競争嫌いの競輪選手
デビュー戦
十月も半ばに入ると奥美濃地方は気の早いウルシなどが色付いて空気がガラス質になってくる。郡上八幡の町を見下ろして九十九折れしていく堀越峠も心なしか緑が乾いてきたようだ。
「くはっ、くはっ、」
いくら練習用の軽いギアとはいえ、 峠の登りは決して楽なものではない。まして伏見龍平は午前四時から練習に出ているのだ。 岐阜から五十五㎞。 いま太陽が背中から龍平を追い越していこうと姿を現してきた。 この一週間はまるでロードの選手にでもなってしまったようだ。 師匠の益田からはまだバンク入りの許可は出ていない。 ただ、 一日二五〇㎞以上走ってこいと言われてそれっきりだ。
確かに競輪学校ではそんなにたいした距離は乗れなかった。 それにしてもこの距離はちょっと多すぎる。 龍平は、このままデビュー戦の配分が来てしまったらどうしよう、 と少し不安になっている。 距離と上り坂に慣れていない脚は太股からパンパンに腫れ上がり、 ひざは無気味な痛みを訴えている。
朝の光が眩しい。 樹木の吐き出した朝霧に反射し増幅されて。 くそっ、 くそっ、 まだ、 今日は日暮れまで十二時間も有るのだ。
競輪学校では決して良い成績ではなかった。 八十三レース消化した時点で七勝。 二着が二回。 それでも落車さえしなければもっと後半に勝ち星を増やせたに違いないと自分では思う。 ちょうど逃げ切りのできる脚力が付き始めて、 勝つことを覚え始めたときの骨折なので、 泣くにも泣けない。
ギブスを着けたままの惨めな姿で観戦する卒業記念はこともあろうに同じ岐阜の酒巻正博が優勝した。 もっとも酒巻は在校成績もトップだし、 優勝することには何の不思議も無かったのだが。
それに比べると、いくら調子が上がってきたとはいえ、龍平では優勝戦に勝ち残ることさえ難しかったろう。 しかし、ただ指をくわえることさえできずにライバルが胴上げされるのを素直に喜んで見ていられるほど人間が出来ているわけではなかった。
打鍾四コーナーから先行をしていた在校成績4位の長松を酒巻の緑と赤のユニホームがバックストレッチで軽々と捲っていく。龍平はそれをまるで夢の中の出来事のように茫然と見ていた。
八月中旬の熟れ切った夏の午後の日差し。 時間はグリースにでもなったみたいにねっとりとしている。 ユニホーム姿の酒巻が二度三度と宙に舞う。あるいはこれから先も自分は人の優勝をこうやって指をくわえて見ているだけなのではないかと、 不吉な予感が体を走った。
龍平は正式のアマチュアの経験がほとんど無いままで競輪学校へ入学してきた。 誰の紹介もうけずにキャリア組に交じって受けた試験で、 一千米独走で二〇位。 三千米独走で十一位の成績だった。 ただのサイクリング好きが昂じての受験だったが、 その結果、 入学してから苦労する羽目になった。
師匠になった益田に初めて出会ったのは入学して八ケ月もたったころだった。 上位六十四名と下位六十二名に分かれて行う、恒例の横割りトーナメントを観戦に来ていた益田が、 四回戦とも打鍾前から先行を仕掛けていた龍平に興味を持ったのだ。
伊豆の丘陵が夕日に染まっていた。 八重桜が重たげに散り始めようとしていた。 自主練習の連中が激しいもがきあいをしているのを見下ろしながら益田は龍平にいきなり言い出した。
「おまえはなんちゅうアホだ。 ただ、 ハナを切って出ていけばいいと思っとるんやないやろ。 あんなことしとったら履歴書に競輪学校卒業の最終学歴書いて就職活動せなあかんようになってまう。 根本から教えたらなあかんな」
「はあ」
はっきり言ってむっとした。
「どうせ、 学校におるうちはこんな調子やろうし、 卒業したら俺ん家へ来い。 競輪選手がどんなもんやしっかり教えたる。 それが分かってから就職活動でもなんでもすればええやろ。」
なんてことを言う人だろうと思った。 確かにこの時期には龍平はまるっきり勝ててなかった。 大学時代をサイクリング部で過ごした龍平には最終直線でもがき、 粘り込む集中力はほとんど無かったし、 ハナを切ってからコーナーで流しにかける競走テクニックも持ち合わせていない。
競輪学校を受験する前に読んだいくつかの資料では過去の連勝記録保持者として益田一三の名前を知っていたが、 まさか自分が益田の弟子になるとは思ってもいなかった。
それに龍平自身、 誰かの弟子になるなど御免こうむりたい心境でもあった。 ただ入学以来常にトップの成績を維持している同県の酒巻の事が気にかかった。 酒巻には池田良博という選手を育てるということに関しては岐阜県でも指折りの師匠が付いていた。
顔を憮然とさせたまま考え込んでいると益田がどんと背中をたたいた。
「選手というのはそうやって考え込むのが一番あかん。 まあ、 騙されてみろ。 良い風に成る保証はないが、 悪いようにもせん。 アッハッハッハ」
この笑い声が効いた。 自主練習の連中がびっくりして視線を集める中で龍平はつぶやくように言っていた。
「お願いします」
その結果がこれだ。 色付きはじめた馬瀬川の峡谷を金山に向かって下りながらつぶやいた。 細かいアップ・ダウンとカーブが連続する狭い道をスピードを落とさないように全速で駆け抜ける。 もっとも、 バテ切っている龍平のスピードはたいしたものではないが。
とにかくがむしゃらでいようと思う。 指をくわえて見ているより常に一所懸命でいるほうがずっと良いと龍平は結論づけていた。 だから益田の指定する二五〇㎞のノルマに関係なく太陽の出ている時間中走っていることにしている。 このところとにかく三二〇〓㎞はコンスタントに走っているはずだ。
昼近くになり、 意識も朦朧としてくると酒巻のことが頭に浮かんでくる。酒巻は既にデビューしてから新人リーグを二連続完全優勝している。 丸っきりの負け知らずなのだ。
