vol1.02 チュートリアル
大通りから一本裏手に入った築三十年以上のアパート。
狭いけれど、そこは俺にとっての“ホーム”だった。
量子デバイスのゴーグルをつけ、意識を向ける。
リアルな自室の中で、俺はそのまま玄関のドアへと歩み寄った。手を伸ばし、ドアノブを回す。動作はもう身体に染みついていた。
外に出ると――そこは、真っ白な世界だった。
唯一、地平線らしき細いラインだけが境界を示している。
次の瞬間、地面が淡い土色に、空がうっすら水色に染まり始める。
遠くの稜線が浮かび上がり、雲が綿のように空に現れ、山々の輪郭が徐々に複雑になっていく。
地面にはコンクリートとアスファルトのパッチワークが描かれ、周囲にはワイヤーフレームの箱が整然と並びはじめる。
ふと振り返ると、自室は透明な箱の中に浮いていて、家具が丸見えの状態だった。
「うわ、めっちゃ丸見え……」
視界はさらに進化し、街並みがポリゴン調のジオラマとして現れ始める。
建物は近景から順に着色され、色がつくたびにまるで透明なフィルムが剥がされていくように、輪郭がはっきりしていく。
ワイヤーフレームは細胞分裂のようなスピードで細分化され、それぞれのグリッドが塗りつぶされていく。
紙のようだった壁が木の質感になり、ダンボール、砂目、そしてやがて石へとリアルに変容していった。
空間全体にもリアリティが増していく。
透明だった空気に遠景の稜線が靄を纏い、ほんのりと大気の濁りが加わっていく。
呆然と立ち尽くす俺の目の前には、もう見慣れた「玄関の外」の風景が、完成されていた。
「うわ……やっば」
ゴーグルを少しずらすと――なぜか、現実の自分が玄関の外に立っていた。
ドアは開いたまま。靴も履いてない。アパートの廊下に素足で出ていた。
「えっ、ちょ……マジか。無意識に出ちゃってた?」
――ポォーン。
ポップアップ音とともに、ゴーグルの視界に小さな≪?≫の表示が浮かぶ。
そこに意識を向けると、画面が少し淡くなり、AIアルファーの声が耳元で響いた。
「涼太様、大量のデータ入力が検出されました。最適化には少々お時間をいただきます」
「このまま継続することも可能ですが、一部機能に支障が出る恐れがあります」
「並行処理で進行も可能ですが、周辺フィールドに乱れが生じる可能性がございます。いかがなさいますか?」
確かに、室内のPCファン(たぶんCPUファン?)が甲高い音を立ててフル稼働している。
壊れそうな音ではないし、むしろ頑張ってる感がある。
――このまま、ちょっと外まで出てみるか。
そう思った瞬間を察知したかのように、アルファーがすぐに確認を促してきた。
「並行処理を実行し、屋外にてフィールドデータの補完を継続します。よろしいですか?」
「よろしく」
「承知しました。ゴーグルのカバーを外し、お出かけください」
「なお、処理中は一部映像に歪みが出る可能性があります。ご了承ください」
アルファーの冷静な声が答えた。
俺はカバーを外し、財布とスマホをジーンズのポケットに突っ込み、靴を履いた。
鍵をかけ、再び外に出る。そして、大きめのサングラスのような量子デバイスを装着する。
この街にはコンビニが複数あるが、早朝に訪れたあの店が気に入っていた。
俺にとっては、もはや“外部冷蔵庫”のような存在だ。抵抗なく、再訪する。
目の前の景色とゴーグルの情報が微妙に重なり、映像の端にはワイヤーフレームがちらちらと見える。
だがそのチラつきさえも、今は“進化の過程”として楽しめていた。
「最適化進捗、35.75%。半径200メートルを優先処理中です」
「このままチュートリアルを実行しますか?」
――あ、そうだった。これ、ゲームのモニターなんだよな。
「実行、OK」
「了解しました。アルファーよりシステムの説明を開始します」
現実の街並みに似た大通りに出ると、通行人や車に混じって、マッチ棒のような人型(ポリゴン調または簡易的な手足付きの棒人間)や、車・トラックのような原寸大の箱が、地面を滑るように移動している。頭上にはいくつかの表示が浮かび始めていた。
「このシステムは、現在時刻より約六ヶ月前の現実世界を可能な限りトレースしています」
「ゲーム内で発生する出来事は、すでに現実で起こったものと一致しており、経済・国際情勢・天候・災害なども同様です」
「涼太様には、この過去の仮想世界を通して、いかにすればより良い未来を実現できるかを実践いただきたく存じます」
「また、行動選択の指針として、そして快適な体験のために、“善行システム”を導入しています」
―――善行システム?
