隠者の回答
全くもって、くだらない経緯なんだがね。ロジーはそう言って頬杖ついたまま、息を一つ吐き出した。
「結論から言えば、私は元修道女だ」
「修道女って、止められるんですか?」
「やめる例がないわけでもない。だが私の場合は違うな。つまり、破門だよ。私は神の加護を失ったというわけだ」
破門。それは、教会に対して大罪を犯し「最早、人間ではない」と宣言される事だ。法も制度も人間も、何も破門者を庇護しないし、擁護しない。しかし、余程の事がなければ、そんな処置は下されないはずだ。
「破門者ってもっとこう、獣のようなものだと教えられていました」
「説教においては、そう説明されるだろう。『人を人たらしめているのは、神の御加護に他ならず。それを剥奪された人間は最早、人とは呼べない』とかなんとか」
馬鹿な話だ、とため息一つついてロジーは続けた。
「制度上保護されないからといって、人が獣の如く暴れだすわけないだろうに」
立ち上がって、くるくる回る。
「どうだね、牙も爪も伸びたりはしない。尻尾も生えない」
「尻尾のほうは、見えません」
「……素直な少年だと持っていたが案外、やらしいな」
「あ、えと。あの」
僕は赤くなり、ロジーはにやにやと笑う。
「別に怒りはせんよ。その年で女を知らんわけでもあるまい。しかし、その様子じゃ娼婦のお姉さま方に随分苛められるんじゃないか? いやむしろ、可愛がられるというほうが正しいか」
こう、からかわれると僕はどうも言い返せない。俯いていると、意外な言葉が掛かってきた。
「私がそっち方面に進んでいたなら、君を囲ってあげてもよかったが。あいにくと、そうはならなかった」
「そんな可能性もあったんですか?」
ロジーは、にやにや笑いを収めて真剣な顔になった。
「エドワ君の考えているそれとは、恐らく大幅に違うものだがね。まぁ、その場合の私はこうして森の隔離区域に隠れ住んだりはしていなかったろうが」
こんな展開の話になって、僕はジロラのことを目で探した。その視線の動きにロジーが気付く。収めたばかりの、悪戯っぽい笑顔が再びロジーの顔の上に現れた。
「あぁ、ジロラ嬢なら先程、外に出て行ったぞ。裏手の川は、ここより上流に何も無いからな。彼女も納得する水準の清潔さを保っているよ。要するに、ここに来るのは水浴びをするためでもあるんだ。組合内の井戸じゃ、周囲が気になって仕方が無いというしね。都市内部の水路は、要するに排水路だからな。あれを浴びるわけにも行かない。さて、それで」
ロジーは、着ている薄い布鎧の紐を何箇所か解く。服の中に風を送りながら、こう訊ねてきた。
「覗きに行くかね」
「行きません」
さっきから、からかわれっ放しで話が進まない。
「それがいい。彼女に敵だと判断されたら、助からんぞ」
意外な答えが返ってきた。突然、物騒な話になったことで頬の紅潮が消えるのが分かる。
「そう青くならなくてもいい。エドワ君は随分と気に入られているようだからね。でも、それ故に彼女の期待を裏切ったりはしないほうがいい」
そう言ってから、ロジーは何かに気付いた顔をした。
「あぁ、また話がそれているな。君に話を聞いた分くらいは、私の事も話してやらないといかんのにな」
ロジーは脚を組みなおして体を伸ばし、大きく一つ息をついた。
「私の出身は、没落貴族でね。もともと左前だったんだが、親の代で完全に潰れる事になったんだ。潰れる事自体は、前々からわかっていたのでね。私の両親は、出来るだけの教育を私に施してくれた。それこそ、クレティザンヌとしてやっていけるくらいにね」
「クレティザンヌてのが、分からないです」
「あー、そか。うん。つまり、御大尽相手の愛人稼業のことさ。若さと美貌と、ある程度の教養も要求される。収入としちゃ、考えうる限りの贅沢が許されるんだが……性に合わなくてね」
「贅沢が?」
「馬鹿な御大尽の相手をさせられる事が、さ。胸に椿の花をつけて、色ボケどもに愛想を振りまく気には、なれなかったんだよ。私は、女だてらに書物に親しみすぎてね。教養が必要だとは言っても、高すぎれば邪魔になる。それで、私の知識欲を満たすための別の道として修道院行きというわけだ。図書館があるからね、そういう施設には。そして、写本を作るための人手は、いつでも不足している」
