第6章 思い出の人
―――死体
その単語を聞いた瞬間、彼女がビクリと震える。
相変わらず俯いたままだった。
僕は投げかけるように、攻撃するかの様に言葉を続ける。
「例えば、包丁とか。例えば―――」
「もうやめてっ!!」
彼女が頭を押さえるようにして頭を振る。
一瞬僕は口を閉じる。心臓がバクバクなっているのに気づく。
そして一度呼吸を整えてから。
「霧乃蒼也とか」
彼女の制止を無視して言葉を続けた。
途端、彼女が真っ青な顔で僕を見つめた。
絶望と驚愕。
「な、なんで・・・・・・」
「やっぱり、あなたが殺したんですね」
僕は彼女の瞳を見据える。
前までは透きとおるように美しかった瞳も、今はなんだか濁ってみる。
あんなに美しかった彼女の髪が、なんだかボロボロに見えた。
だからといって、僕の胸に罪悪感などない。
「あなたが、霧乃蒼也を殺したんですね」
もう一度、確認するように―――彼女の心臓めがけて言葉を突き刺す。
彼女は多分、既に思い出しているだろう。記憶喪失というのが嘘だったとは思わないけれど、さっきの様子からして何か思い出していたのは確かだと思った。
「あ、蒼也が」
彼女は震えた声でようやく話し始めた。
その声にはまだ怯えと不安が入り混じっていたけれど、それ以上に強い怒りを感じた。
次の瞬間、真っ赤な顔で彼女は僕を睨みつけてきた。
「蒼也が悪いのよ! 浮気なんかするから! 信じてたのに!」
「浮気?」
「そうよ! 私知ってたんだから、彼が毎週この部屋に女の子連れ込んでたこと! 知ってたけど、我慢した。いつかは絶対に私一人を選んでくれると信じてた。なのに! 蒼也はその女と一向に縁を切ろうとはしてくれなかった・・・・・・だから・・・・・・だから・・・・・・」
だから殺した、そういうことだろう。
最初は意気込んでいた彼女も、どんどんとその声は悲しみに染まっていった。
嫉妬からくる怒りに身を任せて、殺したのか。
悲しい誤解―――歪んだ感情―――
そうか、そうだったんだ。
突如急激な胸の痛みに襲われた。
僕も、その歯車の一つだったんだ―――
「違いますよ」
痛みをこらえながら、この熱気だった空間に一滴の水を投じるように言葉を落とす。
「蒼也は浮気なんてしてません」
彼女の瞳が困惑に揺らぐ。
「浮気なんてしてません」
えぐるように、深々とさすように、執拗に「してませんよ」と繰り返した。
「嘘・・・・・・嘘よ・・・・・・だ、だって! 確かに私みたもの!」
「それは・・・・・・たぶん、僕です」
「え・・・・・・?」
意味がわからないのだろう、彼女は黙って僕を見つめる。
僕は彼女の視線を無視して、上着を脱ぎ始める。
「ちょ、ちょっと!」
「あの頃はまだ髪が長かったから、気付かなかったんだと思います」
突然服を脱ぎはじめた僕に彼女は驚き声を上げたが、僕は無視して上着を脱ぎシャツ一枚だけとなる。そしてそのシャツも脱ぎ去る。
「あなたに会うために、髪型を蒼也と・・・・・・兄と一緒のものにしたんです」
シャツも脱ぎ去り本来むき出しとなるはずの上半身に、何か包帯のようなものがぐるぐると巻かれている。
僕はそれをゆっくりほどきながら言葉を続ける。
彼女はそんな僕を「わけがわからない」という風にぼんやりと眺めている。
「本当は、この部屋にあなたを連れてくるのはもっと後の予定でした。あなたが確実に思い出してくれると確信が持てるまで待つつもりだった。けれど、あなたは予想以上に記憶の回復が早かった。だから、僕は今日ここに連れてくることにしたんです」
そしてその包帯のようなものを全てほどききると、パサリと音を立てて床に落ちた。
今度こそ確実に、僕の上半身があらわになる。
彼女は息をのみ、「嘘」と一言つぶやいて口を覆った。
僕の上半身、胸のあたりには確かな二つの膨らみと桜色の突起。
同い年の子と比べると小さいけれど、男性のそれと比べるとはるかに膨らみがある。
“私”は口を手で覆い絶句する彼女に向って、にこりと微笑んでから
「はじめまして、霧乃紅音です」
そう挨拶をした。
◇ ◇ ◇
私とお兄ちゃんは毎週、お兄ちゃんの部屋(時々喫茶店)で話をするのが日課になっていた。
お兄ちゃんとは同じ大学に通っているのだけれど、いい年して兄妹で同棲するのは少し恥ずかしかったから、住むアパートは別した。
お兄ちゃんは決まって大学の「楓佳夜」という彼女の話を楽しそうにした。
その1週間、その彼女と何処に遊びにいったとか、何をしたとか、そういうことを本当に楽しそうに逐一報告してくれた。