それに引き換え自分はデビューも出来ずに、 それどころかバンクにも入れてもらえずに、 毎日大好きなサイクリングに明け暮れている。 もっとも生まれてこのかたこんなにおもしろくないサイクリングはしたことがなかった。
龍平と酒巻は中学時代の同級生だった。 西濃第一中学にはもちろん自転車部など無く、 サイクリングに夢中だった龍平のほうが酒巻を誘って遠出することはあっても、 たいがいは帰り道のどこかで酒巻がおいてけぼりを食うのが普通だった。
それは三年生の夏休み、 敦賀へ日帰りで往復した時の事だ。 そのときの龍平はいつになく快調で、 敦賀峠の帰りの登りで既に酒巻をおいてけぼりにしていた。
頂上でいくら待っても酒巻が来ないので引き返してみてもどこにもいない。 トラックと海水浴客が往復する一級国道の夕暮れに龍平は途方に暮れてしまった。
結局夜の十時近くになって帰宅してみると酒巻の母親が待ち構えていた。話によると酒巻はトラック便で自転車を送って、 自分は電車で帰宅したらしい。
龍平はしこたま叱られてしまった。 高校受験で忙しいこの時期に自分一人で行くならいいけれど人まで誘い込まなくてもよさそうなものだとカンカンになって酒巻の母親はまくし立てるのだった。
結局、 龍平の母親が電車賃と自転車の輸送費を支払って事無きを得た。 確かに酒巻の家も母子家庭であり、 免疫のない酒巻の母親が怒るのも無理はないことだ。
龍平は開けっ放しの玄関から入ってくるツマグロヨコバイにたかられながら黙って叱られていた。 しかし、 酒巻とはそれっきり気まずくなってしまって、 二度と一緒にサイクリングに行くことは無かった。
酒巻は県立高校の受験に失敗してN大付属の巨鹿高校に入学した。
巨鹿高校の自転車部は全国的にもトップクラスだ。元々自転車が好きな酒巻はインターハイと国体で二年間まるっきり土付かずのスプリント・チャンピオンに輝いた。 そして、 N大、 実業団とアマチュアの星として連勝街道を驀進していく。
龍平はそのころの自転車競技マガジンが酒巻の特集号を出したりするのを遠いガラスの向こうの出来事のように思っていた。龍平には自転車は競走のためのものではなく、自分を遠い旅に連れていく魔法の靴だったのだ。
将来を嘱望された酒巻が母親が倒れたことによってプロ入りを決意したのは、 大学を卒業する一月だった。五十五期の受験に間に合わず、 五十六期で入学してきたのだ。
県立の進学校、 西濃高校に入学した龍平は勝手に自転車同好会を作ったりはしたものの競技などは考えもしなかった。 もともと龍平は競走が好きではない。 受験も確実に入れるところしか受けなかった。
M大のサイクリング部では部長を勤めたりもしたが、おもに独りで走っていた。ただ、自転車部のロード選手とは一緒に走ったりはしていたが。 一つの事件が卒業を間近にした龍平を襲った。その事件で人間不信になった龍平がやけっぱちで競輪学校を受験したのと、酒巻のプロ転向が同時だったのは偶然だろうか。
龍平は競輪を個人競技だと解釈した。人との関係の中で人に期待することが出来なくなっていた龍平は、独りでできる商売を探していたのだ。
偶数期ならそんなに入学のレベルは高くないと思って伊豆のサイクルスポーツセンターに週二回通って、 二ケ月目に試験を受けた。
二次試験のバンクで酒巻に顔を合わせたときには焦った。 まさかロサンゼルス・オリンピックの第一候補が受験に来ているとは思っても見ない。 梅雨の晴れ間の雲がちぎれ飛ぶ何やら怪しげな天候の下で、 酒巻は確かにこう言ったのだ。
「もう、 伏見においてけぼりを食らうことはないと思うよ。俺ってわりと執念深いんだ」
それは懐かしさから出たジョークかも知れなかった。 しかし何やら腹の底が寒くなるような気がしたことは事実だ。
そして、 酒巻の言葉も今日までずっと事実だった。
金山から高山へ。 そして一五六号飛騨街道の連続する峠道を経て郡上まで戻ってくる。 もう、 関を過ぎるころには、秋の陽はつるべ落としで、真っ暗になっている。 身も心もズタズタになったという、ありふれた表現がリアルに感じる。家の玄関に倒れ込む。
昨日も一昨日も湯舟の中で眠りこけてどざえもんに成り損なっている。 今日もそのチャンスだけは十分あると思われた。
しかし、 今日は何か様子が違った。 母が玄関で龍平を待ち構えていたのだ。 母は嬉しそうに龍平を迎えて恐ろしいことを言った。
「おめでとう。 あした、 岐阜の前検に出頭するように電話が有ったわよ」
なんて嬉しそうな笑顔だったろう。 どんなかわいい魔女でもあんな残酷な笑顔はできるはずがない。
「電報がここに来てるから、 これを持っていくようにね。 やっと、 デビューね。 頑張ってよっ!」
返す言葉も無かった。 既に午後八時。 最初の追加配分だ。一度OKを出しながら断ったりしたらただでは済まないだろう。 万事休した。 こうなったら母の用意した鯛を食べて、 潔く玉砕してくるしかない。
机からプロスポを取り出すまでもなく今回の優勝候補は決まっていた。
「酒巻正博の地元戦。」
それが小さいながらも見出しになっていた。 もちろん龍平の名前はどこにもない。 今日の午後三時まで出走する予定ではなかったのだから。 それに、たとえ正規の配分だったとしても、名前以外には何も載せられはしなかったろう。 あるいは名前の上に骨折と組み活字で入れられたかも知れない。
何の役にも立たない専門紙をひざのうえに置いたまま龍平は居眠りをしはじめた。秋の夜。競走が嫌いで競走を職業にしてしまった不器用な自分を、何者かがあざ笑う。苦しい夢が龍平を襲った。 逃げようとする自分が、自分の背中に逃げ切られたところで、机の角に額をぶっつけて目が覚める。 ほんの二分半の間の夢が、それは一六二五米競走の試合時間と偶然に一致して、龍平に軽い頭痛とめまいを残していた。
