寄り道には下心がつきもの
項を隠すように長めに伸ばされた黒髪は、光に当たると青く光る。
前髪が片目を隠すように流され、露出した黒い右目の奥にも青い光が宿っていた。
濃い緑のエプロンは少し不格好で、きっと黒いエプロンの方が似合うと思う。
丸いフォントで『そうま』と書かれたネームプレートがエプロンに付けられており、その人、そうまさんの動きに合わせて揺れる。
沢山の本を持って動き回るそうまさんは、本棚のどこに何の本があるのか、全て把握しているように見えた。
私は、別に本が好きなわけではなく、ただただ、そうまさんを見るためだけにこの書店に通っている。
私の高校から一番近いこの書店は、店内も広く、置いてある本の品数も多い。
読む本といえば、少女漫画程度の私では、あまり興味を引かれないのだが。
手に持った一冊の文庫本を前に、溜息を吐いてしまう。
本を運んでいたそうまさんが、レジに入ったところを見計らって、私もレジへ向かう。
レジ台に本を置けば「いらっしゃいませ」と私を見たそうまさん。
文庫本のタイトルを見て、僅かに右目を細めると「カバーをお掛けしますか?」の定型文。
バーコードを通すそうまさんへ、声を出せずに首を縦に振れば「かしこまりました」と台の下から紙のカバーを取り出す。
形良く整えられた爪がカバーの折り目を擦り、サイズを整えるそうまさんは本にカバーを引っ掛ける。
仕事が早いのは素敵だが、目の前で見てる分には何となく惜しい気分になってしまう。
提示された金額より少し多めにお金を出し、タイトルが完全に隠れた本を紙袋に入れてくれたそうまさんから紙袋を受け取る。
スクールバッグに、すこん、と入れればお釣りを持ったそうまさんが、金額を伝えてくれ、お釣りを受け取った。
僅かに触れた指に、肩が跳ねる。
「ありがとうございました」これも定型文だが、私は口角を上がるのが抑え切れず、俯きながら会釈をして書店を出た。
***
毎日毎日書店に通いつめ、家にはどんどん読んでいない文庫本が増えていく。
部屋に積み重ねて置いた文庫本に、うーん、と頭を悩ませる日が続いている。
適当に捲っては閉じるを繰り返し、やはり悩む。
書店に入ると、本を買わなくてはいけない気分になり、そうまさんにレジを打ってもらうなら、小説の方がきっと印象がいいんだろうな、と不純な考えをしてしまう。
だからといってハードカバーの大きな本を買うのは、学生のお財布事情には痛い打撃を与える。
文庫本でちまちま買うので精一杯だ。
部屋の隅に積み重なった文庫本のほとんどが、純文学と呼ばれる種類。
所謂、文豪の書いたもので、教科書に載っている小説もある。
うぅ、と唸りながら先日買った本をカバンに入れた状態で、書店に向かう。
真面目に読んでみよう、と学校に向かったものの、十分足らずで挫折した。
そんな情けない自分に、涙が出てくる。
鼻を、すん、と鳴らしたところで、目を擦ってしっかり前を見ていなかった私は、前から歩いてくる人にぶつかってしまう。
「……あっ」短い悲鳴と共に、ぶつかった相手の体が地面に打ち付けられる。
ハッとした時には、時すでに遅し。
ぶつかった相手は尻もちを付いており、周りにはカバーのついた本がばらまかれている。
本はそれぞれサイズが違い、文庫本とハードカバーが混ざっていた。
「ご、ごめんなさい!」
「……いいえ。ボクも、ぼんやりしてたから」
サラリと揺れる前髪は長く、その隙間から覗く目は髪と同じ黒色だ。
肌が青色を含むほどに白く、髪の色も目の色も私の目には色濃く映る。
濃紺色の制服は、私が通う高校のものとは違う。
「本、あの、どうしよ……。べ、弁償します!!」
散らばった本を見て、私が青ざめると、その女の人はひらひらと両手を揺らす。
「別に破けたりしてる訳じゃ無いから」