別に私は報告してほしいなんて言ってないのに、お兄ちゃんは本当に楽しそうに毎週その話をしてくれた。だから私は黙ってその話に耳を傾けた。
私はその楽しそうなお兄ちゃんの顔が好きだった。
ううん、違う。
例え悲しそうな顔でも、ぼんやりした顔でも、寝ぐせびんびんの寝ぼけた顔でも、私はお兄ちゃんの顔が好きだった。
私は、お兄ちゃんが大好きだった。本当に、好きで好きで仕方なかった。
なんで兄妹なんだろうと嘆いたこともあった。
もう今はそんなことはない。私はお兄ちゃんの妹でよかったと本当に思ってる。
また、佳夜という人を憎んだりはしなかった。
逆に私もその人に会ってみたいと思った。
私とお兄ちゃんは感性が似ているから、その人ともうまがあうと思った。
仲良くなれると強く感じた。
そんなある日、事件は起こった。
私はいつものようにお兄ちゃんの部屋へと向かった。
合鍵を貰っていたから、いつもどおりそれで部屋を開けた。
今日はどんな表情で話をしてくれるのだろう、どんな笑顔を私に向けてくれるのだろう。
それを考えるだけで、私の胸は高鳴った。
短い廊下を走り、思いきり戸をあけて「お兄ちゃん」と笑顔で呼んだ。
いつもなら私がそう言って入ってくると、お兄ちゃんは私に笑顔を向けてくれた。
けど、その日は違った。
お兄ちゃんは、私に笑顔を向けることなんてしなかった。
私を出迎えてくれたのは、冷たくなったお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんは腹部に刺さった包丁を両手で握りながら、床に血の海を作り穏やかな表情で死んでいた。
本当に穏やかな表情だった。苦痛などみじんも感じられなかった。
私は一瞬何が起こったのかわからなかった。
ゆっくりと膝をつき、お兄ちゃんの顔に指で触れた。
冷たかった、とても冷たかった。
そして気づいた。床に何か赤い文字が書かれていた。
きっと血文字というやつだろう。
おそらく朦朧とする意識の中で、最後の力を振り絞りお兄ちゃんが残してくれたメッセージ。
「ありがとう さようなら」
その10文字が、真紅の色で床にはっきりと書かれていた。
私はそれを呼んだ瞬間、頭の中で何かがはじけるのを感じた。
自分の中で何かがはじけた。
そしてお兄ちゃんの頭を抱えて泣いた。泣いて、泣いて泣き叫んだ。
警察は自殺だと判断した。けれど私は納得できなかった。
あのお兄ちゃんが自殺なんてするはずがないという確信を持っていた。
けれど、警察は動こうとしなかった。
おそらくあの血のメッセージと、あの穏やかな表情。
確かにあそこには争った形跡など何もなかった。
自殺したと判断する方が自然だという材料がひしめいていた。
けれど私は信じなかった。
「ありがとう さようなら」
このメッセージの別の意味を、私は知っていたから。
だから、私は楓佳夜に近づこうと思った。
私はその時点である確信を持っていたのかもしれない。
彼女こそが、お兄ちゃんを殺した犯人だと。
まず、彼女の今の居場所を調べなくてはいけないと思った。
彼女の話はお兄ちゃんからよく聞かされていたから、大学の学部と学科はわかった。
けれど顔まではわからなかった。
そこで、お兄ちゃんがよくお世話になっていたという先生を訪ねてみることにした。
案の定、その先生はお兄ちゃんと佳夜さんのことをよく知っていた。
先生も兄から私のことをよく聞かされていたようで、よくしてくれた。
そこで先生から楓佳夜は事故を起こして、今は入院をしているということを教えられた。
その入院をした日は、お兄ちゃんが殺された日だった。
私は葬式の間絶対に泣かなかった。もう泣かないと誓った。
次に泣くのは、お兄ちゃんを殺した犯人を突き止めてからだと決めていた。
私は病院に向かった。そして楓佳夜に面会をしたいと言うと、医者に彼女は今記憶喪失だということを聞いた。
ショックだった。医者のいうことだからそれは嘘ではないだろう。
どうすればいいかわからなかった。記憶のない彼女に会おうかとも思ったけれど、何を話せばいいのか分からないし、何を訊けばいいのかもわからない。
私は大学に戻り、先生にどうすればいいのか訊いた。
先生にはすべてを話した。
私が、彼女が犯人だと疑っていることも何もかも包み隠さず。
先生は親身になって私の相談に乗ってくれた。そこで、ある妙案を教えてくれた。
1歳違いの私とお兄ちゃんの顔はよく似ていた。