どんよりと曇っている。 伊吹山方面から雨が襲ってきそうだ。 龍平は何の飾り気も無い管理棟のゲートをくぐる。 輪行袋だけが新品の明るさを保っている。それは処刑場に続く通路のように薄暗い。
午前九時前、 少し早く来すぎてしまったかとも思う。 昨夜、 机の前でうとうとしていたのに寝床に入ってからはぜんぜん眠れなかった。 結局直接競輪場に来てしまったが、 自分のホームバンクなのに右も左も判らない。
「これじゃ、 遠征とおんなじだな」
自分を苦笑いしながら通路を歩いていくと後ろからドンとたたかれた。
「遅いぞっ」
確か同じ益田門下のA1班、 広田さんだった……と思う。 何しろ岐阜の選手にもほとんど面識がない。
「伏見龍平ですっ。 よろしくお願いしますっ」
「ああ、 親方から色々たのまれとる。 恐らく宿舎でも同じ部屋だろうからそう心配そうな顔をするな」
益田の豪快さをそのまま受け継いだような笑いかたをして検車場に向かって歩き始めた。
「オイ、 伏見おまえ少し顔色悪くないか」
ハンドルポストを締め付けていると広田が聞いてくる。 確かに顔色が良いはずはない。
「そうですか。 光のかげんじゃないですか。 それより先輩は自転車を組まないんですか」
コンクリートの床にしゃがんで龍平を見ている広田が余りにものんきそうなので聞いてしまった。
「たわけっ。 おまえが組むんだっ」
一瞬目が点になった。 そうか、 この世界もタテ社会なんだなと改めて納得した。
「だから最初に言ったろう。 遅いぞって。 まだこれから先輩がどんどんくるんだ。 オレは優しいからおまえの自転車を先に組ませてやったけれどほんとなら自分の車に先に取りかかったら大目玉だぞ」
目を剥きながら笑っている。
広田の自転車を組み終えて額の汗を拭ったら、 酒巻が顔を覗き込んでいた。
「よお、 出てきたな」
「ああ、 好調そうじゃないか」
学校にいたときより明るくなったような気がする。 それもそうだ、 ここまでくればこの後余程の取りこぼしをしない限り来期からA1に格付けされることは間違いない。 それは順風に乗っている人間だけが見せることのできる明るさだった。
十時になって検車場が込みあってくる頃には地元のA級選手は殆ど来てしまっていた。龍平は先輩選手のホイールを組み付けながら名前と顔を覚えてもらっていく。
「どうしたんだ、 全然バンクに出てこずに。 練習しなくっちゃ強くなれんぞ。 今開催が終わったら鍛えたるから出てこい」
だいたい殆どの選手からお小言をもらってしまう。 ただ酒巻の師匠の池田だけはいきなり龍平の太股に手を延ばし、 龍平が顔をしかめるのを見てから
「どうだ。 益田んとこも厳しいだろう」
そう言ってニッと笑った。
岐阜競輪場の管理棟からは岐阜城が真っ正面に見える。 ホームスタンドの上からスリバチの底の争覇戦を知ってか知らずか見下ろしている。 龍平は練習走行を岐阜グループから離れて行った。 本当は地元のグループの後ろに付いていったのだが割りとペースが早いので離れていったのだ。 念入りにバンクを十センチ刻みでインからアウトまで回ってみたが何が何だか判らないまま早めに引き上げてしまった。
検車場では遅れて到着した九州勢が並んで車検を受けている。
「よう」
びくっとして振り返ると岡部だった。 まるで龍平と違わないほどげっそりして青黒い顔をしている。
「やあ、 どうだい調子は」
「学校時代と変わらんよ。 だめだな、 若い者には敵わん」
岡部も龍平や酒巻と同じ年長組だった。 ただ、 岡部は大学ではなく実業団で野球をやっていたのを退職して選手になったのだ。 在校中には確か一勝もしていないはずだった。
「同じというとまさか……」
「うん、 一勝はしたよ。 前回の佐世保でスミ1さ」
「じゃすごいじゃないか。 オレなんかバンクに出たら地元組の走行練習にちぎられたぜ」
「フフッ、 頑張ってるな」
エッと思って聞き直そうとしたときに酒巻を先頭にした地元組が引き上げてきた。
「コラコラ、 練習もしないで何をコソコソしてるんだぁ」
「オウッ、 はよう飯を食わんと売り切れるぞ」
まさか選手食堂の飯が全部売り切れるということは有り得ないが賑やかな集団に巻き込まれてそのまま岡部と引きはがされてしまった。
龍平は在校中には岡部としゃべった記憶がなかった。 どうしてあいつが話し掛けてきたのか……。 気になって先輩のお茶をこぼしてしまう。
酒巻は地元組の話題の中心になっている。 龍平は元々は賑やかな性格なのだが何故かムードに溶け込めなかった。
龍平はまだ観客のまばらなスタンドを見上げた。 今朝のスポーツ新聞には1番車の龍平に○(対抗)を付けているものもあった。 実際困ったなと思った。 どう考えてもまともなレースが出来るとは思えない。
広田の晩酌のお付き合いでなかなか眠らせてもらえなかった。 選手は成人であれば一人ビール三本まで購入することが出来る。 しかし、 酒豪の選手は下戸の選手の割り当て分もソッと回してもらう事がある。 当然龍平の割り当て分は広田のノドを通過していった。
「伏見っ。 一杯飲ませてやるっ。 グッと行けグッと」
「はいっ」
ぐいっと飲む。
「こらっ。 誰がそんなに飲んでいいと言ったっ」
ビンタが飛んでくる。
広田の酒は陽気で豪快で楽しい。 しかし、 疲れ果てた龍平にとってはただの苦痛だった。 広田が寝床に入ってからふっと溜め息をついているあいだに朝がきた。
しかし、 それがレースに対する不安には直接つながっていない。 それ以前の今朝も太股はパンパンに張ったままだ。 朝、起きぬけから体操をして出来る限りほぐした。 バンクに入ってからも練習時間の殆どを全力に近いスピードで周回した。 しかし、 同じように全力周回している岡部に三周は追い抜かれた。在校中には少なくともスピードでは負けたことの無かった岡部に。
「こらぁ、 そんなに走ったら本番で使うアシが残らんだろうが。」
