別館での休息
実の所、僕はこのまま浴槽で茹でられるのかと覚悟した。浴びせられていたものより、湯の温度がずっと高い。
装備は外されている上に、ここは館の奥だ。どうも逃げられそうにない。「肩まで浸かってください」というヒアの指示に反して、僕はすでに体の半分を外に出している。
そんな調子の僕を見かねて、ヒアは大き目の布に湯を含ませて僕に渡してくれた。これを体につけて、熱に慣らすという事だそうだ。浴槽に布をつけるのは、本来はいけないという事だが今回は多めに見てくれるらしい。
散々の苦戦の末に、僕は最後には肩まで湯につかる事ができた。風呂は浸かってしまえば、案外良い物だった。温度も、よくよく落ち着いてみれば、人が死ぬようなものではない。怪我人のふりをするために痛めた肘と膝の痛みも、引いていくようだ。 僕はすっかり力を抜いて、遠い昔、誰かに聞いた話を思い出していた。
「世の中の快いものの性質は、三つに分類される。ひとつ、違法である。ふたつ、不道徳である。みっつ、食べると太る」
三つ目に関しては、太るほど食べられるなら良いじゃないかと反論したのを覚えている。この話をした男は「あぁ、ここじゃそうなのか」と笑っていた。
今回のこの浴槽は、分類するなら二番目か。こんな立派に設えてあっては、教会に知られた場合のには申し開きの余地も無いだろう。
今更ながら、僕は個人では手の出しようの無い陰謀に翻弄されている事を思い知った。僕の役目は、不道徳の側の手下か。勿論、ジロラの側についた事に後悔はない。正しき不道徳、正当なる異端者、令嬢に忠誠を誓う偽英雄、かなり冒険心をくすぐられる響きだ。僕みたいなのも、ピカレスクとかピカロとか呼ぶのだろうか。
湯の温かさに中てられたようだ。なじみの薄い、意味の良く分からない単語が頭の中を巡っている。取り留めの無い思考のうちに、指示された「100数えるまで、風呂に浸かる」という任務は達成をみたようだった。
用意されていた着替えは、真新しい木綿の衣服。年中、虱の湧いている襤褸を着ていた自分には、落ち着かない。僕は買い換える時も、安い古着で新品には触った事すらなかったのだ。高級服飾店の店先に展示されているのを見て、そんな贅沢は一生必要ないと思っていたのだが。
張りのある真新しい衣服を、汚れを落とした肌の上に着る。鋭敏になった皮膚感覚に警戒気味になって、自分の動きが歯車仕掛け染みているのが分かる。ぎくしゃくした動きで、僕は次の部屋へと案内されていった。
たどり着いた先は、小奇麗な寝室。寝台には綿をつめた敷物が敷いてある。その上にかぶさっているのは、初めて触るが羽毛だろうか。壁際には、実用品らしい飾り気の無い椅子と机が置いてある。どちらも、がたついてもいなければ、取れそうになっている部品も無い。さて次はどうするのか、と思案している僕にヒアから次の指示が示された。
「それでは、おやすみなさいませ」
「一寸まって」
ヒアは「そう言われるのは予想していた」という様子で、応じてくる。
「お気持ちは分かりますが、慣れていただきます。今の貴方は、御嬢様の命の恩人。危難と試練を乗り越えた英雄。御館様の御客分。そういった立場にありますので、当分の生活は相応のものになります」
落ち着かないにも程がある。いや、それよりも。
「ジロラが、先に言いつけていた『例のもの』が気になるのだけれど」
「あぁ、それは先程御済になりました。要するに、入浴の用意をするようにという御指示です。他に目のあるあの場で、直接的な表現は危険ですので」
それもそうだ。ヒアは、やや俯き加減で顔に陰を作っている。彼女はぽつりと呟いた。
「苛められましたか?」
そうなのだ。いや、そうでもないのか。苛められたといえば、この手足はその結果といえる。しかし、あの場において、僕を疲労させる『必要がある』という体裁はできている。それ以外では、ひたすらに彼女に振り回されていたがそれを苛められたというべきか。
「いや、苛められては……」
そこまで言いかけた僕の脳裏に浮かんだのは、僕に腕立て伏せを命じるジロラの笑顔だった。人目の無い巣穴の中で、ジロラの加虐嗜好が露わになった結果の笑顔だったようにも思う。僕は、苛められたと感じているから『例のもの』という言い回しに危機を感じていたのかもしれない。
「ほどほどに、苛められました」
そう答えたが、いやな気分というわけでもなかった。自分に被虐趣味があるとは思わない。むしろ、痛むのも疲れるのも嫌いだ。それでも、彼女に振り回されているのは悪くない。むしろ、僕を振り回す程度には頼りにされているのだという実感が湧く。
知らず、僕は笑顔になっていた。考えてみれば、笑顔で「苛められました」などと答えるのはもう完全に惚気だ。その様子を見て、ヒアは「御嬢様は、夜明けまでには戻られる予定です」と僕に教えて一礼をした。
扉が閉まると、部屋の中は薄暗がりとなる。覚束ない足取りで、僕は柔らかな寝台へと潜りこんだ。落ち着かないし眠れないだろうかと心配していたが、僕の疲労はそんな段階ではなかったようだ。忽ちのうちに、僕の意識は暖かな暗がりへと沈んでいった。
朝になって、目が覚めるまで夢も見なかった。扉の外で話し声がする。
「エドワ君は、目を覚ましていますか?」
「いえ、大層お疲れのようでしたから」
「そう、もし部屋の中で聞いているなら、ここで『手打ちか、半殺しか』みたいな話をする所だけれど」
物騒な話になってきた。
「蕎麦の実はありますが、餅米や餡子というものが不明ですので……」
「気にしないで。手打ち蕎麦も作れませんから。材料の問題でなく、技術の問題で……いっそ蕎麦掻なら」
「用意いたしますか?」
「綺麗な水が必要。その上で醤油の代わりに肉醤を使うとして、隔離区域で実験してからにしましょう」
「畏まりました」
良くわからない会話の後に、扉が叩かれた。
ジロラは、僕の手足の関節の曲げ伸ばしを見てから膏薬を張ってくれた。今の僕は、従者ではなく「恩人」「英雄」「患者」なのだという。
「なので、例外として浴室の使用を認めました。水と薪の代金は奢りです」
考えてみれば、人が浸かる量のお湯を用意する代金はかなりのものだろう。恐縮していると、ジロラに背中を押された。
「英雄らしさが不足です。胸を張って。この程度は、当たり前だという顔をなさい。英雄に遠慮されると、こちらの沽券に関わります」
立場のある人間は大変だ。今回は、自分のことを含めての感想だった。これからは、僕も周囲に流されるばかり、とはいかないかもしれない。
診察と治療の後は、病人用の昼食が用意された。卵の入った白麺麭の粥に牛乳、無花果だ。疲労回復に効果があり、消化に良いのだという。消化というのが何のことだか分からないが、これらの食べ物は喉に入っていきやすい感じがした。
「これも、専門的な勉強をしたわけではありませんから。それっぽいというだけです」
ジロラは謙遜するが、効果はありそうだった。やわらかくて、おいしい。
朝食の後に、これからの方針を聞かされた。数日は、このまま館での療養を続ける。その後に、僕の活躍を周辺の立場のある人々に披露。アルベ司祭の処遇が決まっての後は、正式にジロラの従者として任命される。
問題になるのは、お披露目だ。矛盾が出ないように、ジロラとの間に綿密な打ち合わせの必要がある。つまり、存在しない怪我を治療するための数日の期間というのは、この打ち合わせに必要な時間を確保するという事だった。




