第7章 思い出とともに
お兄ちゃんはよく、私と話ながら歌を歌っていた。
お兄ちゃんが大好きなラブソング、大切な人のための歌。
私は最初あまり好きになれなかった。
だって歌詞が悲しいものだったから。
私がそう言うと、お兄ちゃんは
「確かに悲しいけれど、これは真実を歌っているんだ」
と言った。
よくわからなかったけど、お兄ちゃんのその時のどこかさびしそうな表情だけは今でも覚えている。
気がつくと、私もその歌を一緒になって歌うようになっていた。
歌詞もすっかり体に染み込んでしまった。
その歌は、愛する人の死を歌う悲しい歌。けれど、真実の歌。
愛する人のことを想いながら嘆き悲しむけれど、最後には死を受け入れて前へ進む決心をする。
その歌は、最後にこのセリフで締めくくられる。
「さよなら ありがとう」
それは、大切な人のために歌う歌。
ラブソング
◇ ◇ ◇
ピッピッピッ
電子音が病室で響いている。
彼女、楓佳夜はある病室の一室で穏やかに眠っている。
電子音と穏やかに上下する胸が彼女が生きていることを証明していた。
しばらくして彼女は意識を取り戻し、ゆっくりと目を開ける。
真白い天井、真っ白なベッド、電子音。
いつもの病室とは明らかに様子が違う。
そして自分がなぜここにいるのかわからなかった。
ゆっくりと上半身を起こそうとする。
「傷口が開くかもしれないから、まだ体は起こさない方がいいと思う」
突然、どこからが声が聞こえてきた。
どうやら病室には、彼女以外に誰かがいるようだ。彼女は言われたとおりに体を再びベッドに横たえる。
「どうして、私を助けたの?」
彼女は横たえたまま、病室にいる誰かに声をかける。
「あなたは、勘違いしています。私はあなたに死んでほしいなど思っていませんし、償って欲しいとも思っていません。
第一、償えると思っているんですか?」
誰かの声にはどこか怒りが込められていたが、それ以上に何か別の感情も見え隠れしていた。
佳夜は天井を見つめたままゆっくりと深呼吸をした。
「そうね・・・・・・愚かだったわ、ごめんなさい」
その言葉は誰かの胸にしっかりと届いただろうか?
顔が見えない彼女にはそれがわからなかったけれど、きっと届いてくれただろうと信じた。
「・・・・・・そっくりだったんです」
「え?」
消え入るような声。
さっきまでの怒りが込められていたものとは明らかに雰囲気が違った。
「そっくりだったんです。包丁を自分のお腹に突き刺した時のあなたの表情が、兄と・・・・・・・兄が死んでいる時の、表情と、そっくり・・・・・・だったんです」
時々つっかえながら、誰かは苦しそうにそう言った。
泣いているのだろうか?
佳夜はわからなかった。彼女がなぜ泣いているのか、一体何で泣いているのかわからなくて、苦しかった。
どうすれば泣きやんでくれるのか、わからなかった。
「もう、嫌なんです・・・・・・」
風前の灯を感じさせる声。
今にも途切れてしまいそうだった。
けれど不思議とその声は、佳夜の胸にしっかりと届いた。
「あんな表情をしながら・・・・・・死ぬ人を見るのは・・・・・・もう、嫌なんです・・・・・・」
彼女の声は悲痛なものだった。
彼は、あの時と私と同じような表情で死んでいた・・・・・・?
そんな筈ない。だって、あの時私は確かに―――微笑んでいたはずなのに
「兄は・・・・・・自殺として、警察に扱われました。なぜだかわかりますか?」
わからないという意味を込めて、無言を通した。
「床に・・・・・・メッセージが書かれていたんです。
私は最初、それがダイイングメッセージかと・・・・・・
兄が私にだけ犯人を告げてくれたものだと思っていたんです。
でも、違いました。
それはダイイングメッセージなんかじゃなかった・・・・・・・
それは兄が、自分が自殺だと警察に思わせるために、残した言葉なんです」
自分が自殺だと・・・・・・なぜ?
そこまで考えて、佳夜は気付いた。彼の残してくれた深い愛に、最後の最後まで私を深く愛してくれた彼の愛に。
「兄は、あなたが殺人犯だと警察に扱われないようにそのメッセージを自らの血で床に残し、そして微笑みながらその手で・・・・・・朦朧とする意識の中で、包丁を握ったんです」
私は、彼に庇われたんだ。
最後の最後で、私は結局彼に助けられたんだ。
いつの間にか、佳夜は泣いていた。
佳夜自身はまるでそのことに気付かないかのように、その涙を拭おうともせずに枕を涙で濡らし続けていた。
「兄の、最後のメッセージは―――」
「さよなら ありがとう」
それは、あの歌の最後の言葉。
愛する人への真実の言葉。
「さよなら ありがとう」
佳夜は自らの唇でその言葉を紡ぐ。
途端に、彼に会いたくて仕方なくなった。
自分で殺したはずの彼が愛しくて愛しくて、会いたくて―――
「私は」
誰かが口を開く。
佳夜は黙って言葉を待つ。
「私は、あなたを絶対に許しません。だから」
「だから、絶対に自殺なんてしないでください」
その言葉のあと、バタンという扉の閉まる音。
どうやら誰かはこの部屋から出て行ったようだ。
一人取り残された佳夜は、静かに泣きながら屋上を見上げていた。
やっとわかった、彼女がなぜ私に近づいてきたのか。彼女がなぜ私に記憶を取り戻させたのか、彼女は―――
断続的な電子音だけが、いつまでも病室でなり続けていた。