広田に言われるのももっともだった。 しかし、 こうでもしなくては筋肉の痛みはほぐれそうもなかった。 岡部は相変わらず顔色が悪い。 ヤツも昨日は先輩の相手をさせられたのだろうか。
酒巻は広田や池田を後ろに回してマイペースで周回していた。 あと三ケ月もしたら実戦でこの並びが見られるかも知れない。 もっとも広田も現在の成績から言えば今期中にS級に特別昇級してしまう可能性も強かった。 そう、 広田は今開催のA級の優勝候補筆頭だった。 その広田が練習中は同門の龍平をほったらかして酒巻にマークしている。 酒巻は岐阜のスターとして誰にも期待されているのだ。
スタート台についてからもそんなとめども無いことを考えていた。 龍平には作戦もなにもない。 ただ、 打鍾をメドにハナを切っていく。 後はただひたすらもがくだけだ。
1レースB級(新人)一六二五米(4周)
×1伏見 龍平二二才岐阜 六三位先行在校7勝十月登録骨折長欠
○2戸沢信二郎一九才長野 六四位自在 函館911西武園83落
◎3川上 聡二〇才千葉 三七位自在卒記8425 函館376
4小林 光義一九才静岡 九七位先行 玉野998 平 849
4
5田島 三郎一八才栃木一一二位追込花月園743観音寺395
6花田龍之介二〇才大阪 七四位追込花月園989観音寺889
5
△ 7小松 毅二三才香川 四八位追込 函館644観音寺826
8金田 光吉一九才福岡 八四位追捲 玉野769西武園775
6
注 9田中 俊和二〇才秋田 四九位自在花月園549 平 642
トウ・クリップを締め付けて直立不動の姿勢を取って深呼吸を一つ。 そして他の選手の発走準備が完了するのを待つ。 スタート台の選手というものは割りと落ち着いているものだ。 龍平はその瞬間にハッと気が付いた。
「オレは酒巻にしっとしている」
いつの間にか号砲が鳴っていた。 龍平はあわや出遅れを取られてしまうところだった。 フアンの笑い声が聞こえてくる。 スタンディングを取りに行った選手がいるので集団に追い付くのに時間がかかった。
とにかく最後方に位置を取って赤板過ぎ(あと二周)から追い上げて二コーナーからダッシュをかける。 今日は自分に投票したフアンには悪いが実戦でどこまでもがけるのか試してみるつもりだ。
現行の新人リーグ戦では先行をする選手は意外に少ない。 ほんの二ケ月の間にだいたい五開催を走ってその得点順位でA1班からB2班の六クラスに割り振る。だから大敗の危険の多い先行策は脚力に自信の有る選手以外は取らない。 もしも、 B級に組み込まれたらはい上がるのに大変だし、だいいち賞金がA級とB級では大きく違うのだ。 ただ、 希に龍平のように先行一本で勝負しようと心がけて、 敢えて不利な条件に挑戦する選手もいる。 ただし龍平の場合はやけっぱちと言うほうが正しいかも知れない。
追い付いて一息入れる間もなく赤板を通過した。 1コーナーからバンクの中段に駆け上がり2コーナーを渾身の力を込めてダッシュする。血圧の上昇とともに歓声が聞こえなくなる。
アッと思った。龍平に合わせて中団の青のユニホーム(4番)が仕掛けている。更にそれに合わせて正攻法の赤(3番)がダッシュをかける。ペースが思ったより速い。 34コーナーの一番深いところで4番がハナに立った。③川上が④小林マークの7番をショルダータックル一発でふっとばす。膨らんだ⑦小松が龍平のコースをふさぐ。
龍平は更にアウトコースにそれを避けた。岐阜のバンク角は大きい。スピードががくんと落ちる。それでも諦めずに外外と回されながらホームストレッチで捲りをかける。しかし、掛かり切った小林のスピードは良い。龍平は5番手ぐらいの横でもがき続ける。内側に潜り込んだトラ縞のユニフォームの小松が車を振って牽制してくる。
再び1コーナーのバンクに押し上げられてドン尻まで下がった。
「万事休した」
それは解っている。 ただ、 未練たらたらでひたすらアウト・コースをもがき続けた。 しかし、 前方を行く緑(8番)のお尻が段々小さくなっていく。
ゴール・ラインを通過して1コーナーにかかったところで再び歓声が聞こえてくる。
「恥かしい」
その一言しかなくて顔を上げられない。ハナも切れなかったのだ。敢闘門をくぐるその瞬間にはっきりと一つの罵声が刺さった。
「地元の恥!」
控室のすみっこでしばらく茫然としていた。気が付いたらもう4レースが始まっている。特別選抜競走。即ちシード選手九名の競走だ。走っている全員が準決勝に無条件で進出できる。その九名のなかで一番人気が赤のユニフォーム酒巻だった。
4レースB級(新人)一六二五米(4周)
注1高木 満博十九歳埼玉二十一位自在 玉野11③西武園⑦2②
×2小早川欣二二〇歳福岡 一二位先捲 玉野⑤4⑦ 平 ①1⑤
◎3酒巻 正博二二歳岐阜 二位自在花月園①1①観音寺①1①
4福田正太郎一九歳群馬二十三位追込 玉野291西武園11①
4
△ 5松田 和雄二〇歳大阪 八位自在花月園②3③ 平 ⑦2③
6向井 貴博一九歳北海四十四位先捲 函館11①観音寺12⑥
5
7松木光一郎二〇歳東京 十位追込花月園⑦64観音寺⑥4⑨
8横山 博一九歳静岡二十五位追捲 函館⑥63西武園13⑦
6
○ 9西村 俊二一九歳愛知 十六位追捲 玉野⑥2②観音寺落欠場
ぼんやりとした龍平の意識の中にテレビから号砲が伝わってくる。画面の中で九つのユニフォームがぞろっと動き出す。
スタートを取りに行ったのは福田と松木だった。誘導員に追い付くまで激しく争ったがやはりイン・コースの分だけ福田が有利だった。松木は仕方なく高木の後ろまで車を下げる。ゆっくりと集団を追っていた酒巻は2周目にはいってから踏みあげていく。酒巻に在校当時から仲の良かった西村がぴったり付いていく。3番手を回っていた松田がスッと車を下げて二人を迎え入れる。この時点で隊列は福田-横山-酒巻-西村-松田-高木-松木-小早川-向井、の一本棒に落ち着く。それを待っていたように後方から先行型が上昇を始める。向井がまず酒巻のアウトに並びかけたが酒巻はそれを無視して小早川の上昇を待つ。向井は諦めて先頭まで行き福田に並びかける。小早川が酒巻の前に入ったところで高木-松木が上昇。向井をサンドイッチして押し下げる。福田は高木だけを入れて松木と競り合う。
