運命の章 10話
急ぎ出発の準備を整えさせる間、阿久刀はアティヤの部屋を訪ねた。
廊下を歩く阿久刀の足音は、静まり返った屋敷に小さく響いている。夜の闇は深く、障子の向こうには月光が淡く差し込んでいた。額の傷は清子の手当てによって縫合されているが、鈍い痛みが波のように襲ってくる。しかし阿久刀は、その痛みを意識の端に追いやった。今は痛みに構っている余裕はない。
アティヤの部屋の前で、阿久刀は立ち止まった。障子越しに聞こえるのは、穏やかな寝息である。あれだけの騒ぎがあったにも関わらず、アティヤは熟睡していた。その無防備さに、阿久刀は複雑な感情を抱く。
この少女は、紫に似ている。あまりにも似ている。しかし、紫ではない。それを阿久刀は理解している。神咒によって惑わされていた自分を、阿久刀は恥じていた。碧天と東雲の助けがなければ、自分は完全に呪いに飲み込まれていただろう。
阿久刀は障子を開けた。
月光が部屋を照らしている。布団の中で、アティヤは丸くなって眠っていた。その顔は穏やかで、まるで何事もなかったかのようである。褐色の肌が月光を受けて、柔らかく輝いている。
「起きろ」
阿久刀は声をかけた。しかしアティヤは起きない。眉一つ動かさず、深い眠りの中にいる。
「おい。話がある。起きろ」
再度声をかけても、完璧に無視されたように目を覚まさない。阿久刀はため息をついた。時間がない。優しく起こしている余裕はないのだ。
阿久刀は膝をつき、アティヤの頬に手を伸ばした。そして、つねった。
「いったあー!」
アティヤは飛び起きた。つねられた頬を手でおさえながら、目を見開いている。その目には、驚きと怒りが混じっていた。
「起きたか」阿久刀は淡々と言った。「なにすんのよ!」アティヤは叫んだ。
「……あんた誰?」
とぼけた口調だが、その目には警戒が宿っている。阿久刀は動じない。
アティヤは阿久刀の顔をまじまじと見つめる。そして思い出した。この男は、"仲間"を切った男だ。路地で自分たちを追っていた四人の男を、一瞬で斬り捨てた男だ。
「よくもみんなを……!」
アティヤは激昂した。起き上がろうとして、殴りかかろうとする。しかし身体がよろけて倒れた。長時間眠っていたため、身体が思うように動かないのだ。
「あの連中、お前の仲間だったか?」
対して阿久刀は冷静沈着である。その声には、一切の感情が込められていない。アティヤはさらに頭に血を上らせる。
そのとき、部屋の入り口に人影が現れた。
清子である。上品な風貌の老婦人は、静かに部屋に入ってくると、アティヤの髪を掴んだ。そして、脇差の刃を喉元につける。
「無礼者め」
清子の声は冷たかった。その刃は、アティヤの喉元にぴたりと当てられている。一つ間違えば、血が流れるだろう。
「あたしを殺すの?」
アティヤは気が強い性格だ。死を恐れていない。その目には、挑戦的な光が宿っている。
「…やってみなさいよ!」
アティヤの言葉に、清子の目が細められた。しかし阿久刀が制する。
「清子」
その一言で、清子は脇差を鞘に収めた。掴んだ髪を離す。アティヤは阿久刀と清子を交互に睨んだ。この二人は、自分を殺せるのに殺さない。なぜだ。アティヤには理解できなかった。
阿久刀はアティヤを見つめた。性格は紫と違っていた。紫は穏やかで優しい子だった。誰にでも親切で、誰からも愛された。それに対してアティヤは、荒々しく、挑発的だ。阿久刀は安堵した。これで性格まで似ていたら、手放せなくなっていただろう。
「急ぎ支度しろ」
阿久刀の言葉に、アティヤは首を傾げた。
「は?」
「島を出るんだ。海竈門岬まで連れていく」
アティヤの目が見開かれた。まさか、と思う表情。
「……もしかして…知ってる?」
