運命の章 1話
春の陽光が梢を透かして舞い踊る朝方、梟森の奥深くに二つの影がひっそりと佇んでいた。木漏れ日が斑となって地面を照らし、新緑の若葉が風に揺れてささやき交わす中、静寂が世界を支配していた。鳥たちの囀りさえも、この瞬間ばかりは遠慮がちに響いている。
咲き乱れる山桜の香りが微風に運ばれ、鼻腔をくすぐった。甘やかな芳香は、まるで天女の袖から零れ落ちた香木の薫りのよう。明保能阿久刀は深く息を吸い込み、この季節特有の清新な空気を肺の奥まで取り込んだ。春の匂い――それは彼が幼き日より愛してやまぬ、生命の息づかいそのものであった。
「春は良いものだ」
心の内で呟いた言葉は、しかし口には出されない。今はただ、獲物との間合いを測ることのみに集中せねばならぬ時であった。
阿久刀は膝を地につき、弓を番えて構えを取る。黒髪を後ろで束ねた端正な横顔には、長年の鍛練によって培われた集中力が宿っていた。四十路を迎えた今もなお衰えを知らぬ肉体は、静止した中にも猛獣のような俊敏さを秘めている。
その一歩後方に控えるのは東雲――齢十四の少女であった。青とも黒ともつかぬ不思議な色合いの髪が、朝の光を受けて微かに輝いている。師の一挙手一投足を見逃すまいと、澄んだ瞳を凝らしていた。
「シノ」
低く抑制の利いた声で阿久刀が呼びかけると、東雲は無言のまま小さく頷いた。言葉は要らない。長い時を共に過ごした師弟の間には、既に以心伝心の境地が築かれている。
「はい、お師匠さま」
東雲の返答もまた、ささやくような小声であった。二人の視線は前方の草叢に注がれ、微動だにしない。そこには白い毛玉のような野兎が、警戒心も薄らいで草を食んでいる。朝餉となるべき獲物であった。
「呼吸を整え、乱さない」
阿久刀の声には、弓の道を説く教師としての威厳が込められていた。
「獲物のみを狙うのではない。獲物も含めた景色全体を見ろ。殺気を当てれば、野生の勘で即座に察知して逃げるものだ」
東雲は師の教えを胸に刻みながら、改めて呼吸を整えた。鼻から静かに息を吸い、口からゆっくりと吐き出す。心拍を落ち着け、精神を無の境地へと導いていく。
この少女もまた、阿久刀にとっては特別な存在であった。血の繋がりはないものの、今や我が子も同然。いや、それ以上の絆で結ばれた大切な家族である。
東雲の出自は複雑であった。遠縁にあたる北部豪族の火鳥家――かつて阿久刀が関わった反乱において、朝廷側に与したがために一族郎党皆殺しの憂き目を見た名門である。生き延びたのは火鳥明という女性ただ一人。その彼女が後に産んだ一人娘が、この東雲なのであった。
不遇の身に生まれ、世間の冷たい視線に晒されながら育った東雲を、阿久刀は十年前に養女として引き取った。当初は師弟の関係から始まったものの、今では跡取りとして大切に育てている。
本来ならば阿久刀自身が嫁を娶り、実子をもうけるべきところである。しかし、ある理由により子孫を残すことは許されていなかった。明保能家の掟――それは時として個人の幸福よりも重い鎖となって、その身を縛るのであった。
「握った手は、開くだけ」
静寂を破って放たれた矢は、風を切り裂いて一直線に飛翔した。狙い違わず白兎の腹部を貫き、致命傷を与える。獲物はその場にどうと倒れ、短い悲鳴すら上げる間もなく絶命した。
「お師匠さま! お見事でございます!」
東雲は小さく手を打ち鳴らして歓声を上げた。その表情には純粋な感嘆と、尊敬の念が浮かんでいる。
「弓は覚えて損のない技芸だ」
弦を弾いて確かめながら、阿久刀は淡々と答えた。東雲の嬉しそうな顔を見て、内心では僅かな満足を覚えていた。
「はい! 肝に銘じまする」
