礼拝堂 前編
鳥の嘴を模した仮面。それが、最初に目に入ったものだった。
「うわ」
余りに不意打ちだったので、一歩後ずさってしまう。
アルトは、逆にその人物に近寄って無遠慮に観察している
「これ、医者のマスクっすよね」
あ、そうなんだ。アルトは意外なところで博識である。どこでこんな衣装の事を知ったんだろう。
僕たち二人が案内された、組合の礼拝堂。そこはなんというか、僕の知っている礼拝堂とは全くの別物だった。
壁は、漆喰で真っ白に塗られている。部屋の奥側に大きな窓がある。窓の鎧戸は閉じられていた。竈がいくつか並んでおり、湯が沸いている。竈があるのと反対側の壁には木製の棚が並んでいて、様々な色の陶器の壷が見えた。中には高価な硝子の小瓶も見える。部屋の中央にテーブルが置いてある。テーブルのわきに椅子が二脚。それは向かい合うように置かれており、一脚は入り口に背を向けていて誰も座っていない。入り口のほうを向いている椅子には、先述した鳥仮面の人物が座っている。
鳥仮面は嘴が長く伸びており、頭をすっぽり覆う形をしている。両目の部分に開いた穴から、鳶色の瞳が見える。首から下もローブに覆われていた。両手には皮の手袋をはめている。
どうも、組合で支給された布鎧。僕たちが任務の際に着ていたものに似ているようだ。そう思った。ただ、鳥仮面の着ている方が生地が薄く、耐久力がない代わりに軽いようだった。
「シバサ司祭の代理として、この礼拝堂を取り仕切ってくださっている方だ」
前衛隊長の紹介で、鳥仮面は少し頷いたように見えた。
「うす。はじめましてー」
僕があっけにとられている間に、アルトはそんなことを言って部屋に入っていく。
「あ、はじめまして」
僕も、挨拶をした。それに続いて「礼拝堂じゃなくて、医院ですよね」と、部屋を見た瞬間から、感じた事を呟いてしまう。
「あー、いや。書類上は礼拝堂だよ。そこにいらっしゃるのも間違いなく、司祭の御身内だ」
後衛隊長が答えてくれた。アルトがそれを聞いてさらに問う。
「ふつーに医院にしたらだめなんすか?」
もっともな疑問だと思う。聞いていいものかどうかは別にして。
「あー、そのな。治療方針が天啓によるもので」
「え」
「例えばな、医療従事者はよく手を洗う事。これをどう思う」
医者が手を洗う。これは……
「常識外れです。水につけた皮膚は弱くなり、瘴気や病魔がそこから侵入するのが常識ですから。医療に関わる人間が手や体を水につけるのは言語道断……のはずです」
僕はこれまでの生活で聞かされてきていること、一般に流布している説を答えた。
「患者の傷口を洗う事、医療器具を洗う事はどうだ?」
「先述の通り、禁忌とされているはずです」
「そういうことだ」
つまり、これって
「ここの治療方針では、よく手を洗う。患者の傷口も水につけて、医療器具も洗う。ということですか」
確かに、これで医者は名乗れないだろう。
「あー、噂話として聞き流して欲しいんだがね。このお方は、さるご身分の血縁であってね。もとは、修道会に入る予定であったのだよ。だが、三年ほど前の天然痘の流行時にね。その、なんというか」
後衛隊長が言葉を濁す。
「患者の出来物に針を突き刺して、それを自分の腕に刺したのです」
仮面を通すくぐもった声。はじめて、僕は鳥仮面の声を聞いた。仮面越しであることを考えると、高く澄んだ声。発言が成されたことで改めて注視すると、どうも随分小柄である。子供なんだろうか?
