憧れの人と結婚しましたが夫は離縁を望んでいるようです
私は、かねてから憧れていた人と結婚した。
――だというのに。
「すまない、スピカ。私が君を抱くことはない」
夫となったアークからそう言われた時、私の頭は真っ白になった。
今日は、結婚初夜だ。
長く伸ばした桜色の髪を指先でもてあそびながら、花びらの散らされたベッドの上に座って夫を待っていた私は、翠玉の瞳を大きく見開き、固まった。
私に近づこうともせず、目を逸らしたまま告げる夫の声は、ひどく冷たい響きだ。アイスブルーの瞳には、はっきりと拒絶の色が宿っている。
私が彼を見つめていると、彼は居心地が悪そうに顔を背けた。その拍子に、肩の後ろで一つ結びにした銀髪が、さらりと揺れる。
「なぜですか……?」
私は、かろうじて声を絞り出した。
「私は、君の夫として相応しくない。けれど、君と私との政略結婚はどうしても避けられなかった。……三年経ったら、離縁しよう」
この国では、三年間、白い結婚を貫けば離縁が成立する。私は何か言わなくてはと思うものの、口がはくはくと動くだけで、声にならない。
引き留めもできず、私は彼が部屋から出て行くのを、眺めることしかできなかった。
*
私には、デネという名の幼馴染がいる。
私がアークと出会ったきっかけも、デネだった。
デネは騎士の家系で、彼の出場する騎士団の親善試合を観戦した際に出会ったのが、アークだった。
アークは、国境に面した地を治める、トゥールズ辺境伯家の嫡男だ。
辺境の地は、王国の防衛を一手に担っている。隣国とは休戦中だが、いつ何時、有事が起こるかわからない。
そのため、トゥールズ辺境伯家の男児は武芸を磨く必要があり、騎士団に数年間在籍し鍛えるべしという家訓があった。
アークとデネは、四つに分けられたトーナメントのひとつで、決勝まで勝ち進んだ。
煌めく白銀。高らかに響く金属音。
両者の実力は拮抗していたが、長く続いた決勝戦を最終的に制したのは、デネだった。
試合会場の整備の時間に入り、私はタイミングを見計らってデネに声をかけた。
デネの隣には、先ほどまで彼と戦っていた騎士――アークがいたが、こちらに背を向け他の騎士と談笑していた。
「準決勝進出おめでとう、デネ」
「ああ、スピカ、見に来てくれたんだな」
「すごい試合だったわ」
私がデネと話していると、アークがこちらを振り向いた。どうやら、他の騎士たちとの会話が終わったようだ。
私の視線が隣に向いたことに気がついたのか、デネは、すぐさまアークのことを私に紹介してくれた。
「スピカ、紹介するよ。こっちはアーク、見ての通り同僚だ。アーク、こいつは俺の幼馴染のスピカ。仕事関係で騎士団にもたまに顔を出すから、何か困ってそうだったら助けてやって」
鎧と兜を脱いだアークは、美丈夫だった。
細身ながら引き締まった体躯。彫刻のように完璧に整った美貌。
銀糸の髪は夜空に浮かぶ月のように煌めき、アイスブルーの瞳はさながら冬の朝の澄んだ湖面だ。
見つめるのもはばかられる、一級の芸術品のような容姿だった。
私は、一瞬で恋に落ちた。彼に一目惚れをしたのだ。
「よろしく」
「よ、よろしくお願いいたします」
挨拶を交わした後、私はどうにも恥ずかしくなって、アークからさっと目を逸らした。
彼が冷たい瞳で私をじっと観察していることに気づいてはいたが、私はデネの方へ視線を向け、しきりに髪を指先に巻き付けながら、話に花を咲かせたのだった。
*
それからというもの、騎士団に届け物をする時は、何かにつけてアークの姿を探し、目で追ってしまうようになった。
ちなみに、私の仕事は、お城の行儀見習いだ。私と同じ未婚の下位貴族令嬢は、結婚が決まるまで、お城か他の貴族のお屋敷で働かせてもらうことが多い。
その中でも、私は騎士団に知り合いがいるという理由から、届け物を任せられることが多かったのである。
デネに連絡をして入り口まで迎えに来てもらい、騎士団の建物を案内してもらう。そのついでに、視線をあちこち巡らせて、アークの姿を探すのだ。
偶然彼を見つけることができたら、美の化身である推しの姿を遠くから拝む。それだけでその日一日、幸せだった。
また、アークがデネと一緒に私を迎えに来ることも、度々あった。二人はペアを組んでいるらしかったから、デネに付き合わされて仕方なく来ていたのだろう。
憧れの彼が遠くにいる時は、心穏やかに見つめていられるのだが、すぐ近くにいたら、もう目を合わせることもできない。