あと2周。一旦最後方に下がった向井が1コーナーのバンクを登っていく。それを横目で見ながら小早川が仕掛けていく。山降ろしをかけた向井とちょうどバック線上で車が合う。誘導はこのときに退避。向井の後ろに誰も付いていないので小早川は向井を先に行かせる。高木は小早川に飛び付く気配だったが少し踏み遅れ気味で西村と競り合う形になった。
その後ろで福田・松木の競り合いの更にアウトを回されそうになった松田が追いあげて高木と西村の前に強引に割り込みをかける。
先頭から向井-小早川-酒巻-松田-(高木・西村)-松木-横山-福田といった態勢で最終ホームストレッチを通過した。
小早川が2コーナーで向井を潰す番手捲りを打った。酒巻は横山が3角捲りを仕掛けたのを一杯に引き付けて4コーナーでブロック。そのまま一気に小早川を交わしてゴール。松田がちぎれながら2着に粘る。
初日の特選でありながらまるで優勝でもしたかのように右手を高々と挙げてファンに応えて周回する酒巻。その歓声は1レースの怒号と比べものになるわけもなく明るく大きい。
ポンと背中をたたかれた。龍平が振り返ると岡部が笑っている。
「困ったもんだな。4レースでスターになってやがる」
どきっとした。どうして自分の腹の中が分かってしまうのか。龍平はしかたなしに笑って唇に指をあてる。
「しっ。おれも地元選手なんだぜ。日本一結束の堅い岐阜の」
翌日、龍平はやはり早く目が覚めてしまった。軽く柔軟体操を済ませるとホールのスポーツ紙を広げて自分の出走レースを探す。2レースに組まれた自分の名前には今度は△が付いている。
「困ったもんだな」
そうつぶやいたその後ろにまた岡部が立っている。
「何が困ったんだ」
そう言って新聞を覗きこむ。
「俺の印はどうなってる」
そう言われて初めて岡部が準決勝に乗っていることを知った。確かに昨日の3レースで3着になっている。
「何だ。昨日の3レースは落車でもあったのか」
「なんだ、伏見、おまえ俺のレース、見てなかったのか」
龍平はそのとき放心状態だったのだ。
「おまえなあ、これから先ずっとライバルで行く相手ぐらいしっかりと見とかんか」
「じゃあ何か。おまえおれの情けないレースを見とったんか」
「勿論。だからおまえを俺のライバルにきめたんだ」
岡部は平気な顔をしてとんでもないことを言っている。
「情けないやつだな。ライバルというものはもっと自分のレベルより少し上のあたりに設定するもんだぞ。予選でハナも切れんようなやつを準決を走る奴が何でライバル視するんだ。おれはまだ師匠にバンクで練習することすら許されていないんだ。どうせなら酒巻ぐらいにしておけ」
岡部は笑いながら行ってしまった。しかし、なにか自分だけがおいてけぼりを食らうというのも、龍平にとっては初めての経験だった。考えてみれば自分は人との勝負や競走が嫌いで一歩づつ引きながら生きてきたが、決してドン尻を取ったことは無かったような気がする。勿論競走訓練で9着を取ったことも有るが成績はまあまあの位置だった。
「仕方が無いか」
つぶやいて立ち上がった。
龍平は落ち込んでいた。3レースの実況には終始前々と攻める6番車の姿が映っている。岡部だった。打鍾を待たずに飛び出して、流して他の選手の仕掛けを待っている。岡部には同じ九州の小早川はマークせず、予選から上がった三重の中川が付けている。
小早川が焦れたようにホームストレートでカマしてくる。特選シード組は折り合って小早川にマークしてきた。
「あっ、遅いっ」
龍平は思わず声を上げた。それほど岡部の踏み出しはのそっとしていてスピード感が無かった。しかし、小早川に並ばれてから懸かり始めて1コーナーでは完全にスピードが合ってしまっていた。
小早川の表情がまるでアップにでもなっているように分かる。眼光が急速に冷めていき泣き出しそうに顔が緩んでくる。ちょうど二〇分前に龍平が同じ場所でその表情をした。今日も龍平はハナを切れなかったのだ。
怒号と歓声が聞こえてくる。主力陣が揃って吹っ飛んだのだ。BSを流さずにもがき続けた岡部は直線に入って失速し結局は4着だったが、龍平には自分の自称ライバルが恐ろしく強く見えた。
三日目の朝、龍平は珍しく寝坊した。同室の広田先輩が枕で思いっきりひっぱたいて起こしてくれた。昨日までの筋肉の張りはとれてきたものの筋肉痛が倍以上に膨らんでいる感じがした。昨日と同じようにバンクを全力で周回練習して先輩達の顰蹙を買ったが、さすがにもう、気にならなかった。
おなじように全力周回した岡部と一緒にバンクから引きあげながら、ふとほほ笑んでしまった。
「何だよ、気持ち悪いな」
「頑張れよ、劣等生の星」
岡部はいつものニヒルな笑いをして、「ああ」とだけ応えた。
ついに雨が降り出した。岐阜のコンクリートバンクが悪魔の肌のような黒色に染まっていく。同じレースの沢田がやったとばかりに喜んでいる。沢田は別に雨が得意なわけではない。龍平と同じ成績の沢田には雨天敢闘賞が嬉しいのだ。
1レースB級(新人)一般一六二五米(四周)
1田島 三郎一八歳栃木一一二位追込①5 ①6S観音寺395
△2三井 貴文二二歳静岡 八七位自在②7S①4 観音寺461
○3戸沢信二郎一九歳長野 六四位自在①4B②8J西武園83落
4伏見 龍平二三歳岐阜 六三位先行①9 ②9 骨折長期欠場
4
× 5石橋 金治二一歳福岡 五三位追捲③6 ②4 平 541
6沢田 淑生二五歳群馬一一八位追込②9 ①9 西武園987
5
◎ 7小早川欣二二〇歳福岡 一二位先捲④4B③9 平 ①1⑤