顔どころか、声もよく似ていた。
小さい頃両親によく間違えられたくらいだ。
私の髪はだいぶ伸びたから今では間違えることはないだろうけど、それでも顔と声はやっぱり似ていた。
だから、先生は私に「蒼也の振りをしてみてはどうか?」と提案した。
それは、とても面白いことだと思った。同時に、それしかないという確信もあった。
私はお兄ちゃんから佳夜という女性のことをよく聞かされていたから、彼女の趣味や好きなものは自然と覚えていた。
それに、兄の部屋から見つかった大量の手紙は私が保管していたから、あれを読めばもっと彼女のことがわかると思った。
だから私はその案を二つ返事で受け入れて、腰まで伸びた髪を一気に切り肩の辺りで揃えた。
服ももちろんいつもの女の子のような服ではなく、男の子の服を着るようにした。
胸にはさらしを巻き、自分のことをお兄ちゃんと同じように“僕”と呼ぶことにした。
病院の医者に会うのが一番緊張した。一度彼には“私”であったころの自分を見られているから。
けれど、彼は私を見るや否や「はじめまして」と言ってきたから、酷く安心した。
そして医者には「この前は妹がお世話になりました」と言っておいた。
驚くほどに彼は私の言葉をすんなりと信じてしまったから、逆に怖くなった。
何もかもうまくいくと、怖くなってしまうものだ。
けれど私は立ち止まるわけにはいかなかった。
誓ったんだ、絶対犯人を捜し出すと。
そして、その犯人に絶望を植え付けてやると。
例え兄がそれを望んでなくても、私は犯人のことが許せなかった。
私はそんなどす黒いものを胸の奥にそっと隠すように沈めた。
そして、楓佳夜と書かれた病室の扉を開いたのだ。霧乃蒼也として。
◇ ◇ ◇
「はじめまして、霧乃紅音です」
彼女は相変わらず口元を押さえたまま絶句している。
そうでなくては困る。今まで恋人だと思っていた人物が実は別人で、しかも実は女だったのだから。
私と彼女の間の数メートルには、静寂が満ち満ち緊張の糸が幾重にも張り巡らされている。一歩でも動けば、ぷつんと音を立てて崩れ落ちてしまいそうに不安定な空気。
しばらくして、彼女は口元を覆っていた手をゆっくりと下ろして両手を胸の当たりで握った。
「そっか、そういうこと・・・・・・だったんだね」
さっきより幾分か落ち着いて様子で、彼女は呟いた。
どういう意味?
「どういう意味ですか?」
気がつくと私は思ったことを口にしていた。
その言葉には今までのように優しみは込められていない、明らかなる悪意を込めて私は口を開いていた。
「あなたは、私が犯人だと思って近づいたのね?」
「・・・・・・っ!」
驚いた。彼女はこんなに察しがよかったのだろうか・・・・・・・いや、違う。もしかして
「気づいていた・・・・・・いや、既に思いだしていたんですか? 私が蒼也とは別人だと」
彼女はゆっくりと、深い悲哀を込めた表情でうなずいた。
「本当はね、最初丘に連れて行ってもらった時に全部思い出したの。彼の顔も、思い出も、ファーストキスも、何もかも」
じゃあ、あの時彼女が泣いていたのはすべて思い出したから・・・・・・・
「それじゃあ」
「私は知りたかった」
私の疑問を遮るように、彼女は言葉を続けた。
私も彼女の言葉に黙って耳を傾ける。
「あなたは自分は蒼也だと言って私に近づいてきた。でもあなたは蒼也とは別人だと、丘に連れて行ってもらった時に気付いた。別人だと気づいたのだけれど、なぜだか気になってしかたなかった。
だってあなたはどこか、蒼也を感じさせた。
蒼也の雰囲気をあなたは漂わせていたから。
だから、もう少しあなたと一緒にいたいと思った。
あなたが一体何者なのか、一体なぜ私に近づいてきたのかを確かめたいと思った」
だから彼女は記憶がないふりをして、私を毎日待っていたのか。
“僕”が一体誰なのかを確かめるために。
「あなたは本当に蒼也のようだった。
思い出の場所も、その時話した会話もまるで本物のようだった。
だから時々、もしかしてあなたは本当に蒼也なんじゃないかと、天国から私に会いに来てくれたんじゃないかと、馬鹿な妄想もした。
自分で、私がこの手で殺したのに・・・・・・」
彼女は自分を抱きしめるようにして肩を震わせた。
「気づいたら、私は蒼也を思わせるあなたのことがいつしか好きになっていた。
だから、海に向かうときはわくわくして仕方なかった。あそこは、私と彼が初めてキスをした場所だから・・・・・・電車に乗った時点で海に向かうと気づいたけど、それをあなたに悟られまいと風景ばかり見ていた。
