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幻想害獣譚  作者: 犯人
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都市と巣穴

 夕暮れ時。隔離区域からイスキリへと帰る馬車の中で、僕はジロラと向かい合っていた。あんな話を聞いてしまって落ち着かない。何も気かなかった事にしたい。奇妙な医師と、その患者。それだけの関係で、僕には何も関係がない。別の世界の事も、何もかも。

「ロジーから、話は聞きましたか」

ジロラは、真っ直ぐにこちらを見つめている。僕は、何と言うべきか迷っていた。何も聞かなかったことにして、いいですか。しかし、その一言は僕の命取りになりかねない。いまや、ジロラの顔は異世界の怪物のように見えていた。

 暫く、沈黙が続いた。何も、言いだせない。ジロラが先に口を開いた。

「私自身の口から、諸事情の説明が出来なかったのは申し訳ないと思っています。でも」

そこで、彼女は言葉を切った。僕も、じっと彼女の目を見る。ジロラの両目には、一杯に涙が溜まっていた。目を伏せれば、涙が零れてしまうから。瞼を閉じれば、涙が溢れてしまうから。彼女はじっと前を向いている。

「自分で元の世界の説明をして、冷静でいられる自信がなかったのです」

御免なさい、とジロラは言った。一筋の涙が、頬を伝う。この世界は彼女に、そこまでの苦痛を強いるものなのか。いや、そうなのだろう。ロジーの説明の通りだとするならば、彼女から見たこの世界は、巨大なゴブリンの巣穴と同じだ。出口も分からない害獣の巣穴の中で、先ずは安全を確保しなければならない。味方につけられそうな「マシな害獣」を探さなければならない。なんとか命を永らえて、巣穴の出口を探す。そのうちに自分も害獣の一匹なのではないかと疑い、苦悩する。

 僕は、組合の実地訓練で見学したゴブリンの巣穴の事を思い出していた。焼くことなく駆除したゴブリンの巣穴を、崩す前に新兵に見せておくというものだ。人間の都市に漂う悪臭とは違った、胸の悪くなるような腐臭を忘れられない。ゴブリンに負けたら。生きたまま、あそこに引き摺り込まれたら。そんな想像は、いつでも僕の頭の隅に黒く焦げ付いている。

 ロジーの話のよれば、僕達はジロラにとっての害獣なんだそうだ。酷い言われ様だと思う。実に、そうは思うのだが。目の前の、涙を堪えている女の子。僕よりも少しだけ年上の、細い手足の少女。それを見殺しにしたら、本当に自分が怪物になってしまう気がした。だから、僕はこう言った。

「ロジーさんから聞いた話、信じます。出来る限り協力しますよ」

涙を零す彼女の目が、じっと僕を見る。僕は何も知らないし、何も出来ない。それでも何かをしてあげたいと、僕はそう思ったのだ。

 掠れる声で彼女は言った。

「ありがとう」

小さな消え入るような声だったが、確かにそう言ってくれた。


 太陽が半分以上、地面の下に沈んだ。馬車は、イスキリに近づいていく。ジロラは、マスクをつけて顔を伏せた。進む道の先から、腐臭が漂ってくる。出てきた時に嗅いだのと同じものだ。マスクさえしていれば、どうとも思わなかった臭い。それが、今となっては耐え難い激臭になっている。慌ててマスクをつけるが、気分が悪い。吐き気が治まらない。向かい合うジロラもマスクの上から口を押さえて、じっと耐えている。その姿を見て、僕は出発の時の事を思い返した。彼女は、その時もこんな様子ではなったか。僕が臭いに鈍感で気にしなかっただけで、ジロラは、こんな悪臭に耐えていたのか。僕の鼻は、一体どうしてしまったのか。