真面目な表情で答える東雲であったが、実のところ弓の腕前は今一つであった。剣の才覚は目を見張るものがあるのだが、弓に関しては生来の不器用さが災いしている。これまでに三度挑戦したものの、いずれも獲物を仕留めることはできなかった。
東雲は倒れた兎のもとへ駆け寄ると、後ろ脚を掴んで持ち上げ、素早く矢を抜き取った。手際よく近くの枝に吊るすと、短刀を抜いて喉元に刃を当てる。
「お師匠さま、血抜きをいたしますね」
一気に皮膚を裂くと、鮮血が勢いよく地面に滴り落ちた。素早く血を抜かねば肉が臭くなり、せっかくの朝餉が台無しになってしまう。東雲の動作には、既に慣れた者の手際の良さがあった。
しばしの沈黙の後、阿久刀が口を開いた。
「それと――俺のことは父と呼ぶようしろ。そろそろ慣れた方がいい」
突然の言葉に、東雲の手が止まった。困惑の表情を浮かべ、顔を伏せる。
「も、申し訳ございません! しかし父と呼ぶには、その……抵抗が……」
言葉を濁しながら、東雲は苦悩の色を隠せずにいた。現在の立場は確かに義理の父娘である。しかし最初は師弟として、年の離れた兄妹のような関係で始まったのだ。急に親子の間柄として振る舞えと言われても、感情がついていかない。
それに何より、東雲の心の奥底には亡き実の両親への想いが深く根付いていた。父と呼べる人は、この世でただ一人だけなのだ。
阿久刀もまた、少女の複雑な心境を理解していた。自らの頭を掻きながら、困った表情を浮かべる。
「……人目のあるところでは父と呼んでもらえればいい。二人だけの時は、これまで通りお師匠でも構わない」
「あ、はい!」
その言葉に、東雲の表情がぱっと明るくなった。笑顔で深々と頭を下げる姿を見て、阿久刀も安堵の息をついた。
「さて、朝餉にして屋敷に戻ろうぞ」
血抜きを終えた兎の皮を剥ぎ、手慣れた様子で解体していく阿久刀。内臓は食べられないため、後で土に埋めることになる。川の水で肉を洗い清めると、東雲は火起こしの準備に取り掛かった。道具袋から調味料を取り出し、手際よく並べていく。
「あの……お師匠さま」
東雲が躊躇いがちに口を開いた。
「宗家よりお呼び出しと聞きましたが……」
「ああ。兄上からな」
短く答える阿久刀の表情に、僅かな陰りが差した。明保能宗家の当主である実兄、十勝からの呼び出し――それが何を意味するのか、おおよその見当はついていた。
「お師匠さま。その、ご当主様は何をお話しになるのでしょうか?」
肉を一口大に切り分けながら、阿久刀は東雲の言葉の真意を察していた。おそらくは婚約の話を気にしているのであろう。年頃の娘としては当然の関心事だが、まだその時期ではないと阿久刀は考えていた。
「分からん」
首を横に振りながら答える師匠の様子に、東雲はほっとした表情を見せた。
「そう……ですか」
「東雲。今は武芸の腕を磨き、学問に励むことを考えるといい。他のことは追々だ」
枝に刺した一口大の兎肉を東雲に手渡しながら、阿久刀は優しく諭した。それを受け取った東雲は、地面に突き立てて焚き火で炙り始める。
「はい……出過ぎたことを申しました」
調味料を混ぜ合わせた甘味噌を肉に塗りながら、東雲は素直に謝罪した。甘い香りが立ち上り、味噌の焦げた良い匂いが辺り一面に漂う。
「焼けましたよ」
「よし、食べるとしようか」
手頃な石に腰掛けて、二人は焼き上がった肉に舌鼓を打った。程よく焦げた甘味噌が香ばしく、兎肉の柔らかな食感と見事に調和している。一匹分の肉は、あっという間に二人の胃袋に収まった。
腹を満たした阿久刀は、水を入れた薬缶を焚き火にかけてお湯を沸かし始めた。茶器を丁寧に並べて、お茶の準備を整える。食後の一服は、彼にとって欠かすことのできない習慣であった。
「日彦殿をご存じか?」
湯気の立つ茶を啜りながら、阿久刀は東雲に尋ねた。熱さに息を吹きかけて冷ましている少女に、何気なく投げかけた質問である。
