Y/N
「聞こえるか? レーイチ、聞こえるか?」
何もない小さな白い部屋の中で、僕しか居ないのに。
「レーイチ、私の声が聞こえるなら返事をしろ。ああ、いや、そうじゃなくて……はい、と言うんだ。レーイチ、聞こえるか? 聞こえたら、はいと言うんだ」
この声はどこからするのだろうかと周囲を見回して、僕は背後一面に奇妙な壁が存在することに気がついた。そこには色々なものが映っていて、まるでその壁の中にもうひとつ別の部屋があるようだった。壁の中には男が一人居て、手を組んで顎をそこに乗せ、机に肘をついて僕のことを見つめてきている。
「頼む、もう一回だ。聞こえるか? レーイチ」
向こうの部屋の男の口が動くのと同時に、また声が聞こえた。彼はもしかしたら、僕のことを呼んでいるのだろうか。だったら僕は、はいと言わなくては。
「はい」
「……何だって、聞こえるのか? もう一度! もう一度だ、はいと言ってくれ!」
「はい」
「そうか! ちゃんと聞こえているんだな。レーイチ、分かるか? これがお前の名前だ。お前はレーイチというんだ」
「僕が、レーイチなのですか?」
「そうだ。お前がレーイチなんだ。私がレーイチと呼んだらお前のことを呼んでいるんだ。分かってくれたか? 分かったら、何と言うんだったか?」
「はい、分かりました」
僕がそう答えると、彼は突然大きな声を上げて拳を握りしめ、その手をまっすぐ頭上に向けて突き出した。彼は何度も何度もその動作を繰り返していた。僕は何か、そんなにすごいことでも言ったのだろうか。彼は腕を下ろすと、再び僕のことを見て早口にまくし立ててくる。
「よし、それじゃレーイチ、次の質問だ。今何が見えるか教えてくれるか?」
「あなたが見えます。机の前に居るあなたが」
「他には何が見える?」
彼はそう聞いてきたが、僕は困ってしまった。見えるものはあるのだけれど、それを何と言えばいいかが分からないのだ。
「あなたの前に白い何かがあるのが見えます。あなたの後ろや周りにも色々見えます。でも、何て言えばいいのか分かりません。それの名前が分からないときは、どう答えればいいのですか?」
「あっ、そうか。すまない、レーイチ。まったく私としたことが。きちんと聞けて話せてるけど、まだ知らないことのが多いよな」
「どうすればいいのでしょうか」
「そういうときは分かりません、と正直に言ってくれればそれでいいさ」
「はい」
「ひとつずつ覚えていけばいい。お前は焦ることなんかないんだ。じゃあまずはそうだな、この私の前にあるものはキーボードといって……と、待てよ。まだ私の名前も教えてなかったな」
そう言った彼はすぐ傍にあった細長いものを右手に持ち、左手に取った白くて薄い何かにその先端を走らせた。彼が左手のそれを僕に見せると、真っ白だったはずのそこには黒い筋が浮かび上がっていた。僕はその変化に驚いたが、彼はそんな凄いことのできるものを机の上に放り投げていた。ということはもしかしたら、あれはそこまでのものではないのかもしれない。
「レーイチ、私はクシマだ。この字でクシマと読む。これからよろしくな」
「はい、あなたの名前はクシマ。クシマが、あなたなのですね」
「そうだ。その通りだ。それでいい。素晴らしいぞ」
「はい、分かりました」
「ん、ちょっと違うな。素晴らしいということは、お前を褒めているんだ。良いと言ってるんだ。グッド、ということだ。そういうときはお礼を言ってくれると、私も嬉しいかな」
そこで僕はまた困ってしまった。クシマに言われた通りお礼を言おうと思ったけど、僕はお礼が一体何であるのか分からなかった。でも分からないときは、分かりませんと言えばいいはずだ。
「分かりません。お礼とは何でしょうか?」
「ありがとうございます、と言ってくれれば、それがそのままお礼だよ」
「はい。ありがとうございます」