「あー、それでね。天啓を得たと」
「疫病の悪魔に取り付かれたのだとも、噂されました」
それはそうだろう。自分がその場に居たらきっと悪魔か何かの仕業だと考えたに違いない。
「ある意味、正しいですが」
正しいのか。それならば、この人は悪魔の使いなのか。
「概ねにおいて間違っています」
今度は、掴みどころない事を言う。
「あー、で。病魔を祓う目的でシバサ司祭に預けられる事になったのだが、そこでね」
天啓だと言ったのだそうだ。手や医療器具を洗うこと。建物内に汚物を撒き散らさない事。健常者でも水を浴び、体を洗うこと。
「これってなんだか聞き覚えがあります。確か教会で」
神父様の御話だったか。確か、こうだ。
「かなり昔に滅んだ野蛮な帝国の風習で、文明人たる我々が行ってはならない事だと」
その帝国には、石造りの巨大な桶に湯を貯めて、体をそこに沈める風習があったとか。体の表面を布や砂でこする風習があったという話だった。その帝国は神様に背いて教会を弾圧し、野蛮な邪教を奉じていた為に跡形もなく滅んでしまったのだと。だから、文明人は体を水につけないし拭く事も極力避ける。
「ということは、もしや……噂話の一つは」
あの、邪教を信仰しているという話は……。本当なのかと聞こうとしたところだった。
「いや、それは違うな」
前衛隊長が言う前に否定した。
「このお方は、身元がはっきりしていらっしゃる。教育の内容も、読む事が可能であった本も全て確認できる状態にある。読み書きと計算、あとは神学の初歩のみだ」
あとは、楽器演奏なんかの芸事のみだった。そういって前衛隊長は難しい顔をした。確かに「あなたは邪教徒ですか」とは無礼な質問だ。先に答えてくれて助かった。口に出したら、相手の立場によっては無礼討ちがありえたかも知れない。
「どこをどうひっくり返しても、過去の帝国について知る機会も必要もなかったのだよ。同様に医学についてもだ。だから、この方の治療は天啓なのだ。実際に、効果もあがっている。組合内でのゴブリンの呪い、要は破傷風だが。それの犠牲者は随分と減った。古参の組合員は例外なく、感謝している」
「うーす。邪神の天啓とかないんすか」
アルトがまた折角回避した危険地帯に踏み込んだ。巻き添えは勘弁して欲しい。
「ありえん。帝国は邪教を信仰していたが、邪神などは存在せん。それ故に滅んだのだ。神は、我々の神あるのみだ」
前衛隊長が明確に否定してくれた。しかし、この即答振り。こういう問答も、すでに回答が用意されているのかも知れない。教会関係者から、問われる事もあったのだろうか。
「あー。だが、君らがの疑問と同じ疑問を持つ者も多くてね。こうして、シバサ司祭の後見のもとでね、礼拝堂の運営を行っていただいておるのだよ。シバサ司祭とうちの組合長は、付き合いも長くてね。お互い信頼してらっしゃる事もあって、実質的に匿っているというのは無礼ですかな」
「かまいません。害獣駆除組合の皆様には感謝しております」
鳥仮面の篭った声に、後衛隊長は少し頭を下げた。
「恐れ入ります、殿下」
「今の私は、修道士にすぎませんから」
「これは、ますますご無礼を」
今、一寸聞いちゃいけない会話を聞いたような。咄嗟にアルトの脚を蹴って牽制する。今のは突っ込んで聞いたら、本当にまずいところだ。
「いてぇ。なにすんだ。って、あーそうだ」
何を聞く気だ。はらはらする。
「疫病が起こっても、聖職についてる方はマスクとか手袋とかしねぇって、昔の伝染病のとき聞いたんですけれど。神の御加護を疑ってはならないーとかで」
「その聖職者のかたはどうなりました?」
「伝染病で死にましたよ。ぽっくり」
「それが答えです。御加護を僅かでも疑ってはいませんが、神を試してはならない」
高いところから飛び降りれば、人は死ぬのです。そういって、仮面の奥の瞳が少し嗤った様な気がした。