「雷日彦と申されますれば、国随一の弓名人ではございませんか!」
東雲の目が輝いた。武芸を学ぶ者として、その名を知らぬはずがない。
「七日後、日彦殿が屋敷を訪ねてこられる」
「ええ!?」
驚きのあまり、東雲は湯呑みを取り落としそうになった。雷日彦といえば、自他共に認める「もの臭な人物」として有名である。朝廷の勅命ですら「面倒くさい」の一言で断ったという逸話もあるほどだ。
そんな人物が、なぜわざわざ分家の屋敷まで足を運んでくれるというのか。
阿久刀は淡々とした口調で続けた。
「俺が呼んだのだ」
「お師匠さまが?」
「俺の弓の師匠でもある。お前に弓を教えてもらいたいと手紙を送ったところ、行くという返事が来た」
阿久刀の配慮に気づいて、東雲は思わず萎縮してしまった。
「そんな……恐れ多いことです。それほどの方に教えを受けるなど……」
東雲は自分の弓の才能のなさを十分に自覚していた。そのような身で、国随一の弓名人に師事するなど分不相応である。
しかし阿久刀には別の思惑があった。この先、東雲が当主を継ぐのであれば、周囲から認められる必要がある。雷日彦の弟子という箔は、きっと大きな助けとなるであろう。
「優れた師に教わらねば、どのような腕も身につかないものだ」
阿久刀は東雲の頭を優しく撫でながら言った。
「技量に優れていても教える才を持たぬ者は多い。その逆もまた然り。日彦師匠はその両方を兼ね備えた、真の弓使いだ。遠慮などせず、しかと教えを受けろ。好機を棒に振ってはならない」
東雲は考え込んだ。確かに師匠の言う通りであろう。最後の肉を口に含んで咀嚼しながら、ついに決心がついたようであった。
地面に平伏して、深々と頭を下げる。
「はい、お師匠さま。ありがたくお受けいたします」
その素直な返答に、阿久刀は内心で微笑んだ。この少女の真摯な姿勢こそが、彼女の最大の武器なのかもしれない。才能の有無よりも、学ぶ心の方がはるかに重要なのだから。
朝の陽光が次第に高くなり、森の中にも暖かな春の日差しが降り注ぎ始めた。茶を飲み終えた二人は、道具を片付けて帰路に着く準備を整える。
「お師匠さま」
東雲が改まった様子で口を開いた。
「今日は本当にありがとうございました。弓のこと、雷日彦様のこと……すべてがわたしのためを思ってのことと分かります」
「家族として当然のことだ」
阿久刀の返答は簡潔であったが、その言葉には深い愛情が込められていた。血の繋がりはなくとも、この少女は紛れもなく彼の大切な娘なのである。
「でも、きっと周りの方々は良く思われないでしょう。分家の身で雷日彦様をお呼びするなど……」
東雲の表情に不安の色が浮かんだ。明保能家の複雑な事情を、彼女なりに理解しているのである。
「案ずるな」
阿久刀は毅然として答えた。
「俺の行動に文句があるなら、直接俺に言えばいい。お前が気に病む必要はない」
その頼もしい言葉に、東雲は安心したような表情を浮かべた。この人の前では、どのような困難も乗り越えられるような気がするのだった。
二人は焚き火を丁寧に消し、周囲を元の状態に戻してから森を後にした。馬のいななきが遠くから聞こえ、帰路を急かしているようである。
東雲にとって、この朝の出来事は生涯忘れることのない大切な思い出となるであろう。師匠の温かな配慮と、雷日彦という偉大な師との出会いの予告。それらすべてが、彼女の心に深く刻まれていた。
春風に舞い散る桜の花びらが、まるで二人の行く手を祝福するかのように舞い踊っている。新たな出会いへの期待を胸に、師弟は肩を並べて森の小径を歩んでいった。
陽光に照らされた二人の後ろ姿は、まさに理想的な師弟の絆を体現しているかのようであった。血縁を超えた家族の愛が、そこには確かに存在していたのである。