「あぁ」
「あの娘が言ったの?」
あの娘とは聖上のことか。阿久刀は頷いた。
「そうだ。とにかく急げ。日が昇る前に出る」
阿久刀と東雲が護衛として同行することが決まった。白帝とアティヤを、海竈門岬にまで連れていく。危険な旅になるだろう。しかし、聖上の願いである。断ることなどできない。
屋敷の廊下で、清子が阿久刀を待っていた。
「用意はできております」
清子の声は落ち着いている。しかしその目には、憂いの色が浮かんでいた。清子は阿久刀に問う。
「宗家には、どのように対処をなさいますか?」
阿久刀は一瞬考え、そして答えた。
「なにもしなくていい」
清子の眉がわずかに動いた。
「では、宗家の走狗はどうなさいますか?」
清子の言葉には、棘がある。清子は宗家から派遣された家人だ。報告義務を怠る人物ではない。本来ならば、この件を宗家に報告するべきだろう。しかし阿久刀は、それを求めていない。
阿久刀はちらりと清子を見つめた。
「なにもしない。やるべきことをやれ」
清子は溜息をついた。
「私を切らぬと?」
「当たり前だ」
阿久刀の声には、一切の迷いがなかった。清子は厳しい表情で言う。
「甘いことですね」
清子は断じる。しかしすでに頭の中は、宗家への対処と暁家を守る方法を思案している。清子の忠義は宗家にあるが、同時に阿久刀にもある。その板挟みに、清子は苦悩していた。
阿久刀は、そんな清子を見つめて言った。
「お前の作る食事は旨い。皆好きだ」
突然の言葉に、清子は目を見開いた。阿久刀が自分を誉めるなど、滅多にないことだ。
「帰ったら、皆に特に旨い食事を振る舞ってくれ」
阿久刀の言葉の意味を、清子は理解した。これは帰還の約束だ。必ず帰ってくる。だから待っていてくれ。そして、皆を守っていてくれ。そういう意味である。
清子は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その声は、わずかに震えていた。清子の目には、涙が滲んでいる。しかし清子は、それを見せなかった。
門前では二頭の馬が待機していた。月はまだ空に残っている。夜明けまで、あと数時間といったところか。冷たい夜気が、阿久刀の肌を刺す。
鶴罪が馬の手綱を握って待っていた。その横には、爛漫もいる。
「鶴罪。爛漫は清子の指示に従え」
阿久刀の言葉に、鶴罪は力強く頷いた。
「あいよ! 千早と無念にも伝えとくわ!」
鶴罪の声は明るい。しかしその目には、心配の色が浮かんでいる。主人が危険な旅に出る。それを止めることはできない。ならば、せめて無事を祈るしかない。
阿久刀達は馬に乗る。阿久刀は白帝を前に乗せ、東雲はアティヤを乗せる。白帝は相変わらず無表情だが、その身体は軽い。まるで羽毛のようだ。アティヤは不満そうな顔をしているが、東雲の背中で大人しくしている。
二頭の馬は、屋敷を勢いよく飛び出した。
蹄の音が、夜の静寂を破る。
屋敷を振り返ると、清子と鶴罪、そして爛漫が見送っている。その姿が、徐々に小さくなっていく。やがて、闇の中に消えた。
阿久刀は前を向いた。北へ。海竈門岬へ。
長い旅が、今始まった。
屋敷を飛び出して、阿久刀達は休むことなく走り続けた。
馬は全速力で駆ける。風が顔を打つ。冷たい夜気が、肺を満たす。阿久刀は額の痛みを感じながらも、手綱を握る手を緩めなかった。
夜が明ける。朝日が昇る。しかし阿久刀達は、走り続けた。
白帝は馬に揺られながら、何も言わない。ただ静かに、前を見つめている。その瞳には、何が映っているのか。神の視点で見る世界は、人間の目に映る世界とは違うのだろう。
東雲は必死に馬を操っている。東雲の後ろに乗るアティヤは、最初は文句を言っていたが、やがて疲れて黙り込んだ。そして、東雲の背中にもたれかかって眠り始めた。