桜色の髪を人差し指にくるくると絡ませながら下を向くか、とりあえずデネに視線を固定して、ちらりちらりと覗き見るのが精一杯だった。
そうやって視界の端にアークを捉えてみると、彼はいつも不機嫌そうに眉を寄せているのだから、余計に彼をまっすぐ見ることなんてできなくなってしまった。
あまり好かれていないのだろうとは思ったが、アークはそんな冷たい表情をしていても美しい。
どのみち私なんかが彼の心を掴むのは無理な話なのだから、届け物を口実に、こうして密かに推し活ができれば満足だった。
*
しばらくして、私の嫁ぎ先がトゥールズ辺境伯家に決まったと言われた時には、腰を抜かすほど驚いた。聞けば、派閥の結束を固めるための、政略結婚なのだそうだ。
私がアークと顔見知りであったため、顔合わせも婚約期間も最小限に、私は辺境伯家へ嫁いでいくことになった。私には知る由もないが、どうやら結婚を急ぐ訳があったらしい。
とはいえ、憧れの彼と結婚できることになって、嬉しくない訳がない。
美しすぎる推しのご尊顔を直視できるかどうか、下手したら気絶してしまうんじゃないか、という点だけが心配だったが、こうして私は、喜んで辺境伯領へ向かったのである。
だというのに。
私に待っていたのは、白い結婚だった。
アークには、想い人がいるのだろうか。
私はいつもデネの陰に隠れて、ろくに話したこともなかったのだし、最初から好かれていないことは分かっていた。
アークからしたら、私などと結婚させられて、さぞ迷惑だったことだろう。
*
そうして思い悩む日々を送る私のもとに、ある日、デネが来訪した。
「よう、スピカ。久しぶり」
「ええ。デネも変わりなさそうね」
私がデネと挨拶を交わすのを、アークは何も言わずじっと待っていた。私は無言の圧を感じて、一歩下がる。
「あの……お話があるのでしたら、私は退出しますわ」
「いや、いい。むしろ私の方こそ邪魔だろう。せっかくだから、君もデネと二人で過ごしたいのではないか?」
「いや、ちょっと待てよ」
使用人を伴って部屋から出て行こうとするアークを制したのは、デネだった。
「いくら幼馴染で気心が知れてるとはいえ、夫人が男と二人になるのはまずいだろ」
「……お前はそのために来たのではないのか?」
「は? どういう意味?」
今日は結婚祝い渡しに来たんだけど、と手に持っていた包みをテーブルに置いて、デネは続ける。
「お前ら、互いに一目惚れで好き合ってたろ? せっかく俺が取り持って、結婚の話を互いの家に持ってったってのに、うまくいってないのか?」
「「え?」」
「だってそうだろ? スピカの、指で髪を巻く癖、あれは照れてる時とか恥ずかしい時とかにやる癖だと思ってたけど。アークだって、瞬きもせずに怖いぐらいスピカを見つめてたし」
人脈使いまくって頑張ってお膳立てしたんだけどな、お節介だったか、と頭を掻くデネを挟んで、私はアークと目を見合わせる。
アークは私と同じように、瞠目していた。
「君が、私に、惚れていた……?」
「だって、貴方は私を抱かないって……」
*
デネが帰った後。
私たちは、ようやく腰を据えて話し合った。
アークは、私が彼に目もくれず、デネばかり見ていたから、デネを好きなのだと思っていたらしい。自分が身を引いて離縁したら、今度こそデネと結ばれると考えていたようだ。
「貴方は私の前ではいつも無言で、眉間に皺を寄せていたから……嫌われているのかと思っていました」
「それは、デネと話す君がいつも楽しそうで……、すまない、正直、嫉妬していた。君こそ、私の方を見向きもしなかっただろう」
「そ、それは、貴方が好きすぎて、あまりにも尊いので直視できなくて」
アークは耳を赤くして、「好きすぎて……?」と小さい声で繰り返す。
「……と、言うことは……君はデネを愛していたわけではないんだな?」
「はい、まったく何とも思っておりません。それで……貴方は……」
「私が愛しているのは、ただ一人、君だけだ」
せっかく憧れの人と結婚する幸運が巡ってきたのに、白い結婚で離縁することになるなんて、と悲しみに暮れていたけれど――どうやら、私たちの間には大きなすれ違いがあったらしい。
「スピカ、私の運命。愛しているよ」
「………………はぅ」
「っ!? 大丈夫か!? おい、スピカ。スピカ!」
出会ってから初めて向けられた、美の化身の微笑みと甘い囁き声は、破壊力抜群で。
私は結局、嫁いで来た時に懸念していた通り、卒倒してしまうこととなったのだった。