女課長に肩を叩かれたので個室に移動
「君には大変申し訳ないんだが……」
神妙な面持ちで語り始めた課長の口の周りには、昼休みに食べたと思われるハンバーグのソースがついていた。しかし、それよりも気になる物が、私と課長の座るテーブルの上に置かれていた。
「ああ、それは触らないでくれたまえ」
課長の話そっちのけで、少し撫でようかと手を伸ばすと、課長が私を制止した。失礼な話、そんな大層な物には見えないが、一度気になると納得するまで頭を掠め続けるのが、私の悪い癖である。
「それで……君の処遇なのだが…………」
──ポチッ
「バ、バカッ……!!」
サッとそれを押す。が、しかし……酷く慌てた課長が、私の手の上から自らの手を重ね強く押し付けてきたのだ。一瞬慌てた課長の顔はとても面白く、私は思わず意地悪な笑みをこぼしてしまった。
「指を離すなよ!? 押し続けている間はセーフだから、ぜっっっっっったいに、離すなよ!?」
やけに取り乱した課長の顔には、汗がじんわりと浮き上がり、普段嘘や冗談等一切口にしない素振りから、どうやら本物であることが窺えたが、既に押してしまっているので後の祭りである。
「この手を離したらどうなるんですか? 私はクビですか?」
皮肉交じりに冗談を一つ。しかし課長の答えは実に意外なものであった。
「お前にキュンとする」
二人だけの個室に奇妙な空気が漂った。
「まさか」
それに耐えきれずに笑い混じりの一言を放つが、課長の視線は怪しげに動き続け、何やらモジモジと女子ムーブを始めた。
「ほ、本当だ……きっとその手を離せば、私は帰宅後にクッキーを焼いて、明日には憧れの部活の先輩に手渡すかのように、頬を赤らめてお前に差し出すだろう」
それはそれで見てみたい! と思ったが、口には出せず未だに課長の手は私と重なっている。じっとりと汗ばんだ手が妙に艶めかしく、普段プライベートな話など一切しない課長の口から突拍子も無い話が聞けただけでも儲けもの。クビになっても良い土産話が出来たようで嬉しくも思う。などと、急に醒めた考えが頭を過った。
「リストラになる私に、最後に冗談を言ってくれたのですね? ありがとうございます」
「なっ! 本当だとも! 今までに私がウソを言ったことがあったか!?」
「……二人で行った献血の時の体重」
「なっ!! あ、アレは……!! アレはぁぁ……!!」
課長の仮面がペラペラと剥がれ飛んで行く。実に可愛らしい。が、先に本題を済ませてしまおう。今は仕事中なのだから…………。
「それで、私はリストラなんですね?」
「こんなタイミングで言うのも何だが……業績が思わしくないのでな……私も出来ることなら君には残って貰いたかったのだが、上の意向でな。若い人なら次も見つかりやすいから、と……」
課長の顔が曇る。どうやら課長も辛い立場らしい。万年日陰の平社員には分からない悩みとやらだ。しかし、ここまで内を晒してくれた課長の事を思うと、私の胸も多少チクリと痛むのであった。
「課長……」
立ち上がり、左手で課長を手招きする。耳打ちの仕草をすると、課長も立ち上がり私に顔を近づけてくれた。耳の裏にあるホクロがあることに今気が付いて、少しばかり浮ついている。
「……口にソースが着いてますよ」
バッと課長の顔が離れた。その顔はゆでだこよりも赤く、夕日よりも熱く、赤子よりも可愛かった。重なる手は更に汗で湿り、思わず手が滑ってしまいそうになるくらいだった。
「今言うのか、それを……っ!」
「すみません」
したり顔で微笑むと、課長がスーツのポケットから可愛らしいハンカチを取り出し、口を拭いた。そして「どうだ?」と口を見せるその仕草が実に…………好ましかった。
「課長……」
再び課長を手招きする。怪しむ課長だが、二三手招きを繰り返すと、課長は静かに此方へと顔を近づけてくれた。
私は意地悪に顔を近づけ、そして頬と頬が触れ合うまでに至った。小さくビクンと驚く課長が更に愛おしく思えた。
「……好きです」
「──!!」
バッと個室の壁まで後ずさりした課長の赤が突き抜ける。離れた手に一抹の寂しさが訪れたが、乾いた空気に久しく触れることで、より一層課長の温もりを感じさせてくれた。
「ああっ! 手は離すなよ!?」
課長が再び俺の上に手を重ねた。しかしその優しげな加減に、俺の理性は激しく乱れた。
「課長の返事次第では離します」
「バカな事を言うな……!!」
先程から紅潮しっぱなしな課長は、既に課長の顔ではなくなっていた。最後の最後に課長と話が出来て、本当に良かったと思う。
「美月、好きだ」
「きゅっ、急に名前を呼ぶな恥ずかしい!!」
再び手を離した課長が顔を隠しながら大声で叫んだ。
「美月」
「──!!」
「美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月美月」
「ふぁ……! ふあぁああぁぁぁぁあ!?」
とんでもなく可愛らしい叫び声を上げながら、課長は膝から崩れ落ちた。全身を真っ赤に染めた課長は、そのまま恥ずかしそうにパタパタと足をばたつかせ、バッと涙目の顔を露わにして人差し指で私の胸をつついてきた。
「ば、ばかぁ……! ばかぁ!!」
語彙力を失った課長の破壊力は、一瞬にして俺の理性ビルディングを崩壊させ、危うく指を離してしまいそうになる。
「お前のような奴は、こうだ!」
課長はハンカチを取り出すと、俺の手が離れないようにボタンと一緒にグルグル巻きに巻き始めた。
「か、課長、これでは仕事になりません」
「いー、だ! 乙女のアレをこんなにさせたんだから、責任取れよな!!」
──バタン!
個室を飛び出した課長は、歩く熱源の如くとても赤々しかった。口の周りにソースが残っていたり、ハンカチが可愛らしかったり、仕草が一々愛おしく思えたり、ましてやテンパって『アレ』とか言っちゃう辺り、キュンと来ないわけが無い。
──バタン!
「あ、課長」
「明日から仕事見つかるまでウチに来い! そしたら家賃も払わずに済むだろう!?」
可愛い猫のキーホルダーが付いた鍵が投げられ、キャッチした左手に暖かい鍵の感触が伝わる。
「そのアホ面、直してから戻りなさい!」
──バタン!!
「課長……そういう所ですよ。そういう所が……好きなんです」
どうやら私は寿退社って事になりそうだ。