 馬車は組合の建物、裏手に止まる。日はほとんど沈み切って、辺りは黒々とした青紫色に染まっていた。僕は、よろけながら馬車から降りて建物に入る。イスキリの内部に入っても、悪臭は僕の鼻を苛んでいる。ジロラは、しっかりとした足取りで建物の裏口に入っていく。それを追って建物に入ったところで、僕はやっとマスクを外した。悪臭も外よりは、だいぶましだ。初任務から帰ってきたときは、都市の悪臭は文明を表す好ましい匂いだとさえ思っていた。今は、何故かそれがただのゴミ貯め以下としか感じられない。


 礼拝堂には、先にジロラが着いていた。僕が中に入ると、スペアミントの葉を粉砕して練った歯磨きを渡してくれる。それを口に含むと、気分は少しよくなった。

「隔離地区のあの場所は、廃棄物や汚物が最小限で空気が清浄なんです。なので、そこから帰ったときには都市の悪臭を殊更強く感じてしまう」

「身をもって知りました」

彼女の記憶が戻った時には、この世界はどんなに汚らしく見えたのだろう。

「今は苦しいと思いますが、数分程度で悪臭も感じなくなるはず。嗅覚疲労というものです。なので、ミントの匂いで誤魔化しつつ耐えてください」

「人体や病気に詳しいのは、元の世界で御医者様だったからですか?」

聞いてから、僕は失言に気付く。ジロラは、元の世界の事を話すのも苦しいと言っていた。思った事を考えなしに口外してしまう、自分の性質を恨めしく思う。

「いいえ」

彼女は、意外なほど穏やかに答えてくれた。

「私は、学生でした。ただの高校生。ですから、病気の治療も外科的な手術も不可能です」

「僕とアルトの傷を治してくれましたよね」

「傷口を綺麗な水で洗う程度は、誰にでもできる事です。その後の薬草は、ロジーの帝国時代の知識によるこの世界の治療法です」

「充分に画期的な治療法だと思いますが」

「この世界には無い発想だというなら、そうかも知れません。でも、私がこの世界でできた事、言った事といえば」

ジロラは、溜息をついた。自分の無力さを恨むようにして、俯く。

「できるだけ、綺麗に清潔にしましょう。たったこれだけです」

「天然痘の予防法は使えませんか?」

「だめです。接種が原因で死亡する例が少なくありません。その上に接種後は、その人が感染源になって天然痘が広がる恐れがあります。私一人なら、接種後に部屋に閉じこもって感染力を失うのを待てば済みますが」

「一般に広めると、動き回って撒き散らす人が出るという懸念ですか」

「懸念というより、確信ですね。牛痘が見つかれば良いんですが、素人にはどれが牛痘なのか判別がつきません。元の世界に居る間に、写真で見たのも天然痘のものばかりで牛痘にかかった牛の様子は見た事が無いのです」

「写真てなんです?」

「風景や物事を、そのまま一部の違いも無く絵に写し取る機械があります。それを用いて写し取った絵を写真と呼びます」

僕が思い浮かべたのは、村で神父様が見せてくれた版画。それと、村の教会に飾られていた聖画像。

「画家が失業しましたか」

と聞いてみた。

「絵は、写実以外にも発展します。それとは別に、写真家という人たちも居ましたよ。住み分けはできています」

ジロラは僕が思っている以上に、どんな質問にも答えてくれる。しかし、僕の質問に答えるほど声には、涙の気配が滲みはじめていた。二度目、僕はジロラにもとの世界の事を話させてしまった軽率を後悔する。ついさっき、自分の性質を恨んだばかりだというのに。

「今日は、もう寮に戻ります。アルトにも顔を見せないと」

これ以上、彼女を苦しめてしまうのを避けるために退散を選んだ。逃げ帰るようで情けなくはあるが、頭を冷やしたい。

「そうですね、今日はお疲れさまでした。今度時間があるときには、読み書きの練習をしましょう」

そう聞いて動きの止まった僕に、ジロラは身を乗り出して再度言った。

「私に協力するなら、読み書きは必須です。練習しましょう」

「はい」

僕は、頷くしかなかった。

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