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第一章 Vol1.05 とりあえず抗ってみる

 バス停に佇み、先ほどの展開を反芻する。

 冷たいみぞれが頬を叩く。

 喉の奥に広がる鉄の味に気づいて、思わず舌で確かめた。


 ――やっぱり血の味がする。


 人は強いストレスを受けると粘膜から出血することがあると聞いたことがある。

 それだ。

 間違いない。

 俺はいま、異常なまでのストレス下にいる。


 制服――さっきの少女の――あれは、近くの学校のものではない。

 なら、わざわざ遠くからここまで来たのか。いや違う。あれは、ここから徒歩圏内にある私立高の制服だ。


 5分。

 あと5分。

 まだこの辺にいるはずだ。


 見つけないと。

 間に合わない。


 アイテムも、もう一つしかない。

 失敗はできない。


 深呼吸もそこそこに、みぞれ混じりの冷たい雨の中を走り出す。

 手がかじかむ。

 視界がにじむ。


 けれど、立ち止まってなんかいられない。


「……いた」

 コンビニのガラス戸が開き、制服姿の少女が外へ出てくるのが見えた。


 一瞬、鼓動が跳ね上がった。


 しかし、問題はここからだ。

 どう声をかければいい?


「車に引かれるぞ」――?

 バカか俺は。

 そんなこと言われて、誰が信じる?

 むしろ怪しさ満点だ。逃げられて終わる。


「アルファー、彼女のデータは取得できない?」


『……パーソナルデータ・取得しました。表示します』


 彼女の頭上に、住民票のようなフォーマットが――いや、これは原戸籍!?


「ちょ、アルファーさん!? 情報量多すぎ! しかもこれ、どこから引っ張ってきたんだよ!」


『ご安心ください。合法的な手段で――』


「怖ぇよ! 逆に!」


 息が乱れたのは、走ったせいだけじゃない。

 このAI、本当に怖い。


「いや、ストーカーとかじゃないから。ただ、彼女のあだ名とか、興味を持ちそうな話題が知りたかっただけで――」


『承知しました。ファーストネームで呼びかければ、振り向く確率が高いと推定されます』


 ……高校生相手にいきなりファーストネームはないだろ。


『……ちっ。』


「……舌打ちした!? 今、したよね!? アルファーさん!?」


『気のせいです。――涼太様、あまり時間がありません。ご決断を』


 優秀すぎて常識のない、怖いAIだ。

 でも、頼れるのはこいつしかいない。


「……はぁ。もういい。俺がやる」


 少女はまだ信号前でスマホを確認している。

 間に合う。


 ぎりぎり、間に合う。


「すみません! さっきのコンビニで、お金落としませんでしたか?」


 少女がきょとんとした顔で振り返る。


 俺は二つ折りにした千円札をひらひらさせながら、できるだけ自然な口調で話しかけた。


「財布から落ちたように見えたんだけど……」


 嘘だ。もちろん。


 彼女はカバンの中をごそごそと探り始める。

 その間に、信号のカウントが変わる。


 青――!


 よし、これで――


 ……と思った、その瞬間だった。


 黒塗りのベンツが、交差点に突っ込んできた。


 タイヤが爆ぜるような音。

 みぞれを巻き上げ、車体がスピンする。


 頭が真っ白になる。


「ア・アイテム使用!!!」


『受理しました』


 世界がスローモーションになったような錯覚。

 だが、距離はまだ20メートルもない。


 少女の腕を掴み、そのまま抱き寄せ、回転しながら逃れる。


 車は縁石に乗り上げ、進路を変え、こっちへ追ってくるような形に。


「なんでやねん!!」


 無我夢中で建物の隙間に滑り込む。

 塵取りと箒を蹴飛ばし、水たまりの中、少女を守るように抱え込んだ。


 バシャ――ッ!

 ――ボン!


 背後から衝撃音が響く。


 少女の視界には、今にも突き刺さりそうな距離で止まったベンツのバンパー。


 顔が近い。

 息がかかる。


 彼女の肌は青白く、長いまつ毛が濡れて、震えていた。

 その震えが――彼女が「生きている」という、唯一の証明だった。


 俺はただ、黙ってその震えを感じていた。


 下着が透けて見えているのが目に入ったが――見ていないことにした。

 彼女の身体に、力が入っていない。

 そっと、彼女を支えて立たせる。

 ……まだ足が震えている。

 だが、大丈夫だ。

 俺たちは――生きている。


 血まみれより、マシ。

 問題なし。


 何とか立ち上がった彼女の様子を確かめると、俺はもう一度だけ深く息を吐いた。

 呆然としたまま立ち尽くす彼女を残して、歩道とは反対側――裏路地の方へと抜け出す。

 背を向けると、急に痛みが浮かび上がってきた。

 膝、肩、背中……。どうやらあちこちぶつけていたらしい。


 ――まあ、ゲームだし、気のせいだよな……。

 そう思い込もうとしたけど、胃の奥が重たくて、どうにも吐き気が収まらなかった。

 しばらく、食べ物は無理かもしれない。


 *  * * * * * * * * * *


 少女は、どうやって家に帰り着いたのか、ほとんど覚えていなかった。

 靴を脱いだ記憶さえ曖昧で、気がつけば着替えていて、シャワーを浴びて――

 それから、ぐっすり眠っていた。


 目が覚めた時、最初に感じたのは重たい疲労だった。

 そして、手の震えがまだ止まっていないことに気づいた。


「……夢、じゃないよね」


 あの人は、何度も夢に出てきた。

 真冬なのに赤いアロハシャツにゴーグルという、とんでもなく浮いた格好の――

 それでも、夢の中でいつも助けてくれた、あの人。


 正夢? 本当に、いる人だったの?


 王子様のような輝かしい存在じゃない。

 映画のヒーローみたいに完璧でもない。

 むしろどこか間が抜けてて、ちょっとダサくて……でも、なぜか目を離せなかった。


 ――変な趣味かもしれないけど、気になる。

 家族以外の男の人に、あんなふうに強く抱きしめられたのは、初めてだった。


 頬が少しだけ熱くなる。

 だがその思考は、頭の違和感で遮られた。


「……え? ゴーグル……?」


 額に違和感を覚えて触ってみると、そこには見覚えのある医療用ゴーグルが掛かっていた。


 驚いて起き上がり、足元を見る。

 自室のベッドの端――その床に、小さな背中がちょこんと座っていた。


 弟だった。


 六つ年下の弟。

 色白で、長いまつ毛。栗色の髪が柔らかく、毛先はくるんと跳ねている。

 線が細く、どこか人形のような顔立ちで、黙って背中を向けていた。


 弟は、自閉症を抱えている。


 このゴーグルは、彼の大切な医療用のもの。

 それを今、自分に掛けていたということは――


 ……夢でうなされていた姉を、どうにか助けたかったんだ。

 言葉にはできないけど、彼なりに精一杯のやり方で。


 目は合わせてこない。

 いつもそうだ。

 でも――


 彼は、姉が自分のことで悲しい思いをしていることを、知っている。

 彼は、自分がうまく言葉にできないことを、知っている。

 彼は、自分が「みんなと違う」ことを、痛いほど知っている。


 ――それでも、彼は願っている。


 姉が、幸せであってほしいと。

 笑っていてほしいと。


 そして彼は、もうすでに知っているのだ。

 その願いを叶える方法を。


 窓の外では、まだみぞれが降り続いていた。

 クリスマスには少し早い夜。

 けれど、誰かの優しさが、そっと世界に降り積もっていた。

まだ第一章なので、謎は謎を呼び混迷を深めてゆきます。

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