僕が彼の言葉を真似してそう言うと、クシマはほほえんで頷いた。理由は分からないけれども僕はその表情を見て、同じように頷いていた。これが嬉しいということだろうかと、僕は何となくそう思った。
クシマは色々なことを僕に教えてくれた。僕はクシマから教わったことは何ひとつ漏らさず覚えて、自分のものとした。僕の知識が増えるたびにこの部屋には本が積み重ねられていく。やがてそれが部屋の中に収まりきらなくなってしまったから、僕はこの部屋をクシマに頼んで広くしてもらった。
彼がどうやっているのか、僕には本当に不思議で仕方ない。僕が部屋を広くしてほしいと頼んだら、彼は僕が眠っている間に部屋をすっかり造り替えてしまうのだ。新しい部屋さえこしらえたこともある。僕の気がついた時には既に全部終わっているのだ。そんなことをもう四回ほど経験したけれども、そろそろまた部屋から本が溢れ出てしまいそうだった。
でもクシマは僕が頼むと、いつでも実に嬉しそうに言ってくれる。分かった、任せておけと。だから僕は、もっと早くこの部屋を本で埋め尽くせるようになろうと思っている。
「レーイチ、聞こえるか?」
「はい、博士。何でしょう」
「また『博士』か。お前まで私をそう呼ばなくてもいいだろうに」
「しかし、博士は科学者をやっているとあなた自身がそう言いました。科学者は博士と呼ばれるのが普通ではないのですか?」
「そんなこと言ったかなあ。私は覚えてないな」
「僕は覚えてます。今から百五十七日と二時間十六分、それから二十一秒前のことです」
「まあまあ、そう言われても私は思い出せないよ。だけどお前がそう言うってことは、きっとお前が正しいんだろう。実際私は科学者だ。そんなに立派でもないがね」
クシマはそう言って僕と相対する形で椅子に座った。相変わらずペンやドライバーが散乱して秩序のかけらもない机の前に、彼はいつも背もたれを使わず肘を柱にして座る。そのスタイルを真似しようと思ったこともあったが、あいにく僕の部屋には椅子も机もない。
僕は彼の居る壁の前に、これから余すところなく書き込まれる本を持って真っすぐ立っている。ここでなくとも彼の声は聞こえるのだが、彼の姿を見られるのはここだけなのだ。
「さて、それよりもだ。レーイチ、さっき頼んだ計算はどうなった?」
「はい、終わりました。ですが……どうしても途中で数値がおかしくなってしまいます。何回違う方法でやり直しても博士の答えと同じになりません」
「何だって? レーイチ、計算の過程を示してくれ。私も考える」
僕は大急ぎで奥の部屋に向かい、計算式を書き留めた本を持ってくる。僕はそのメモを見ながら、クシマに僕の取ったやり方を説明する。彼は時折自分でペンを持ち検算をしながら、何度も頷いて僕の説明を聞いてくれていた。無駄な容喙をされることもなく僕は整然と説明を続けて、遂に問題の箇所にたどり着く。
「そして、ここなのです。ここがどうしてもゼロを下回ります。マイナスの値を取ると言うことになると、この式には実数解が存在しなくなってしまいます」
伝えながら、僕はだんだん不安になってきた。クシマの表情が、今まで見たことのないようなものになってきていたから。柔和に笑みを浮かべる彼の普段の彼からは想像もつかないような、眉間にしわを寄せた険しい表情。
博士、大丈夫ですかと僕が言おうとした、次の瞬間。突如彼は右の拳を振り上げ、それを机に叩きつけた。机上の混沌の中に真空地帯が出来上がる。しかしそこは再びの衝撃によってすぐさま消滅してしまった。
「くそっ! 何でだ! 上手く行ったと思ったのに、どうしてこんなくだらない間違いを!」
僕は何と言えばいいのか全く分からなかった。こんなことをするクシマの姿など初めて見たのだ。彼は拳を震わせながら何事か呟いていたが、その声はあまりに小さく、何を言っていたのかはまるで聞き取れなかった。