そして私たちは海につき、あたかも今そこで思い出したかのように私はキスをした。
嬉しかった。けれどそれと同時に、とても悲しかった。やっぱりあなたは蒼也じゃないと気付かされてしまったから。
蒼也の唇の味とはやっぱり少しだけ、似ていたけれど少しだけ違っていたから。
さすがに実は女の子だった、なんてことには気付かなかったけれど」
彼女は自嘲気味に微笑んだ。私はただ無表情で彼女の次の言葉を待つ。
「歌を歌ってくれた時もびっくりした。
だって、てっきり知らないと思ってたから。
ダメ元で試しに言ってみたら本当に歌いだすから、びっくりして・・・・・・それと同じぐらい嬉しくて泣いちゃった・・・・・・
だから部屋に行こうと言われたときも、本当に嬉しかったけれど怖かった。
だってあなたは、やっぱり蒼也じゃないんだもの。
どうしようか、本当に迷った。けれど私はこうして結局あなたについてきてしまった。あなたが纏う蒼也の空気が私を狂わせたの。
けれど、足を踏み出してすぐに後悔した。
なぜだか、あなたが蒼也の部屋に向かっているのだと、本能的に気づいてしまった。
その瞬間、あのときの光景が私の脳内で映画のように鮮明に流れ始めた。
必死に私に何か言葉をかける蒼也、泣きながら我を失って包丁を握りしめる私、そして彼のお腹に突き刺さる包丁。怖くなってそのまま逃げだす私。
とても雨が強い日で、私の手についた彼の血はいつしか流れ落ちていった。ふらふらと街の中を彷徨う私。傘もささずに、ずぶぬれになりながら―――そこが道路だと気付かずに、信号が赤く瞬いていることにも気付かずに。
そして突然私の意識は途切れた―――目覚めたときは病院だった。
私は記憶という大きすぎる代償とともに、意識を取り戻した。
意識を取り戻した時、思い出せるのは自分の名前だけだった。
私は偶然に、そして不幸にも、記憶喪失という形で罪から逃げきってしまったのよ」
彼女は始終床に向かって淡々と言葉を呟いていたが、そこまで喋ると僕に瞳を向けた。
その瞳は蝋燭のように揺らめき輝いていた。
今にも泣き出しそうだった。奈落の悲しみが黒々とその姿をのぞかせている。
「そして今、やっとあなたの目的がわかった。
あなたは、私が蒼也を殺した犯人だと思い私に近づいた。
そして私にそれを思い出させて、罪を償わせるのが目的だったのね」
「・・・・・・まぁ、大体そんなところです」
本当は違った。
償ってもらおうなどと思ってはいない、というより償えるわけがないだろう。
一体私の大好きな兄を、お兄ちゃんを殺した罪をどうして償えると思っているのだろうか?
私はただ彼女に兄を殺したという事実を思い出してもらい、そしてその罪に苛まれながら苦しみ絶望に陥って欲しかったのだ。
その絶望に苛まれながら、これから苦しみながら生き続てしまえと、そうドス黒く心の底から願ったんだ。
それは勿論彼女には言わない。言わずとも、私の目的はもう達成された。
だからあの言葉、「さようなら ありがとう」という言葉は伝えない。
もしかしたらこれは、彼女にとって救いになってしまうかもしれないから。
「あなたとは・・・・・・」
突然の囁くような声に、私ははっとして彼女の顔を見る。
彼女は微笑んでいた。とてつもなく、これ以上ないほどに寂しそうに、そして穏やかに。
とても美しいと思った。なぜだか涙がでそうなほど美しかった。そしてその表情は、どこかで見たことがあると思った。
そうか、その顔は――その表情は――
「あなたとは、別の形で出会いたかった・・・・・・」
そう言って彼女はポケットからナイフを取り出した。小さな果物ナイフ、だけれど人を殺すには十分な凶器となりえる。
病院から持ちだしてきていたのだろう。
「だ、だめっ!」
私は気付けば駆け出していた。駆け出したはずなのに、体が思うように動かない。
世界が全てスローに動いているように感じた。
時間が遅くなった世界で、彼女だけはなぜだか普通の時間の中に生きていた。足を踏み出した私を相変わらず微笑みながら見つめる彼女。
「さよなら」
そして、その瞳から一滴の滴が流れおち、きらきらと輝きながら床に落ちていった。
次の瞬間、彼女の握られたナイフが空をきりさき、続いて彼女の腹部に深々と侵入していった。
ズブズブという音とともに、朱に染まりながらきらめく刃。
けれど彼女は私に向かって穏やかに微笑んでいた。
その表情は―――お兄ちゃんに、とてもよく似ていると思った。