8近藤 政雄一九歳愛知 七九位追捲②7 ①8 観音寺597
6
9高橋 博史一九歳神奈 七二位自在③8 ②2 観音寺425
スタートして間もなく8番車の近藤が耳打ちをした。
「伏見さん、今日はハナを切れますか」
先行型にずいぶん失礼な事を言うものだが今の龍平にはどんなことを言われても言い返せない。
「分からんが今日も鐘前からカマシを仕掛ける。小早川はどうせ早くても4角からだろうから飛び付きの自信があったら付いてこいよ。もっとも浮き駒になったヒロシ(高橋)が先に行ったら裁かれそうだが」
「伏見さん、いったいこの三ケ月何をしてたんすか」
「ベッドかサイクリングやな」
「駄目だ、こりゃ」
水しぶきを上げて前のほうへ行ってしまった。
隊列は赤板で三井-高橋-近藤-戸沢-田島-沢田-小早川-石橋-龍平の一本棒。小早川がゆったりと上昇を開始する。龍平はそのまま石橋に付いて行って2コーナーで小早川をたたいて出るつもりだ。
小早川が三井の前に入ってイン三井、アウト石橋で競り合いになる。龍平は渾身の力を込めて単騎でカマシていく。戸沢が切り替えて付いてきた気配がした。打鍾のバックラインを確かに先頭で通過した。そう思ったときインに小早川の陰が見えた。3コーナーでインを締め込もうとしたが既に脇の下に小早川が来ていた。力比べの形になってもがく。ヤッた。勝った。龍平はふっと確信した。その瞬間、小早川のヒザが龍平のハンドルを蹴りあげた。グラッとしながらアウトに弾けとぶ。雨でグリップが遅れて金網近くまで行った。金網にしがみついていた客の引きつった顔と悲鳴のアップ。なんとか態勢を立て直したときには当然ながらドン尻まで下がっていた。
「クソッ!!」
もう一度2コーナーから捲って出る。
「ぐおっ」
昨日までと何か違う。ぐいっと車が加速していく。もちろん小早川も気が付いて3コーナーから踏み直すが龍平のスピードの方が勝っている。ジリジリと34コーナーで差が詰まっていく。
直線入り口で戸沢が3番手から早めの追い込みをかけに外へ車を持ち出した。ちょうど車が合ったかたちの龍平のペダルが戸沢の後輪にはまり込む。
「ガキン」
激痛とともに失速する。戸沢がゴールを過ぎて転倒する。その尻に乗り上げて転ぶ。
「しゅり、しゅり、しゅり」
雨の日の転倒はバンクを滑走するので怪我は少ないと言われる。実際、龍平は無傷だった。前輪の潰れた自転車を担いで敢闘門をくぐると後ろから担架が押されてきた。戸沢に謝るより早く「へたくそっ」と言われてしまった。担架が行ってしまうのを見送っていると広田がぽんと背中をたたいた。
「おまえはほんとに選手に向いとらんな。あんなの後輪を振ったほうがへたくそなんだ。おまえのペダルがはまるということはおまえの方がスピードにのっとる言うことだ。あんなんいちいち気にしとったら猫背になるまで頭下げとらんならんぞ。俺なんか見てみろ。デビューして五年で何人病院送りにしたか分からん。もっとも俺にはそれが仕事なんだけどな」
「はあ……」
ウインクをして去っていく広田はA級決勝の本命を背負っているのだ。地元戦。本命。しかも中部地区の先行型はみんな準決勝で敗退してしまって一人で戦うという。きっとだれかれかまわず押し倒してでも番手を奪ってくるだろう。
昨日の準決勝でも関西ラインに先手を取られて捲りに行く関東の若手に切り替え、それが売り切れたところでインに切り込み直線で中を割って本命人気に応えていた。今日、2コーナーからもう一度仕掛けたのはその広田のファィトがどこかに残っていたせいかも知れない。
「ま、とにかく996か」
龍平は医務室に向かって歩き始めた。
壊れた自転車をバッグに詰め込んでまだ職員が行ったり来たりする管理棟を後にしていく。外は秋のしとしと雨。
「アメハシトシト、セイセキサンザン、フトコロカラカラ」
わけの分からないことをつぶやきながらゲートをくぐると益田が待っていた。
「もう帰る気か。ちゃんと自分のライバルのレースぐらい見て行かんか」 妙ににこにこして出迎える。どうしてこんな散々な成績に笑っているのだろうかと不安になった。
「実はな、今日は酒巻の祝勝会とおまえのデビュー祝いを一緒にやることになっとってな」
「え、あの広田さんの祝勝会は」
「あれか、あれは勝てんな。まあ、落車か失格かってとこだろうな。地元で本命背負って無難に真ん中の着を取ってくるような教育はしとらんからな。がははははは。まあ怪我をしとらんかったら残念会も一緒にやってやるか」
こまごまと選手のデーターの書き込まれた専門紙を広げて、まるで車券ファンになったように二人で次々のレースの検討をする。貸し切りになってしまった非出走選手観戦室では自分が目の前のすり鉢の底を駆け回る人間ルーレットとは思えない。
A級一般レースにはさきおととい初めて言葉を交わしたばかりの地元の先輩達が必ず二三人出走している。それに途中欠場選手の補充で今日だけ出走している先輩もいる。なんとか今日こそは一勝を挙げようと結束して地元作戦を展開するのだが若手の先行選手に力でねじふせられていく。
益田は地元選手に最良の展開を想定して見せるのだがそれでも勝てない時には勝てないと笑っている。そして龍平にボウズなんて珍しくないんだと言ってはボウズを強調する。
確かに九〇人の配分で三日間三〇レース、六〇人はアタマが取れない勘定になる。まして酒巻のように一人で勝ち続ける人間が居るから浮かばれない選手はますます多くなる。
しかし、龍平の頭の中に有るのは先行型の自分が三日間一度も主導権を取れなかったことだ。もちろん龍平は自在型に変わろうとかどうとか思っているわけではない。こんな調子でいったい自分はどんな弱い選手になっていくのかと不安になっているのだ。
かといって普通のサラリーマンになれるとは思っていないし、サラリーマンになるくらいならたとえ廃業させられるまでB級でも自転車にしがみついていたいと思う。
