遣いも顔も体つきも知能も女としての魅力も、全て劣っております」

一言一言が、研ぎ澄まされた刃のようにアティヤの心を切り裂いていく。

「誰からも愛される聖女と、馬鹿で阿呆で醜女の猿を比べる方がどうかしてました」

東雲は一息ついて、形式的に付け加えた。

「私の考えが至らなかった点は、謝ります」

しかし、その謝罪に誠意など微塵も感じられなかった。

アティヤは立ち止まった。月光の下、彼女の肩が小刻みに震えている。

東雲が振り返って首を傾げた。

「どうしました?」

その無邪気とも取れる問いかけが、最後の一押しとなった。

「どうしました………じゃなーーーーーーいっ!!!!」

アティヤの叫び声が森を震わせた。次の瞬間、彼女は獣のような勢いで東雲に飛びかかった。

東雲も、さすがに相手を斬るわけにはいかない。反応が一瞬遅れ、二人はもつれ合うようにして地面に倒れ込んだ。

「なに……するんですか……!」

「こっちの台詞よ!」

月光の下、二人の少女は取っ組み合いを始めた。それは武術でも格闘技でもない、感情をむき出しにした喧嘩だった。

「紫って子がなんなのよ!なんであたしがそこまで言われなきゃいけないのよ!」

アティヤの叫びには、怒りと共に深い悲しみが滲んでいた。

「事実ですから!」

東雲も負けじと言い返す。しかし、その声にも何か必死なものが感じられた。

「まだ言うかーーー!!」

二人は地面を転がりながら、互いの髪を掴み、押し合い、引っ張り合った。落ち葉と土埃が舞い上がり、月光がその光景を幻想的に照らし出す。

髪を引っ張り、服を掴み、時に叩き、時に蹴る。優雅さも技巧もない、原始的な争いであった。

「離しなさい!」

「あんたこそ!」

しかし、その取っ組み合いの中で、不思議なことが起きていた。

東雲は、アティヤの瞳に涙が滲んでいることに気づいた。そして、自分の瞳にも――

アティヤは、東雲の必死さの裏に隠された寂しさを感じ取った。この少女は、紫という存在を失った悲しみを、怒りで覆い隠しているのだと。

二人の動きが、少しずつ緩やかになっていく。

やがて、二人の動きは鈍くなっていった。

怒りのエネルギーが尽き、疲労が全身を支配し始める。二人は地面に倒れたまま、荒い息を吐いていた。

「……はぁ……はぁ……」

「……ふぅ……ふぅ……」

月光が二人の汗に濡れた顔を照らす。髪は乱れ、服は泥だらけ、顔には引っ掻き傷さえあった。

しばしの沈黙の後、アティヤが口を開いた。

「……あんた……本当に……その紫って子が……好きだったのね……」

それは非難ではなく、理解の言葉であった。

東雲は答えなかった。答える必要もなかった。その沈黙が、全てを物語っていた。

「……私も……大切な人がいた……」

アティヤは月を見上げながら、ぽつりと呟いた。

「……もういないけど……」

東雲は横目でアティヤを見た。その横顔に、初めて紫とは違う、アティヤという一人の少女を見た気がした。

荒い息を吐きながら、二人は地面に転がったまま、月を見上げた。

どれほどの時が過ぎただろうか。

二人は無言で立ち上がった。衣服は土と落ち葉にまみれ、髪は乱れ、顔には小さな擦り傷ができていた。

互いに顔を見合わせると、その惨めな姿に、思わず苦笑が漏れた。

「ひどい顔」

アティヤが言えば、東雲も言い返す。

「お互い様です」

しかし、その言葉には先ほどまでの棘はなかった。

二人は無言で歩き始めた。しかし、その歩調は自然と揃っていた。完全に理解し合ったわけではない。友になったわけでもない。しかし、互いの痛みを知り、僅かながらも共感を得た。それだけで、今は十分であった。

野営地が見えてきた頃、東雲が小声で言った。

「……紫は……もっと優しい子でした……」

それは詫びとも、説明ともつかぬ言葉であった。

アティヤは少し考えてから答えた。

「……そう……きっと……いい子だったのね……」

しかし、その表情には、先ほどまでの敵意は薄れていた。完全に消えたわけではない。だが、何か通じ合うものが、確かに生まれていた。

二人は並んで歩き始めた。焚火の明かりが、遠くに見え始める。

月は変わらず、静かに二人を見守っていた。

その光は、これから始まる長い旅路の、ほんの始まりを照らしているに過ぎなかった。しかし、この夜の出来事は、確かに二人の少女の心に、小さな、しかし消えることのない変化をもたらしたのである。

森の静寂が戻り、梟の声が再び響く。

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