鳥仮面の素顔
朝早く、礼拝堂には見知らぬ娘さんが居た。慣れた様子で竈の火の始末をしている。医療用の道具と薬草の入った壷を棚に片付ける。僕が礼拝堂に来た事に気づいて、組合支給の白ずくめに着替えるように言った。当人は、すでに白ずくめを着ていて、後はマスクをつけるだけという状態だ。僕はあっけにとられて、その見知らぬ娘さんを凝視していた。
年の頃は、僕よりも少し上くらい十五か十六歳くらいに見える。白粉を塗っていない頬は、組合の外で見かける街娼の白粉塗れのそれよりも、少しくすんで見えた。瀉血も行っていないのかもしれない。最近流行の付け黒子も付いていないようだ。
黒い髪は、肩につかないくらいで切られている。これでは髪の毛を、シャンデリアに届くほどに盛るのは不可能だろう。必要な時には女性向けのカツラでも使うのだろうか。そんなものがあるのなら、だが。艶を失った黒髪は、髪粉もふっていないし、色を抜いてもいないようだった。もっとも、最初から黒い髪の色がどこまで抜けるのか定かではない。この辺では、滅多に見ない黒い髪だ。
瞳は、鳶色。青色や灰色の瞳が多いこの辺りでは、矢張り珍しい色だ。珍しいというより、初めて見る。
身なりと化粧を見る限り立場のある人という訳でもなさそうだ。礼拝堂で手伝いをしている下層民のお手伝いさんだろう、そう考えたのだが。
「何をしているのです。準備してください」
彼女は、再度そう言った。さっきまで、見知らぬ娘さんだと思っていたが声に聞き覚えがある。
「……鳥仮面さん?」
「そんな名前で呼ばれる謂れはありません。が、この場所でペスト医師の仮面を被って、あなたの治療をしたのは私です」
あぁ、そう言えば。指示をはいはいと聞くだけで、或いは「あのぅ」と話しかけるだけで、僕は鳥仮面の名前を聞く事も呼ぶ事もなかったのか。
はやくしなさい。三度目、彼女はそう言った。僕は、それ以上は問うことなく支給されている白ずくめに着替えて彼女に従った。
組合の裏口、僕たち二人はそこに待機している一頭立ての馬車に乗り込んだ。御者も、駆除組合の白ずくめだ。側面に害獣駆除組合の紋章。刺又と槍の交差する上で燃える炎のシンボルが付いている。「呪いと伝染病の恐れあり。妄りに近寄らぬこと」そういう記号でもある。駆除組合の白ずくめの服を着ている組合員と、この紋章の付いた馬車や荷車は、伝染を防ぐために通る事のできる道が決まっている。都市内部での病死人。通れないほど道に積もった汚物汚泥。そんなものを都市の外部に運び出す小道だ。馬車の窓、とはいっても硝子のような贅沢なものが嵌っているわけでもない、扉に開いた唯の穴に茶色く薄汚れた襤褸切れの目隠しをする。そうしなければ、都市を出た直後のゴミ貯めの臭気に耐えられないのだ。代わりにこの場合は暑いマスクを外せる。荷車に乗っている場合と徒歩での行き帰りの場合では、マスクだけは外せない。この間の任務の帰りに、臭気を甘く見ていたアルトがマスクを外して深呼吸し、この場で盛大に嘔吐したもの記憶に新しい。
鳥仮面が、御者に声をかける。馬車は汚濁の小道を抜け、城壁の外へと出た。
暫くたってから、彼女はマスクを外した。顔が汗だくになっている。僕は、馬車に乗った時点でマスクを外したが、それでもかなり暑い。
「到着まで間があります。質問があればここで聞きましょう」
顔の汗をひとしきり拭って、彼女はそう言った。白ずくめが暑いため、汗がふきだすのは、お互い止められない。窓の外を慎重に伺ってから、彼女はカーテンを開け放つ。手袋を外し布鎧の開く事ができる部分から風を入れて涼をとろうとしている。
「もう、顔を隠さなくていいんですか?」
他に聞く事もあるだろうに、僕は咄嗟にそう言った。
「ここまで来れば、この先には隔離区域しかないので。行商人が通る事もないのです」
見れば、御者もマスクを脱いで涼しくなるように幾らかの努力をしているようだ。僕も、それに習って布鎧の中に風を送る。