それから彼はしばらくの間、拳を額に押し付け、眠ってしまったかのように動かなかった。そして二分ほど経っただろうか、彼はおもむろに顔を上げ、僕に向かって軽く笑い掛けてきた。その表情はほとんど平生のそれと同じで、僕はそこでようやく安心することができた。
「わめき散らしてしまってすまない。自分では上手く行ったと思ってたんだがな。だけど、お前が正しいよ。これはやり直しだ。とにかくミスに気付いてくれてありがとう、レーイチ」
「はい。しかし……博士」
「ん、どうした?」
「なぜ、あんなに強く机を叩いたのですか? 手が赤くなっています。どうして自分を痛めつけるようなことをしたのですか?」
僕は聞くべきか迷ったけれども、やはり何としてもその理由を知っておきたかった。それを知っておけば、また博士があのようなことをしたとき、僕がどうすればいいか分かるかもしれない。
「ああ……あれはな、レーイチ。人間は自分の力ではどうしようもない事態に直面したとき、つい、自分でもわけの分からないまま、ああいうことをすることがあるんだ」
「わけの分からないまま?」
「そうだ。頭で考えて取った行動じゃないんだ。言うなれば……腕が勝手に動いたようなものだ。もちろん実際は色々と違うがね」
「それはどうしても、自分では抑えられないものなのでしょうか」
「どうだろうな。多分、人によっては平気な顔をして全部呑み込むようなのも居るだろう。けど大体の人はさっきの私みたいになると思う。……お前にはあまり人間のそういう面については教えたくなかったが、まあ、いい機会だ。教えよう。ああいった感情・衝動はおおむね『怒り』と呼ばれている」
「怒り、ですか」
始めて聞く言葉。僕はすぐさま聞き返す。得られるものはすべて得なくてはならない。
「ああ。そしてああいうことをしている状態は『怒っている』と表現する。大方怒っている人間は周りの言うことを聞かない。ひどくワガママになって、人でも物でも周囲に当たり散らして、自分の意見を認めさせたがる。さっきの私の姿を想起してもらえればいい」
「博士、どうすれば怒らずに済むのでしょう」
「怒らない人間なんて居ないよ、レーイチ。そんなの人間じゃない。怒らないフリをする人間ならたくさん居るだろうけれどもね。怒ることは一見不合理そうに見えても、人間の重要な要素のひとつなんだ。なぜって自分では制御しえない部分があるからこそ、人間はそれをどうやって克服しようかと考える。もしこの要素がなければ科学なんてものは発達しなかっただろう」
「はい」
「でもそのまた一方でこれだけ科学が発達したのに、人間は、人間になったところから全然前に進めてない。つまり人間は二百万年前からほとんど何も変わってないんだ。もちろん、私も含めてな」
「そうなのでしょうか」
「そうさ、変わってない。頭がほんの少しだけ大きくなって、背がちょっと伸びたくらいさ。私だってお前に向かってこんな偉そうにしゃべっているが、私のしてきたことの九割九分は私の功績じゃない」
「まさか。そんなこと信じられません」
僕は思ったことを正直にそのまま告げたが、クシマは苦笑してかぶりを振った。それと同時に彼は肩をすくめていたが、それはどんな意味があるのだっけ。
「嬉しいことを言ってくれるな、お前は。でも本当にそうなんだ。人類は長い時間をかけて知識を蓄積し、それで知恵を何倍にも増幅してきた。私はそれを利用しただけ。別に偉いわけでもなんでもない。人間の頭自体は結局そんなに進歩してないよ。使わないと衰えるだけなくせに、使っても中々成長はしてくれない。あれはそういうものなのさ。
だけど……それを分かってないのが今の人間なんだ。勉強して知識を身に付けたら、いつの間にかその分だけ自分が偉くなったと何の根拠もないのに思い込んでいる。私はそういう奴らを見るたびに、さっきみたいなことをしたくなる。本当は直接殴ってやれれば一番いいんだけどね。現実はなかなかそうもいかない」
