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歩く……歩く……。
「ねぇ、ねぇってば!」
雑音は無視。ただ只管にこの通い慣れた道を歩いて、わたしは帰るのだ。自分の家に。マイルームという名の安住の地に!
「れーんちゃーん」
「っ、んもうっ!だから、わたしの名前は麗衣、レンじゃなくて、レイ!」
嗚呼! もう馬鹿、わたしのバカッ。
何で振り向いたんだろう。目の前の少年がニタリと嗤う。そのしてやったりな表情に頭を抱えたくなる。まんまとコイツの罠に掛かってしまった気分だ。いや、実際思う壷だったんだろう。
わたしは溜息一つのその後に、左手に鞄を持ち直して右手を腰に添え、そしてゆっくり息を吸う。
「何度も説明させて頂きましたがわたしの名前は小泉麗衣ですのでアナタが言うところのレンさんとは人違いであると思いますよ良い加減理解して付き纏うのヤメロ下さい。ん?」
目の前の少年を見据えてはっきりと言ってやる。言ってやると言っても、もうこの手の台詞何回目なんだろう。
中性的なこの少年は、黒髪を揺らしてニヤニヤと、何度も頷いて見せる。黒い厚手のパーカーに、黒のスキニーを履いたその姿は華奢で、日の光に当たったことがあるのかと疑いたくなるほど青白い肌のせいか、一見するとボーイッシュな少女と見紛う程だ。
ひと月程前にふらりと現れ、放課後になると(時折早朝から!)こうしてわたしに付き纏う。
「んー、じゃあ、こうしよう」
少年はパチンと両手を打ち鳴らし、一歩わたしに近付いた。 膝から下が長いせいか、たった一歩でその身体はもうすぐ目の前だ。
わたしは、反射的に顎を引き身体を後ろに反らせた。
158cmのわたしより頭一つ分背の高い少年は、身を屈めてわたしに目線を合わせる。
「、ちょっ」
「レイちゃんのあだ名。俺だけはレンって呼ぶ。良いでしょ?」
もう鼻がくっついちゃいそう。
「いっ、…いくない!何それっ!」
「ええ? 精一杯の落とし所だよ。お互いに受け入れられるところの最大公約数じゃん」
「受け入れられないね! 大体わたしは一方的に名前を知られてて、アンタの情報は何にも持ってない。全っ然フェアじゃないね!」
近い近い近い。
一歩分後退るわたしの言葉にキョトンとした少年が、右に首を傾げる。
か、可愛いじゃないの……。
駄目だ、駄目だわたし! 絆されるなっ!この身元不明のストーカーに絆されてしまっては益々思う壷じゃないか。
こんな虫も殺せないようなお綺麗な顔して、実は悪の秘密結社とかの人間で、心を許したら最後。『うへへへ、アラブのサド公爵に売っちゃうもんねー』『あ~れ~!お助けえ~』なんて事になるかも知れない。
「名前? んじゃあレンがつけてよ。そしたらオアイコでしょう?」
「…………は?」
ね? と、今度は左に首を傾げる。その左耳にある黒い十字架と逆十字のピアスが揺れた。
さも良い考えだといった体で、満面に笑みを浮かべて、期待に満ちた眼差しを送られて、コイツは犬かと思う。
でも確かに、名前を教える気がないなら呼び名がないのは不便な事極まりない。
「……煌」
それは、無意識に口をついて出た音。
そして次の瞬間、目の前の少年、煌は蕩けるように、柔く、甘く、笑った。
「――っ!」
目の当たりしてしまったわたしは、不覚にも顔が熱くなる。そんなドロドロした笑顔を向けるな! 猥褻物! そうだ、コイツは猥褻物だ!
「お住まいは? 年齢は?自己紹介、どうぞ」
負けないもん。負けるもんか。キラキラしい色気に勢いで真っ向勝負を挑む。勢いで何とかなる気がしたから。多分。
「やっと興味持ってくれたんだ。年齢、年齢ね、んー、多分レンと一緒?」
また首を傾げて煌が言った。何故疑問形だ。猥褻物よ。
「じゅ、16?」
「ん」
こくりと頷いて、そして煌は何かを見付けたように遠くに視線を移した。
「ごめんね、レン。俺もう行かないと。また明日ね」
そう言ったかと思うと、煌は一瞬顔を近付けて身を翻して走り去って行った。
「…………」
唇に音も立てずに残された、暖かで柔らかい感触に、わたしは今度こそ頭を抱えて踞る。鞄を落とした事など構わずに。
「あ、あ、あたしのファーストキス……」
嗚呼、ジーザス!
幼気なわたしの、純真無垢なわたしの、ピュアホワイトなわたしの、ファーストキスは本日、猥褻物に奪われました。