成績欄にこの八場所で一回も連対がなく、その結果得点も八〇点を大きく割り込んで来期からB級ぐらしが確定しているロートル選手達が、この敗者一般戦でも為す術もなく敗れていく。観客席からいつまでも走ってるんじゃねえ!なんて罵声が飛んで、ますます惨めなロートル。
しかし、龍平は見た。このバンクと同じ高さから見るときそのロートルたちがどんなにちぎられようと顔を歪めて全力でファイトしていることを。若手のハンドルを蹴りあげ、ペダルをアキレス腱に当てて、何とか番手を確保しながら直線であっさりと差し返されていく。
「どうだ、伏見。A級戦はトロくって詰まらんだろう」
「そんなこと有りません。池田さんの外競りなんかこわいです。インのハンドルに自分のハンドルを引っ掛けてしまうなんて」
「さすがに大学出のインテリは違うな。良く見とった。あれに比べればハンドルに蹴りが入ったくらい何とも無いだろう」
「見てたんですか。恥ずかしいな」
「なまじインを締めようなんて思うから掬われるんだ。あのまま距離のロスを考えずに前に踏んどったら押し切れたはずだろう」
確かに今日の龍平はスピードでは小早川を凌いでいた。そうだ、前に踏んでいれば今日は後ろも弱かったし逃げ切りのチャンスだった。
池田に絡まれて車を下げた若手も力で差し返した。ヨコに自信が無かったら並ばれなければいいのだ。自分のような不器用な選手が生き延びるためにはパワーを付けるしかない。龍平はベテランのヨコの動きばかり見ていた自分に気が付いて恥ずかしくなった。
6レースの発走が近付いてきた。益田はじっと予想紙を見詰めている。龍平は頭の中で酒巻の祝勝会に添え物のように出席している自分を想像して陰鬱な気分になっていた。
雨がますますバンクを黒くしていくかのようだ。今日はスタンドの上に岐阜城も見えない。ちらっと益田を見る。
「おまえ酒巻と同じ中学だって」
「はあ」
「話によると仲が良かったそうじゃないか。どうだ、酒巻は勝てそうか」 龍平は益田が自分のハラを見透かしているような気がした。
「まあ、このメンバーなら間違いは無いと思いますが、ぼくはあんまり酒巻に勝ってほしくないですね」
「ほう、そりゃまたどうして」
「なにか幼なじみが自分と同じ土俵のずっと上の方に居ると思うとあんまり面白くなくって。醜いしっとなんでしょうがね」
益田は相変わらずにこにこして聞いている。龍平は年甲斐もなく顔が紅潮してくるのを感じた。
「おれはな、同期の池田が大っ嫌いだった。だからあいつと同じレースを走るときは絶対に後ろは回らんかった。あいつよりも強くなったと自分で確信できるまで十年かかったが、その間あいつは厭な顔をしながらでもおれの後ろを回っていたよ。その結果があいつは今4班だしおれはまだシード権のある2班だ」
ファンファーレが鳴る。雨の中を九人の生き残りが発走台に向かう。龍平は6番車の背中を見ていてはっとする。
前検日のげっそりしたイメージで岡部を見ていた龍平はプロテクターの分を割り引いても他の八人と明らかに量の違う筋肉を発見した。岡部は在校中よりずっと逞しくなっている……。
6レースB級(新人)決勝二〇二五米(5周)
◎1酒巻 正博二二才岐阜 二位自在④1 ④1 観音寺①1①
×2高木 満博一九才埼玉二十一位自在④7 ④3 西武園⑦2②
○3松田 和雄二〇才大阪 八位自在④2 ④4 平 ⑦2③
4中川晶二郎一九才三重五十七位追捲②2S③1 西武園556
4
△ 5西村 俊二一九才愛知 十六位追捲④3 ④2 観音寺落欠場
6岡部 一郎二三才福岡一〇八位先行③3JHB③4JHB 平 931
5
7川上 聡二十才千葉三十七位自在①1 ③2 函館376
8松本 憲志十九才熊本六十三位追込②2S③3S西武園761
6
注 9松木光一郎二〇才東京 十位追込④8 ③5 観音寺⑥4⑨
「あの六番車が変なヤツで、在校中には一度もしゃべったことがないのに妙に絡んでくるんですよ。何かぼくのことをライバルに決めたとかどうとか言って。少なくとも今はあいつのほうが強いのに」
「ほう、おまえみたいな競走しとるやないか。むちゃくちゃやな。こいつはテレビに映りたいだけの奴やないか。確かに伏見のライバルとしてはちょうどよさそうやな」
「ええ、どちらかと言ったらこいつを応援したいんですがね」
「ははは…… おまえは人がええなぁ。先行型の敵は先行型しかおらんやないか。この中でおまえの直接の敵になっていくヤツは岡部一人やろ」
「はぁ……」
雨の中の決勝戦が始まった。スタンディングを決めたのは意外にも③松田だった。どうしても酒巻の番手が欲しいらしい。隊列は一旦③松田-②高木-⑨松木-⑧川上-①酒巻-⑤西村-④中川-⑥岡部-⑦松本となった。
酒巻が早めに上昇して後ろが二列併走になる。松田が西村とがっぷりに競り合う。高木は早めに車を下げ四番手を確保。すかさず川上が追い上げて高木に絡む。打鍾前2コーナー、岡部が上昇。松本の内懐に川上が飛び付いて酒巻がインに詰まる三列四列のごちゃごちゃな競り合いを尻目に岡部はゆっくりとペースを上げていく。
「うまいな」
益田が思わずつぶやいた。
「そうですか? 普通先行一車の時には正攻法から誘導を一杯に使ったほうがいいんじゃないですか」
「じゃ伏見、おまえはそうするか」
「いいえ」
「な。自分のペースで逃げられれば、誘導ペースに頼って出鼻をたたかれるよりよっぽどいいやろ」
「はぁ」
4コーナーで高木が外回りから捲りを仕掛ける。それに気が付くまでもなく岡部もトップスピードに乗ってくる。一瞬後続がちぎれ、高木-松木が岡部の後ろにはまり込む。その後ろでちぎれ気味に川上と松本が競り合う。一転して縦長の展開になる。
「あほぉ、酒巻、早よ行かんか」
益田が立ち上がって叫ぶ。酒巻は5番手でフリーになっている。競走訓練ではこの手の展開が多く、酒巻はいつも2コーナーから仕掛けて捲り切っていた。そのせいか龍平は師匠が興奮する訳が解らない。