サイドに結えられた黒髪は癖があり、その女の人の動きに合わせてふわふわと揺れた。
鮮やかなシュシュも合わさって、可愛い、はずなのに、ぞっとするような儚さがある。
その女の人を見ていると、もう一度ぶつかったら糸が切れたように静かに動かなくなってしまうのでは、と思う。
上手く動けない私に対して、女の人は本を拾い集める。
全てにカバーが付けられているが、袋詰めを断ったのかカバンの中に入れていたようだ。
角を揃えてサイズに合わせ、手早くカバンに詰められていく。
慌てて私も数冊拾って手渡せば、前髪の奥で目を丸めた女の人が、薄い、僅かな笑みを浮かべた。
「有難う」涼し気な声のお礼に、私は縮こまってしまう。
私の周りにはいないタイプだ。
よっこいしょ、と漏らしながら立ち上がった女の人は、そのまま重そうなカバンを肩に引っ掛けて、それじゃあ、と立ち去る。
若干ふらついているように見えるが、本当に大丈夫なのか心配だ。
まともな謝罪も出来なかったことに溜息を吐けば、私の足元に何か落ちている。
薄いカード、黄色混じりの白地に濃い緑のラインが入ったカードだ。
中央には目の前にある書店の名前が印字されており、私は後ろを振り向くが、既にふらついていた華奢な背中は見えない。
「落し物、だよね……」
カードを裏返せば紛失した時用の名前を書く欄があり、そこには丸く小さな女の子らしい文字で『作間』と並んでいた。
こういうのは、フルネームで書くべきだと思うのだが、恐らく、ぶつかったあの女の人のものに間違いない。
追いかけても見つけられる自信がないことを考えると、目の前の書店に届けるのが一番か。
私はカードを片手に書店へ入る。
自動ドアをくぐれば、機械音が響き入店を知らせた。
その音をBGMに、私はいつも通りそうまさんの姿を探す。
本棚の間を縫うように進んでいけば、専門書の辺りで見慣れた姿を発見することが出来た。
今日も大量の本片手に、本棚の整理をしている。
本を持つその手が、いつもの素手ではなく、白い布手袋をしていることに疑問を持ちながらも、深呼吸を一回、二回。
緊張するならば他の店員さんに声をかければいいとは、自分自身でも思うことだ。
それでも、このチャンスを逃したくないと思う乙女心もある。
こういうのを板挟みというのか、カードを持ち直し「あの!」勇気を出して声を出す。
本棚に本を差し込もうとしていたそうまさんは、はた、とその動きを止めて振り向く。
横に流した前髪の隙間から、左目が見えたような気がした。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
にっこりと効果音が付きそうな笑顔を間近で見て、私は網膜が焼けると思う。
心臓が握り潰されそうな気分で、顔は熱いのに、背中には冷や汗が流れる。
カードを持つ手を震わせながら突き出せば、目を丸めたそうまさんが、本を置いて布手袋を外す。
いつも通り素手になると、私の手からカードを抜き取った。
「うちのポイントカー……あぁ」
ポイントカード、とまでいかずにカードを裏表とひっくり返したそうまさんが、気の抜けたような声を漏らす。
僅かにトーンの下がった声に顔を上げれば、軽く肩を竦めていた。
「あ、あの、さっき……お店の前で拾って!というかぶつかって!!」
身振り手振り、何から言うべきか判断の付かなくなった私は、頭の中に出てきた言葉をそのまま吐き出していく。
すると、カードを持ったまま、そうまさんがクスリと小さな笑い声を漏らした。
形のいい眉が下がり、ふわりと空気が緩む。
「構いませんよ。名前も書いてありますし、持ち主の方にキチンとお返し出来ます。わざわざ、有難う御座いました」
小首を傾げるようにして言われれば、グッと唇を引き結んでしまう。
