三十 尼天狗 その二
「ど、ど、ど、どうするんですか!葉介さんがさらわれちゃいましたよ!」
「落ち着くんじゃ。それにあやつは、あの男を旦那にするつもりで連れて行ったん
じゃ。手荒なことはせんじゃろうし、子が産まれてあやつに興味がなくなれば、
帰してくれるじゃろうから問題なかろう」
「だ、旦那って……。こ、こ、子供が生まれるって……。だ、大問題じゃないです
か!」
「やれやれ、とにかく落ち着くんじゃ」
「そうだ、稲荷神社でお願いして……」
「無理じゃ。おそらくは天狗の住まい、東北の山中にでも連れて行かれておろう。
この町を守る狐どもでは、そこまで手が出せん」
「じ、じゃあどうすれば……」
「まあ、かの地の稲荷神に連絡する事くらいはできよう。行ってくるがよい」
雛は返事もせずに駆け出していった。
「まったく、あやつはとんだ女たらしよのう。本人はまったく気付いておらんよう
じゃが……。さて、この娘はどうなのかのう」
木霊はりんのほうを見る。
「北のほうには旨いもんがあるのかにゃ?土産は何を持ってきてくれるかにゃ?」
反対に、りんは落ち着いたものだった。
そして……
葉介は現在、空を飛んでいる。いや、葉介が空を飛んでいるというと語弊がある
だろう。正確には、空を飛ぶ天狗に抱きかかえられている。
落ちないようにがっしりと抱えられた葉介は、天狗と向き合う形となり、抱き合
うような格好となっている。しかも天狗の顔の部分の邪魔にならぬようにと、葉介
の体はやや下のほうにあり、ちょうど天狗の腰辺りをかかえる形になっている。
必然的に顔もやや下の部分にあり、ちょうどその豊満な胸に押し付けられるよう
になっている。そのあまりの柔らかさに頭に血が上り、意識が遠のきそうになるが
落ちたらそれこそ命はない。腰に回した手を離すわけにもいかず、この天国のよう
な地獄のような時間が一刻も早く終わることを願う。
やがてわずかな衝撃を感じ、天狗とともに地上に降り立った。
「なっ!そなた、どうしたのじゃ!?何か怪我でもしたのか?」
「てっ、天狗さん。その血はいったい!?」
尼天狗の胸元から血が出てている。いったい何があったのかと思ったが、彼女は
逆に葉介の心配をしている。不思議に思った葉介だったが、ふと自分の鼻の辺りに
違和感を感じ手をやる。
「あ……!」
盛大に鼻血が溢れていた……。
「ここじゃ。遠慮せずに入ってくれ」
案内されたのは、今は使われていないであろう山奥の古びた廃寺であった。
前の住人がいなくなった理由はわからぬが、古びた家財道具などは放置されたまま
だ。しかし、掃除をした跡や、家財道具が使われた形跡は見当たらない。
「へえ、意外ですね、言い伝えどおりであれば、てっきり木のうろなんかに住んで
いると思っていたのですが」
「ああ、昔はそうだった。だが今は、人が作ったものをうまく利用させてもらって
いる」
「なるほど、生活の知恵というやつですか」
「そんなたいそうなものではない……。いや、大きなことなのかもな。我らの存在
が人に紛れていってしまっているのかもしれぬ……」
ふと、天狗は憂いを帯びた顔をする。その美しさに心が奪われそうになるが、頭
を振り慌てて冷静さを取り戻す。
「そ、それよりすみません。着物を汚してしまい……」
先ほどから何度も謝っているが、それでも謝り足りない。
「なに、気にすることはない。何もなかったのならそれでよいのじゃ。それより
も……、わらわの体で興奮したのであろう?ならばさっそく子作りをいたすか?」
「い、いや、違います!いえ、違うことはないのですが……。じゃなくて、い、い
けません。やはりこういうことはもっと慎重に、大切な人としないと!」
「ふむ、人というのは難しいものじゃのう。いや、そなたが違うだけか……。
古来より人間がわらわを見るとき、恐れの目で見るか、何やら欲望をたたえた目で
見るかのどちらかだった」
天狗は遠い目をしてどこかを見る。
「しかしそなたは違った。あの場にいた者を見る目……人を見る目もあやかしを見
る目も平等だった。それがそなたに興味を持った原因かもしれぬのう」
「そ、そんな、買いかぶりです。私はただ……」
「しかし、そなたも変わった男じゃ。見ず知らずのあやかしにいきなり攫われたと
いうのに、怒るでもなし……」
しかし、ここはどこなのであろうか、夏も終わりに近づいているとはいえ、江戸
と比べるとずいぶんと涼しい。いや、肌寒いくらいである。空を飛んでいる時は、
胸に気を取られ興奮していたのもあり気付かなかったが、体もずいぶんと冷えてい
るようだ。
それに何やら頭が重い。ふと立ちくらみを覚えるが、慌ててふんばり、事なきを
得る。
「どうした、やはり何か具合が悪いのか」
「い、いえ。大丈夫です。おそらく空を飛ぶなど初めての体験で、少しばかり目が
回ったのでしょう。少しすれば良くなりますよ」
「そうか、ならば少し休め。なんなら天狗の強壮剤もあるぞ」
「天狗の強壮剤……ですか?」
「ああ、飲めばたちどころに子作りしたくなるほどのものじゃ」
「いや、それはさすがに遠慮を……」
言いながら力が抜けていく。頭がぼおっとする。
「お、おい!」
天狗の声が聞こえた気がし、そのまま意識が遠のいていった。




