6話 不快感
「あ、もしもし。黒井さんのお宅で間違いないでしょうか。」
「………。」
「わたくし、山ノ上中学校3年2組の担任のヤマダと言います。…」
「…あぁ、失礼しました。先生でしたか。黒井 ヨシコの母です。いつもお世話になっております。」
「いえ、本日ヨシコちゃんが学校をお休みしていたと思うんですが、実は今日は志望校決定に関わる重要な模試の日だったんです。それで…彼女は成績もトップで素晴らしく、本当によくやっているんですが、今日はどうなされたのかな、と。心配しておりまして…。」
「あら…それは本当?やだわね。そんな日に体調を崩すだなんて…。あのこ、熱もないのに、食欲もないって言ってて、顔色も良くないんです。最近ずっとそんな感じで…。」
「そうなんですね…。お大事になさるようお伝えください。あ、そういえば、明後日提出の重要書類があるので、もし良ければ私が今日そちらに届けに参りますけど、ご都合いかがでしょう。」
「この後7時から夜勤があるから、それまでに来ていただけたら…。」
「かしこまりました。ではお電話の後、向かわせていただきます!」
カチャ。
私は放課後、廃校とやらの様子を覗きに行くついでに、黒井さんの家にお邪魔することにした。今日配布された書類の中に、提出期限が明後日までのものがあったので、それを渡しに行かなければならないからだ。ついでに「いじめ」についても話そうか迷ったけれど、いちいち今更言うことでもないよね…。何しろ本人が親に相談していないみたいだし、ことを大きくしたくないのかもしれない。そんな言い訳をあれこれ考えながら、私は学校を出た。
校門を出たところにあるバスの停留所は、今日も多くの生徒たちで賑わっていた。放課後のこの時間帯は、一気に生徒たちが押し寄せるため、一度に全員が乗り切れないだろうが、スクールバスは数台あり、それらが交互に循環しているので何とかなっているのだろう。ちなみに、7時を過ぎたあたりから、スクールバスの送迎は途端に少なくなる。この学校では部活動に力を入れておらず、学業に専念させるスタンスだからだ。そして、8時ごろには完全にスクールバスの運行がなくなる。まぁ、教員たちは私も含めて車通勤だし、知ったこっちゃないのだけれど。
停留所の前を通り過ぎ、横断歩道を渡る。学校の前だと言うのに、信号さえついていないボロボロな横断歩道である。それもそのはず、この横断歩道を渡る必要のある者は、ほぼいないし、わざわざこの道の前を通る車は、スクールバスと教員の車くらいだ。横断歩道を渡ると、道は二択だ。左へ行けば、下山に向けたグルグル急カーブが続く山道へ。右へ行けば、さらに山奥へ。話に聞いていた通り、私は右に進み始めた。しばらく通りを歩いていると、道のコンクリートの割合がだんだん狭くなってきた。周りを見渡せば、林。路側帯は土泥でえぐれ、その土泥が車道にもはみ出している。今にも周囲から動物が飛び出してきそうな感じである。道中、コンビニすらない。ちらほら家というか、納屋のような建物はあるんだけれども、人影も生活感もないので、人が頻繁に出入りしているというわけではなさそう。そんな中、唯一見かけた大きな建物といえば、絶対に廃業しているラブホテルであった。大きな看板は剥げ剥げのピンク色をしており、ホテル名がカタカナで書かれた跡があった。客室の窓ガラスはどこもカーキ色の蔓で覆われており、事故物件のような不気味さを演出していた。入り口の駐車場には一台、これまたフロントガラスに蔓が無造作に絡まった軽トラが置かれていた。置かれていた、というより放置されていた、捨てられていた、というべきかな…。私は何となく気分が悪くなり、歩く速度を早めた。
…そこから数分歩くと、やっと分かれ道に差し掛かった。どちらも車がギリギリ一台通れるくらいの山道に分岐している。確かこの道を左に曲がると、黒井さんのことを話してくれた彼女の家の方へ、そして右に行けば廃校の方へ行くんだったと思う。で、その廃校を超えてさらに進んだところに黒井さんの家があるというわけか。それにしても暗いところだ。もう夕方とはいえ、あまりにも街灯がなさすぎる。よくこんなところに住んでいられるなぁ。自然を感じられていいんだろうけど、薄気味悪さを感じる静けさと暗さである。そんなことを思いながら、私は右の小道を歩き始めた。
するとすぐに、右手に廃校らしい建物が見えてきた。現在の山ノ上中学校のような輝きはもちろんないが、それでも、道中に出くわした潰れたラブホテルよりは数倍マシである。校門を進むと、左側に校庭に続く道があった。正面玄関はあいにく鍵がかかっていたので、校庭のほうへ進んでみる。…なんか、臭う。夏場に野菜や料理のカスを流して、そのまま掃除を怠った時の排水溝のような…?何か、ドロドロになったような…。
「……!? これって…。」
校庭に続く道を進めば進むほどに臭いが強くなり、私は咄嗟に周囲を見渡した。すると、校舎の外装コンクリートが一部欠けた箇所があり、そのコンクリートの破片が道端に転がっていることに気がついた。その破片は両手の拳を合わせたほどの大きさで、先端が鋭利になっていた。そして…赤黒いシミが付着していた。ちょうど先端の鋭利な部分が絵の具で塗りつぶしたみたいになっている。こんなことって…。それに、臭い。なぜかすごく、すごく嫌な予感はしたのに、私は臭いの原点を感じ取った。校舎の外装コンクリートが欠け落ちているところ、その穴を、私はのぞいた。
「ヒッッッッッッいやぁ…!」
そこには数々のネズミや野鳥の死体が投げこまれていた。まるで誰かのコレクションみたいに。腐敗臭だったのだ。気持ち悪い。臭い!!!!! 鼻も、目も、神経も、ズキズキと私を締め付けた。私は吐き気がして、咄嗟に廃校から逃げ出した。
明らかに人間の仕業だよね…。鋭利なコンクリート片に赤黒いシミ。あれで動物を殺してるんだ。腐敗が進んでいるとはいえ、夏のこの暑い時期にまだ原型を留めてた……てことは、つい最近やったことなんだ。私は、ある発言を思い出していた。
『黒井さん…最近変なんです。気味が悪くて…猫を殺した…』
う、うそ。こんなことって。明らかに精神狂ってるじゃない。虐められたせいなの?それだったら、私が放っておいたせい? い…いや、まだ黒井さんが犯人って決まったわけじゃない。そうよ。イタズラ付きの子供のせいかもしれないわ。と、とりあえず、黒井さんの家にお邪魔しないと。7時までに来いって、黒井さんの母親が言ってたし。私は不快感で胸がいっぱいな中、錘のように鈍った足首をひたすらに動かして、廃校のさらに奥に向かった。