背景にはまるで少女漫画のヒーロー登場に現れる、シャボン玉のような光が見える。
その後、よく来店するからということで私もポイントカード作りを進められ、そうまさんにカードを作って貰った。
私は今日が命日なんじゃないかと思うくらい幸せで、明日からもその書店に通いながら読みもしない文庫本を積み上げる日々が続くと予感している。
***
某喫茶店某日にて。
小脇に本を絶妙なバランスで積み上げた少女の前に、少年が現れる。
どちらも濃紺の制服を着込んでおり、同じ学校の生徒であることが分かった。
「嗚呼、オミくん。手は大丈夫?」
自分の座っていたボックス席の手前を指し示しながら問い掛ける少女は、長い前髪の隙間から黒い瞳を覗かせる。
その視線は、確かに少年の手元へ向けられており、少年は答えを勿体ぶるように座った。
「お陰様で」
「それは良かった。大きい書店だと取り扱う本も多いからね。倉庫整理の事も考えて、紙類を扱う上に埃と乾燥があるから、手荒れでしょう」
少年が白い布の手袋を取り出せば、少女の方はハンドクリームを取り出す。
ハンドクリームを受け取りながら、少年がアイスコーヒーを注文する。
その少年の手は、確かによく見なければ分からない程度だが、逆剥けなど血の滲みが見られた。
「それで?態々どうしたの」
読み掛けの本に黒猫のブックマーカーを挟み込んだ少女は、カップに注がれたミルクティーを啜る。
既に少し冷めたそれは、舌を撫でて喉へと流れていく。
「落し物」
すい、とテーブルの中央に置かれた物。
それを見て少女はカップを置いて、傍らに置いてあった鞄を引っ繰り返す。
しかし、目当ての物は出てこない。
理由は簡単だ、目の前のテーブルに置かれているからだ。
心当たりのあった少女は「嗚呼……」と溜息混じりに頷き、お礼と共にカードを受け取る。
裏面の記名欄には、確かに少女の苗字のみが書いてあった。
今度こそ、鞄の中に入れてあった長財布に入れて、なくさないように保管する。
「お前がぶつかった子が届けてくれたんだよ」
「……店の前でぶつかった子か」
「だからそんなに買って行って大丈夫なのか、って聞いただろ」
「素直にお店の裏に通して貰って、オミくんを待てば良かったと思う」
「だから荷物持ちに俺を使えって言った?」
俺は買う量を減らせって言ってるんだ、と少年が眉間にシワを寄せる。
シックな制服に身を包んだ店員が、アイスコーヒーを運んできた。
お礼を言ってストローを回す少年は、浅い溜息を吐く。
先程から一切表情を崩さない少女に対し、これ以上何かを言っても無駄だと知っているのだ。
むしろ、それ以上続ければ、疲れるのは少年の方だろう。
カラコロと氷同士がぶつかる、涼し気な音が響いた。
「まあ、でも、その子だよ」
「ん?」
「この前言った毎日一冊ずつ文庫本買って行く子。今日は梶井基次郎だった」
少女がカップを持ったまま止まり、そっか、と小さく頷く。
動きに合わせて結えられた髪も揺れる。
「純文学買って行くことの方が多いから、気が合うんじゃねぇの」
少年の骨張った手が伸びてきて、少女の前から本を奪っていく。
薄い文庫本のそれは、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの絵のない絵本だ。
カバーを外した少年は「今日は純文学じゃないのか」と呟くが、小脇に積み重ねられている本の中には純文学も混ざっている、と少女の抗議が飛ぶ。
本を捲る少年に、少女が一口ミルクティーを啜り、でも、と口を開く。
「実はオミくん目当てだったりしてね」
鼻で楽しげにふふんと笑う少女に、一瞬、前髪に隠れていない片目を丸める少年。
「それはないだろ」と笑いながら否定する少年に対し、少女は意味深に首を傾けていた。