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ぐるぐる……ぐるぐる……
浮かんで蠢く黒い渦。
わたしの中の汚いところ、それを露にしても尚、手放したくないと心が叫んで軋む。
「……聞いたか? 瓏」
「…………」
頬に添えられた煌の手が、わたしの手を乗せたまま唇へ。
「もう一回、蓮」
「え?」
「もう一回言って、今の」
びくりと身体が強張る。これ以上惨めな思いをしろと、そう言うんだろうか。
壊れたように溢れる涙に、抗うように瞼を開けて煌を見ると、煌はわたしの顔を覗き込んだままで。困ったように歪んでいたその眉は、今は長めの前髪に隠れていたけれど、そこから覗かせる瞳は何故か嬉しそうで。わたしは少し混乱し始めた。
「今の?」
数回頷く煌を見てから、その斜め後ろの美女をそろりと見上げる。哀れむような、心配そうな、何とも言えない表情に、何と無くちぐはぐな印象を受けた。
何度も重ねてお願いしたら、煌は連れて行かれないのだろうか? もう一回お願いしたら、煌はわたしの傍にいてくれるんだろうか?
「煌を……連れて、行かない、で?」
「つまり?」
先を促す煌、その声はなんだかやっぱり嬉しそうに弾んでいて。なんて意地悪なんだろう、酷い人、このドS、と思えば更に顔が濡れた。
「……つまり、」
「俺と?」
「煌と……」
「離れ?」
「……たくない、っぐぅ」
瑞々しい花の香りに包まれたと思ったら、煌の腕がわたしの頭と背中に回ってこれ以上無理な程に強い力で抱きしめ……中身出るっ!
「んぐ、……くる、し……こう、し、ぬ」
「あ、ごめんねー蓮ちゃん愛してる。おい、聞いたか? 瓏」
絡まって締め付ける腕の力が若干弱まって、わたしは可能な限り息を吸って吐いたけど、緩んだ腕はまだがっちりとわたしを包んだまま。
煌によって誘導されて零した自分勝手な願望が、まるで正解であるかのような彼の喜び様と、修羅場である筈のこの現場の空気の温度差に、状況が解らないなりになんだかこのちぐはぐな雰囲気を説明してもらいたくて、当てになりそうも無い煌にされるがままわたしは『リョウ』と呼ばれたその人を見上げる。
「……ああ、しかと聞いた」
額に細長く綺麗な白い手を宛てながら、肩を落として息を吐いたリョウさんは、ゆっくりとわたしに近付いた。
近くに来ると益々その綺麗さが怖いとすら思う。
「……蓮」
高過ぎず低過ぎず、綺麗なアルトがわたしを呼んだ。
「呼ぶな。減る」
「貴様は少し黙っていろ」
物凄い勢いでリョウさんに振り向いて横目で睨んだ煌を、リョウさんは負けないくらい冷たく睨み返すから……バチバチと音が聞こえそうなこの空気も、今のこの状況も、わたしは何だか訳も解らず凍えそうです。誰かホントに助けて下さい。
「困った事が起きたなら、いつでも私を呼べ。この性悪に無体を強いられるような事あらば私を呼ぶが良い。必ず助け出してやるからな。私は蓮の味方だ」
つるりと頭を撫でてくれたリョウさんは凄く心配そうに、でもとても優しい目をしていた。
*
「……煌、あの、先に説明を……」
「説明しながらなら良い?」
訳も解らないままに、リョウさんは何処かへ行ってしまって、わたしに引っ付いたままの煌に引きずられながら帰ってきたのは良い。そこまでは良い。多分。
いつもは堂々と玄関からなんて入らないのに、わたしを引きずったままの煌は、あろうことか、お母さんにこう言ったのだ。
『ただいま、叔母さん』
何だと? と思っわあたしを他所に、お母さんの返事はこうだった。
『お帰りなさあい!あら麗衣、今日は煌也君と一緒だったのねー』
そして今度はわたしが煌を引きずって、自分の部屋へと押し入れたものの……。
「説明しながら何が良いのさ!」
ベッドの端まで追いやられ、もとい迫られて、多分これ危機的状況じゃないかと思いながら、両手で煌の顎を押し返しているところです!
「何って……そんなの、ナニでしょ? 蓮ちゃん」
嬉しそうに笑ってから舌を出して見せた煌があまりにも卑猥で、わたしは思わずぎゅっと目を閉じた。
「お母さん! お母さんが煌也って」
まだまだ続く攻防に、さすがに腕が痺れてくる、けど陥落する訳には行かないのである。
「うん、言ってた」
「煌也とは」
「俺、従兄弟です。蓮ちゃんの」
「はぁっ?」
驚き過ぎた拍子に思わず手が滑る。迫る煌から外れた腕はそのまま捕まえられて白い煌の首に絡まるように持ち上げられて、抱きしめられるまま煌の膝に乗せられた。
「誰がさ!」
「だから俺」
んーと頬に唇を押し付けられても、喜んでなんていられないのだ。だってわたしの疑問はまだ何一つ解決しちゃいないんだから。
「いつから!」
「さっき」
「何で?」
それまで散々ニヤニヤふざけてた煌の目が急に真剣味を帯びて、わたしの頬を指の背で撫でる。
ひくり、強張る身体は擽ったいからでも、ましてや嫌悪でもなくて。長い睫毛が白い頬に落とす影に惹きつけられた。
「蓮が、蓮が離れたくないって言った」
甘い甘いテノールの囁きは、唇からそのまま吐息を口移す。やんわりと重なる唇が離れて、それが酷く寂しい。
「俺が、我慢できないから、今後の蓮の人生調べてちょっぴり弄った。瓏は蓮がそれを許して良いよって言うかどうかを確認しに来ただけ」
瞼に押し当てられた柔らかい感触に、うっとりと目を閉じる。
「何より俺が、蓮の傍から離れたくなかった」
甘い甘いテノールが、わたしのどす黒い感情を押し流していく。傍にいて良いって、傍にいてくれるって、そう言った煌の瞳は優しくて……。
「煌」
「ん」
「煌、煌が好き。大好き」
わたしは生まれて初めて自分から、男の人に、煌にキスをした。