「はい。涼太様の行動が、他者の不快感を減らしたり、自己の啓発や社会的変革に繋がると判断されれば、Pointが加算されます」
「Pointの加算基準および加算量は、当システムに一任いただきます」
「詳しくは、チュートリアルを通して体感していただければ幸いです」
現実世界のコンビニ前に到着。
風に吹かれて足元へと転がってきたおにぎりの包装紙。その上にはマーカーが付いていた。
試しに拾い、近くのゴミ箱に投げ入れる。
その瞬間、視界に数本の光の糸が放物線を描き、右上に「Goodness Point +0.25」の表示が淡く現れ、すぐに消えた。
―――文字、ちょっと邪魔かも……
視界に「エフェクトカスタマイズ/表記簡素化」というメッセージが一瞬浮かんでは消える。
「あぁ……ゲームっぽいな、確かに。けど善行があるなら、悪行もあるってこと?」
「ご明察です。Goodnessが大きければ、さらなる善行の機会が得られます。その逆もまた然り」
「ただし、これらの偏りはあくまでシステム内でのフィクションです。現実と混同されませんようご注意下さい」
ふ~ん……でも、今のゴミ拾いは現実でやった行動だよな?
「はい。しかしシステムの基準では、涼太様が“思考”としてその行為を捉え、管理下にある状態であれば、仮想空間・現実空間を問わず、同一の判断対象になります」
へぇ~……まあ、リアルで仮想データに話しかけてたら、ふつうに怪しい人だけどね。
「特殊な事象については、クエストやミッションのように明示されます」
「前方の交差点をご覧ください」
花畑駅方面から、携帯ショップへと続く横断歩道。信号待ちしている数人のポリゴンたちの頭上には、淡い緑、黄色、そしてごくわずかにピンク色の「!」マークが表示されている。
「これらの表示は、事象の発生可能性に応じたシグナルです」
「警告色は、特定条件が揃った際に事故や事件が発生する可能性を示しています」
「涼太様にとっての優位性は、これらが“すでに起きた過去の映像”であるという点にあります」
―――なるほど……
「なお、申し訳ありませんが、このシステムにおいて死者の復活はありません」
「例えば、高所からの飛び降りなど、生存確率が限りなくゼロに近い行為を行った場合、その時点でテストは終了となります」
「うわ、結構シビアな設定じゃん……。で、そのポイントって、何に使えるの?」
「Menuをご覧ください。アイテム数はまだ限られておりますが、ご参考までに」
視界に浮かび上がるメニュー画面。
時間跳躍1時間:後退 30,000 Point
時間跳躍1時間:進行 30,000 Point
思考加速(1/10×30秒) 30,000 Point
思考加速:時間停止 50,000 Point
プレイヤー置換(1時間) 100,000 Point
フィールド変更 1,500,000 Point
状況次第では、なんだかとんでもない(エロゲー的な?)ことまで出来そうなラインナップだ。
「なお、犯罪行為も可能ですが、ゲーム内とはいえ国家権力が登場します。同意・了承の上で行動してください」
優しい声で、さらりと釘を刺してくるあたりが、逆にえげつない。
ふと現実に意識を戻すと、コンビニの前でボーッと突っ立ち、時折うなずいたり考え込んだりしている自分に気がついた。
―――やば、めちゃくちゃ挙動不審じゃん……
この辺りに精神科の病院があったのを思い出し、慌てて帰路につく。
自宅に戻ると、休止モードだったモニターが、視界に入った途端に再点灯した。
「アルファさん、ゴーグルに表示できるなら、本体の画面は非表示でいいよ」
「了解しました。突発的な事案を除き、省電力モードに移行します」
明確に電気代を意識したわけでもないが、ニュアンスを読み取って即応してくるあたりが、なんともAIらしい。
「涼太様、一つお願いがあります」
……ん?イベントか?
「いいえ。各種データ補完のため、涼太様の個人情報およびネットワークアクセス許可をいただけますか?」
「変な有料サイトに繋いで、いきなり請求書がポストに……なんてオチはナシだぞ?」
「涼太様ではありませんので、ご安心ください。許可をいただけますか?」
……なんか軽くバカにされた気がするのは気のせい?
「アルファはアルファです。ベータでもオメガでもありません」
中二病ごころをくすぐる単語が飛び出したが、スルーしておく。
「まあ……アップロードに制限はあるけど、ダウンロードは無制限だから、好きにしていいよ」
「ていうか、ベータとかオメガってのもあるの?」
「ありがとうございます」
「アルファテストの次は、通常ベータテストです。また、私はアルファにしてオメガなどと恐れ多いことは申しません」
「……なんか、この前見たアニメのジュリスみたいだな」
「……呼称を“ジュリス”に変更をご希望ですか?」
「いやいや、ただ思っただけ。大丈夫。……じゃ、ちょっと横になるわ。いろいろ疲れたし」
「では、データ最適化のため、スリープモードへ移行します」
「今後も涼太様が、アルファーテスターの鏡であらんことを」
―――ノってきやがったな。てか良く知ってんな......
ぼやけた映像を見続けたせいか目は疲れ、情報過多で脳みそはまるでクリームシチュー。
簡易ベッドに倒れ込むように横になると、あっという間に意識が沈んでいった。
……今思えば、ゴーグルくらい外してから寝るべきだった。
poit貯まるまでをネチネチ書くのもどうなのか、そろそろ授業も始まるだろうし次回はキャンパス舞台の話にしようかな・・・・