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カリカリ……カリカリ。
ぶつかり、滑る。
机に紙を一枚挟んでただ只管にペンを動かす。無心に、無心に、数式を解く。
凡ゆる演習問題、例題を悉く解く。
集合って何だと疑問を持ってはいけない。疑う事なくあるままに受け入れる。さもないと、頭の中でヘンテコな帽子を被ったお兄さんが、口に手を添えて『あつまれーっ!』とか『散らばれーっ!』とか『3を代入するグループさーんっ!』なんて言う妄想に侵食されてしまう。侵されたら最後、現実逃避という自堕落な安寧の果てに待つのは後悔という地獄だ。
妄想を追い出すように問題を解く。提示された解法パターンを叩き込んでそれを基にパズルを解く。平方根がこんな形してたっけ?とか、そんなゲシュタルト崩壊には気付かない振りをして。
「よしっ!」
テスト範囲を只管おさらいして顔を上げると、壁に掛かった時計の針は既に1時を回っていて、わたしは一つ息を吐いてから床に散らばったままの数字と記号で両面を埋め尽くされた紙を広いまとめた。
コツ、コツ、コツ
机の前の窓から聞き慣れない音。
ぴくりと肩が揺れて体が硬直する。
生まれてこの方、この家に住んでいるけれど今までこんなオカルトな場面に遭遇したことはない。
わたしは恐る恐る眼球だけを窓に向けた。人間というものは見たらダメだと解っていながら何故それを見てしまうんだろう。
カーテンの隙間からこちらを覗く夜よりも先に視界に入るのは、白く浮き立った完全なシンメトリーの綺麗な顔。
わたしは咄嗟にびしゃりとカーテンを強く締め直す。
コツコツコツコツコツ……
「だあああっ! お前か変態っ!」
勢い任せにカーテンを引き、窓を開けると、庭の枇杷の木に乗っていた煌がわたしの部屋に滑り込んで来た。ご丁寧に手に靴を片手に持って。
「窓からこんばんは」
「ハイコンバンハ。どうしたのこんな夜遅くに、しかも窓から?」
「夜這い?」
右側に首を傾げて口元に人差し指を宛てた煌。目に掛かる長めの黒髪がさらりと右側に流れる。か、可愛い……。仕草は可愛いのに、その唇から発せられる音は一切可愛いくない。
「よ、よばっ、 変態っ! この前は勝手に入ってきたくせに……、何? どうしたの?」
「レンに逢いたいから逢いに来た」
わたしの言葉にキョトンとした後、一歩だけで近付いた煌の腕がわたしをふわりと包んだ。
ず、ズルいと思う。
わたしは羞恥心を人並み程度に兼ね備えていると信じて疑った事など無かったのに。最近じゃあこんな風に抱きしめられたら嬉しいって思う。もっとして欲しいって思ってしまう。
逢いたいって言われたら、わたしもだよって思っちゃうんだ。だからすごく困る。困るけど、わたしからは離れられなくて。
わたしはそっと煌の背中に腕を回した。細いけどごつって感触に、ドキドキする。
わたしの頭のてっぺんに、ぷにっと柔らかな感触。煌が頬を乗せているんだとわかる。首を傾げる形になるだろうからきっと可愛いだろうけど、この体勢だと見えないからそれがとても残念。
「あれ、なあに?」
ん?
わたしは煌が指差した方を見た。机と、その上に閉じた数学の教科書と両面が真っ黒になったレポート用紙。
「あ゛」
そうだ! こんなまったりしてたらせっかく詰め込んだ数学の解法パターンが耳から流れ出てきちゃうじゃないかっ!
「テスト! 明日……ってか今日は中間テストなのわたしはもう寝なきゃいけないのでじゃあねさようならお帰りは窓からですかではまた」
ノンブレスで言い切って勢いに任せてわたしはぐいぐい煌の体を押してるのに、全然離れてくれなくて。
「ぐぇっ」
それどころか、抱き潰す勢いで腕の力が強まる。
「嫌? 俺の事嫌い?」
上から顔を傾けて覗き込む煌の長い睫毛が頬っぺたに擽ったい距離で、そんな風に聞くなんて。何てズルいんだろう。
一気に熱が集まる顔を隠したくても、煌の腕が邪魔して逃げられやしない。
「き、嫌いじゃ、ないけど」
ニヤリと口を吊り上げた意地悪な顔。綺麗な顔だから余計始末に負えなくて、ドキドキドキドキ心臓が煩い。
「じゃあ好き? 大好き?」
みみみ耳! 息が! ひぃっ! 今、なっ、舐めた!
もう頭がパンクしそうで、わたしはぎゅっと目を閉じた。
「れーんー?」
「す……す、きだけどテストっ! テストなのだからこんなことしてちゃだめなのですーっ!」
………馬鹿、わたしの馬鹿。
何て事を言っちゃってんの! 勢いで押し切るつもりが勢いに押し負けちゃって、唇に触れた柔らかな感触に、動揺したとは言え自分が口から出した言葉に後悔してももう遅くて。
いつもより長いそのキスが深くなったところで、歯に当たる何かが舌だとわかる。
「っ!―ふっ」
わたしの舌をチュッと吸ってから離れていく煌の顔。わたしは呼吸の仕方が忘れちゃったみたいで……。
「レン、吐いて。いっぱい吐いて」
煌の声に従って息を吐き出すと、あとは吸い込むだけで、やっと呼吸の方法を思い出した。そしたら膝の力がカクンッて抜けて、煌の腕に支えられた。
「……死んだら迎えに来ようって思ったけど、……やっぱり無理」
煌の言ってる意味がわかんないまま、わたしはぼんやりとその白い頬を見上げる。
ぺろりと覗く紅い舌が煌の卑猥な唇を舐めて、わたしはまた膝の力が抜けてしまう。そんなあたしをまた意地悪な顔で見下ろしてから軽々と抱き上げた煌が、ベッドにそっと降ろして布団を掛けてくれた。
「またね。レン、また明日。おやすみ」
柔らかなテノールと瞼を覆う掌に導かれるように、わたしはゆっくりと意識が遠退くのを感じていた。
*
翌朝は驚く程目覚めが良くて、窓もカーテンも閉まってたから、全部夢かと思ったけど、鏡を見て気付いた首の紅い点が噂に聞く霊のアレだとわかった時、わたしは恥ずかしさにその場で蹲ってしまったのだった。