「女性では、難しいとか聞きますが」
「女には読み書きよりも、優先順位の高い芸があるからね。確かに私みたいな変わり者は少ないだろう。それは、能力の問題というよりは、社会的な要請が原因というべきだな。実際、私が図書館に出入りするのは、あまりいい顔はされなかったが。まぁ、猫の手も借りたいのは向こうだからね。そこで私は、進んで帝国時代の書物を写す仕事を回してもらったんだ」
「帝国に文明はなかったと、神父様から聞きました」
「一般の信徒向けには、そうだろう。帝国は、我々を弾圧した獣たちであり、彼らの習慣は忌むべき悪習である……なんてね。でもね、実際のところ彼らにも文明と文字があり、科学があった。現在よりも、進んでいたくらいだよ。そしてね、君の言うとおり帝国の文明を好ましく思わない修道士も多いんだ。そのせいで、写本の作成が進んでいない。私が潜り込んだのは、そこだ」
ロジーは立ち上がって、棚から一冊の本を取り出した。真新しいというわけでもない、羊皮紙を綴じた本。装飾はない。題名も付いていないようだった。金具やベルトも付いていないので、開き気味になっている。
「私が、作成した写本のひとつだよ。金具が付く直前で修道院から逃げることになったため、外側が未完成だが中身は完全だ。私が内容の検証をして、注釈や訂正も入れてある。私の話の裏を取るためにも、いつか読んでみるといい」
ほんの中身を幾らか捲って、見せてくれた。当然の事ながら僕には全然読めないし、幾らか入っている挿絵の伝える内容も理解は出来なかった。
「まぁ、こんな写本を作っているうちに修道士の一人が私に近づいてきたんだ。帝国時代の知識、科学や医学について知りたいといってね。私も、喜んで教えてやった。女としての立場上、私が知った事を発表する機会なんてものは無かったからだ。じきに、そいつは私の教えた事を自分の手柄とするようになった。そこまでは良かった。奴は実績を欲していたし、私には成果を外部に発表するスピーカーが必要だったからね。しかし」
ロジーは開いていた本を閉じて、目を瞑る。
「決定的な行き違いは、そうだな五年ほど前か。そいつは『実験や検証は、もういいから文献の解釈に集中してくれ』と言い出しやがったのさ。教典も古典も正しい事が自明であるのだから、その解釈についてのみ論じるべきだと言い出したんだ。まぁ、それが今でも学問というものの主流なんだから、向こうが正しいという事になるのだろう。しかし、私は従わなかった。過去の書物にどう書いてあろうと、検証は常に行うべきだとしてね。何日もの論難と反駁と糾弾と抗論との末に、奴は図書館に火を放ったのだよ。本は、あまり多くは持ち出せなかった」
自分で作ったという写本の背を人差し指で撫でながら、ロジーは寂しそうな表情を浮かべた。
「あとは、とんとん拍子というやつだ。ただし、奴にとってのな。私は帝国時代の邪悪な思想に飲み込まれて、修道院に火を放った忌むべき獣とされたんだ。処刑から逃れたのは、奇跡といっていい。どういう経緯なのかは知らないが、イスキリ辺境伯に私の事が知られていてね。充分な拷問器具の用意があるなんて口実で引き取られて、匿われた。人の寄り付かない、この隔離区域にね。辺境伯も私も、この病気が伝染しない事を知っているからこの場所の選定はすんなりいったよ。あれは、柔軟なお方だね。教会との対立を避けながら、帝国時代の技術の復活も目論んでいる」
これまでの常識とは、何もかもがかけ離れすぎている。頭がぐらぐらする。
「税金の親玉まで、そんな事を」
「おや」
ロジーは、急に頓狂な声を上げた。
「知らなかったのか。ジロラ嬢はイスキリ辺境伯の三女だよ。貴族の娘さんだから、私も一応『嬢』付けで呼んでいるんだ」
しかしね、とロジーは笑う。
「税金の親玉とは言い得て妙だ。後で、ジロラ嬢にも教えてやろう」
今日はどうも、常識が覆った上に首が胴から離れる危険までもあるようだった。