「よし、行ったぁ」
今度は龍平が叫んだ。型通りに2コーナーから酒巻が猛然とダッシュしたのだ。
「あかんな」
益田が言うまでもない。3コーナーで松木と高木のブロックに遭って失速する。それでも高木と併走のままで直線に入ってくる。両者の肩が当たったままで追い込みをかけるが、松木がそのインを掬ってくる。ゴール前で三者が一瞬岡部を捕らえたかに見えたが、ゴール線上で岡部がグンと延びて逃げ切った。
「ふう」
岡部のウイニング・ランは強烈な笑顔が目に染み込むようだ。龍平は口がふさがらないままでじっと見ていた。
「なるほど、おまえは凄いライバルを持ったらしいな」
「はあ」
郡上街道の秋はたった四日と一回の雨で数メートルは深まっていた。ハンドルを引き締めぐいぐいとアンクリングしていく。長良川のどんよりとした淵に目を遣る暇も無く駆け抜けていく。デビューの祝いに益田から貰った新しいヘルメットには『鐡の脚』と書き込まれている。
結局昨日は広田も優勝できなかった。強引に関東ラインの番手を奪って1着でゴールしたものの道中で一人、最終4コーナーで二人落車させたとして悪質失格を取られ、来月から二ケ月の自粛欠場が決まっている。
残念会のスナックでは「ちゃんと自分の骨を折って地元のファンに義理を立ててこんか」
と叱られていたが、本人は至って元気で、結局ダブル残念会になったその夜もしっかりと龍平をからかいまくっていた。
酒巻もさして気落ちしている様子でもなく、濃いめの水割りをぐいぐいやりながら龍平にこんど配分が合ったら絶対に決勝に乗ってこいとしきりに腹を殴っている。広田が笑って駄目だと応える。
「なんせ伏見は四〇〇バンクを四五〇メートルにして走っているから」
「そうだな、よく外帯線突破で失格を取られんかったな」
たしかに外外と回されてばかりいた。先輩連中も口が悪い。つまみになる話だったらどれだけでもからかい抜く。
益田が「ちょうどいいハンデのはずだがな」と首を捻ってみせる。
そこで広田が
「良かったな、破門にならんで済んで」とまじめな顔で言い出す。
「えっ」
龍平はどきっとする。
「そうやな。もしも今回決勝に顔を出しとったらまあ破門にしとったやろうな」
池田がニヤニヤしている。カウンターの奥からマスターが
「ぼくなんかその口ですから」と自分のグラスを持って寄ってきた。
「そうやな。飯山は一発やったな」
「そうですよ。デビュー戦のB級予選でバック捲りを決めてその調子で三連勝してね。これはきっと褒められるなと思って親方の所へ行ったら、まいったな。『おまえは強いなぁ、わしの教えることんたあ一つもあらせんから帰れ』ってほんの一言。そのときは何が何だか解らなかったけどこうやって早々と選手を辞める羽目になってみると解るけどね」
「そりゃ当たり前だ。一日二五〇キロのノルマを真剣にこなしておったら新人でまともに実戦を走れるような状態ではおられんはずや。たとえそのノルマを果たしとってもサイクリングみたいにのんべんだらりと走っとったらすぐわかる。わしは別に今の競輪学校が悪いとは思わんけれどデビューのときに作った脚が一生の財産になる世界や。科学的なトレーニングで作られた脚では三十年は持たんと思う。まず、超人になるまで鍛え抜くことや。お客さんに夢を買ってもらうんやで選手はまず超人にならなあかん。それやでまず弟子にはむちゃをやらせるんや。むちゃを出来ん人間は普通の人間やでわしの領域やない。その意味では伏見は大卒とは思えんほどにあほやから合格してまった。まああほさかげんではすでに超人やな」
「はあ」
何が何だか良く解らない。酒巻は真剣な顔をして聞いている。
「だいたい競輪学校で初めて見たときにあほやとは思っとったんや。トーナメントで最初トップ引いとるかと思ったぐらい早く飛び出して全然流しもせえへん。それやでノルマを出してほったらかしにしとったら毎日三百キロ以上もがきを入れて走っとったらしい。そうだろう」
「はあ、走るより外に練習の仕方も知らないし、元々サイクリングの人間ですから。でもなんで知ってるんですか」
「弟子のことは一応は気にかけとるつもりや。まあ、これからは練習のことや競走のことはとやかく言わん。稼ぐためにはどうやっていけばいいかプロ選手なら自分で考えればおのずと答えが出てくるはずだ。新人リーグで負け続けてB級に組まれてもいいやないか。この後二ケ月のうちに六場所続けて優勝できる力をつければいい。来年三月にはS級や。大丈夫や。伏見はそんだけの素質はある。アマ経験無しで今の競走率の高い競輪学校にキャリア組に交じって合格してくるんや」
「全く困った親方やで。自分では何も言わんと選手をほったらかしにしといてそれで師匠や」
広田が首を振って笑う。
龍平はなだれおちる色の洪水の中をただひたすらにもがき続ける。この四日の間に回復した脚は今までに無い快ペースで距離を稼いで行く。しかし、龍平の目は厳しく燃えている。紅葉も秋晴れの空も龍平には見えていない。頭の中に酒巻の言葉が突き刺さっている。
「伏見、今度はおまえに負けん」
「なに」
「おれは三日間ナマクラな競走ばかりしとった。決勝戦はもしも岡部がおまえでも勝てんかったやろ。おまえは三日間ともハナこそ切れんかったけどどのレースでも三度も四度も仕掛けとった。みんなあのパワーははっきり言ってこわがっとった。小早川がもう二度と戦いたくないと言うとったぐらいや。おまえのようにすぐ巻き返しを仕掛けとったら決勝戦もあんな負けかたはせんかったはずや。師匠に叱られて解った。どうせもう一度ぐらいは新人リーグで顔を合わすやろ。そのときは負けせんで」
龍平は背中にマークから捲りを狙う酒巻の殺気を感じている。そして遥か先にマイペースで逃げる岡部の尻を見ている。
「くそう!くそう!」
どうしても鐡の脚を鍛え上げてヤツらに逃げ切ってやる。奥美濃の谷間で龍平は今プロレーサーに変身していく。