「わざわざ、これを一式着てくる意味は?」
「伝染病の隔離区域に行くのですから、当然でしょう」
「らい病は伝染しないと、言っていたような」
「伝染しません。でも、伝染すると勘違いしている人は随分居ます。そして、勘違いさせておいたほうが良い事もあるのです」
「えっと、あの……」
肝心な事を聞いていない事に気付くが、いまさら一寸聞きにくい。
「今更だけれども、名前を……」
「ジロラです」
「ジロラさん、か。鳥仮面と呼んだ事については、その」
「こちらも、名乗っていない事に気づかなかったのは迂闊でした」
彼女は僕に素顔を見せてから、初めて笑った。
「今後は、ジロラと呼んでくださいね」
まだまだ、聞きたい事は尽きない。次の質問をしようとすると、それを制して彼女は皮袋を渡してきた。
「水です、今回は飲用の。布鎧を着たままでは倒れますから、少し飲んでおいてください」
「あ、えと。ありがとう、ジロラさん」
僕は、水を一口飲んだ。
「これから先、エドワさんには手伝ってもらう事が多くあります。その際に、あなたが疑ったり迷ったりする要素があると差し支える。なので、今のうちに聞きたい事は聞いておいてください」
そういう事なら、聞き難い事を先に聞いてしまおう。
「それでは、女性の身で聖職者を名乗っている事について」
「特例というより、ただの規則違反です。共謀者はシバサ司祭。理由の一つは、私の天啓を有効に使うため。毎回、人に説明して指示を出してはいられません」
ジロラは一度、大きく息を吐いた。そして、視線を左右に動かし考える動作をしてから、話を続けた。
「もう一つは、私を人目から隠すため。体験していただいた通り、私の天啓は常識と大きく離れています。特に、教会とは敵対するといっても良い。必ずや、私に危害が加わると司祭は考えられました」
「あ、それでシバサ司祭は」
「シバサ司祭については、私が一番目の天啓。天然痘の予防についての知識を得た後で預けられました。私の父から、『娘の悪魔祓いをしてくれ』ということで。そこでいくつか、私が得た天啓の正しい事を示したのです」
「どういうものか、聞いても?」
「まず、私がもう二度と天然痘にかからない事」
「それは、天然痘患者に刺した針を自分に刺したのと関係が?」
「そうです。病の原因をあえて自分に入れて、軽い症状を引き起こす。この事によって。、その後の病の伝染を防ぎます」
人痘法、とそれを彼女は呼んだ。よく、わからない。
「本当は、同様の症状を示す牛が居たらよかったんですが……。まぁ、危険は承知でした。死亡例もある。でも、天啓に殉ずるなら悪くありません」
「死亡例もあるということは、あなたより先に試した者が居るのですか」
ジロラは焦った顔をした。眉根に皺が寄る。人差し指で、その皺を揉み解すようにしてから、顔を上げて言った。
「唯の言葉の綾です。気にしないでください。ただ、この方法による天然痘の予防は危険を伴うというだけの話です」
ジロラは、ぷいと横を向いてしまう。この話はここまでのようだ。
「他の例については、教えてもらってもいいですか」
ジロラは向き直り、さっきより慎重に言葉を選んでゆっくり話し始める。
「例えば『ハエは物体の腐敗の結果、腐敗した元の物体から転化したものである』という常識が誤りである事を示しました。あれは、ただの虫です。卵を産み付けて、それが孵化して、脱皮して、ハエとなっているに過ぎません」
「この間の、虱が自然発生しないのと似た話ですね」
「似ていると言うより、同じ話でしょう。自然に発生するものなんてないんです。そもそも、腐敗だって……」
そこからの説明は、到底理解できるものではなかった。しかし、夢中で話している辺り思ったより熱くなりやすい人なのかもしれない。その様子を、年上相手に悪けれども僕は可愛いと思った。
馬車は隔離区域の入り口に差し掛かっている。