碧天は、時折姿を現しては消える。阿久刀達を見守るように、そばを走っている。
一日が過ぎた。
二日が過ぎた。
二日間不眠不休で走り続けたところで、ようやく阿久刀は馬を止めた。
「……はぁ……」
馬から降りるなり、アティヤは膝をついて嘆息した。全身が痛い。馬に揺られ続けて、身体が悲鳴を上げている。
白帝は一切の疲れを見せることなく、近くの切り株に腰を下ろした。その姿は、まるで最初から疲れていないかのようだ。神の器は、人間とは違うのだろう。
「一休みしてください。何か腹に入れるものを」
阿久刀の言葉に、東雲が答える。
「それなら汁を作ります。すぐにできますよ」
東雲は慣れた手つきで、食材を取り出し始めた。阿久刀は火を起こす。乾いた木の枝を集め、火打石で火花を散らす。やがて、小さな炎が生まれた。
東雲は小鍋に水を入れ、火にかける。そして袋から『燥肉』を取り出した。北部でのみ作られる、様々なスパイスを塗って干した肉である。それを割いて、お湯を沸かした小鍋に入れる。葱と茸の乾物を細かく裂いて加える。
香ばしい匂いが漂い始めた。
「……貧相ね」
アティヤが何気なく言った。その言葉に、東雲は眉を吊り上げる。
「なら食べなくて結構です」
東雲の声は冷たかった。アティヤは何気なしに言ったのだが、東雲には我慢ならなかった。紫の面影を奪った物の怪のような存在。東雲の心の中には、そんな感情がくすぶっている。
二人の相性は良くない。それは阿久刀も承知していた。しかし阿久刀も、この状況を作り出した原因の一端である。だから黙って見守ることにした。
やがて汁が煮えた。東雲は椀に盛り、皆に配る。
阿久刀は汁を啜った。身体が温まる。干し肉も柔らかくなり、空腹もやわらぐ。久しぶりの温かい食事だ。
「……おいしい………」
小声で、不満そうにアティヤが呟いた。その声を聞いて、東雲は自慢げに言う。
「燥肉は北部の特産品です。ただの干し肉とは比べ物になりません」
東雲の勝ち誇った表情に、アティヤは顔をしかめる。しかし、何度もお代わりをする。結局、美味しいのだ。
阿久刀は白帝を見た。彼女は椀を持っているだけで、口に運んでいない。
「聖上。お口に合いませんか?」
阿久刀の問いに、白帝は静かに答えた。
「はくはなにもたべません」
白帝はそっと瞼を閉じる。
「うつわがねむりたいようです。あはねがいをかなえます」
「御意」
阿久刀は頭を下げた。器の身体は眠りたがっている。テンが、その願いを叶えようとしているのだ。阿久刀は少しばかり側を離れた。
「……不思議な子ね」
アティヤが独り言のように呟いた。しかしその言葉を、東雲は聞き咎めた。
「不遜です」
東雲は刀を抜きかける。その動きに、アティヤは驚いて叫ぶ。
「ちょっと言っただけでしょ! 刀を抜かないでよ!」
二人のやり取りを見て、阿久刀は制した。
「そこまで。少しでも身体を休めろ」
阿久刀はさっさと眠る体勢を取った。地面に横たわり、目を閉じる。碧天も、阿久刀のそばで丸くなった。
東雲とアティヤも、顔を見合わせてすぐにそらし、身体を横たえた。お互いに、できるだけ離れて眠る。
静寂が訪れた。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。空には、厚い雲以外なにも見えない。しかし疲れ果てた一行は、そのまま眠りについた。
短い休息の時間が、流れていく。
しかし阿久刀の心は、休まらなかった。神咒。誰が、何のために、自分に呪いをかけたのか。そして、この先に何が待っているのか。
阿久刀は目を閉じながら、その答えを探し続けていた。