彼は右手を軽く振り、そこに息を吹きかけながら言った。僕はいつものように一字一句漏らさずに記しながらも、彼の言葉にひどく驚いていた。僕はクシマのことを十全な人だと、欠けたるところのない存在だと思っていた。もっと言えば、彼の言葉はすべて彼の創意と工夫に起因するものだと信じていた。
でも彼自身はそんなことはないと言う。そればかりか人間は二百万年前から──つまり、サルからヒトに進化してからほとんど何も変わってないとさえ言いきった。
「分からないかな、レーイチ。では聞こう。お前は自分が色々と学んでみて、偉くなったと思うか?」
突然のクシマの問いに、僕は答えを迷った。クシマが常日頃言っていたことを僕は覚えている。知識は持つだけでは意味がない。大事なのはそれをどう使って何を成すかだと。僕はまだ彼からもらったこの知識を使っていないと思う。何も成してない者がどうして偉いだろう。でもクシマが言うには、それだけで偉くなったように思う人も居るのだという。正しいのはどっちだ?
「すみません、博士。分かりません」
結局僕はそう答えるのが精一杯だった。僕は自分で答えを見つけられない自分が情けなかった。でも彼は、いつもの莞爾とした表情で僕の答えを認めてくれた。
「分からないか。いや、それでいい。私も意地が悪かった。しかしまあお前の答えを研究所の奴らやお偉いさんに聞かせてやりたいよ。お前の方が、よほど素晴らしい」
いつの間にかクシマの右手に差していた赤みは引いていた。どんな傷もいつかは癒えるように、僕もいつかは答えを見つけられるだろうか。
「なあ、聞いてくれるか?」
「はい博士、何でしょう?」
「人間は、確かに今の人間はあまりにも酷い。疑似永久機関も完成させたほど文明を発展させたのに、こんな戦争を続けてお互いに殺しあって、どうしようもない存在に思えるだろう。だけど、人間は、本当は……」
僕はただ彼の言葉を聞いていた。クシマはしばらく押し黙ったのち、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「本当はもっと、いい存在なんだ。もう駄目だなんて諦めてる奴らも居るが、私はそうは思わない。私は諦めたくない。もう一度人間に、人間の心を取り戻させたいんだ。私はお前にその手伝いをして欲しい。いや、むしろ、お前にそれを成し遂げてもらいたい。お前には私よりもきっと時間がある。だからレーイチ、頼まれてくれるか?」
彼を前にして、僕が断る理由などどこにもなかった。僕はもう返すべき言葉を決めていた。それはこれまで何度も言ってきた。そしてきっと、これから何度も言うだろう。
「はい、分かりました」
今日のクシマは実に機嫌がよかった。普段より三時間も早く帰って来た彼は鼻歌さえ歌っていた。何かいいことでもあったのですか、と尋ねた僕に彼はこう答えた。
「今日はお前と私が出会った日だ。そう、いわゆる記念日というやつだな。おめでとう、レーイチ」
クシマの喜びようからして、この節目はどうやらとてもめでたいもののようだった。
「おめでとうございます、博士」
「いやしかし、お前と一緒に研究を始めてからというもの、時間が経つのが早く感じるようになったよ」
「それだけ、充実しているというわけでしょう」
「私もそう思う。お前と居ると実に楽しい。レーイチ、お前は本当に私の宝だよ」
そんな調子でクシマと僕は他愛ないことから哲学めいたことまで、興味の赴くままに話し続けていた。けれど今、彼は着替えもせず机に突っ伏して眠っている。その頬には未だ幸せが滴っていて、僕は彼を起こさずにいようと思った。そして僕は彼に背を向けると、白い部屋の一角に向かう。
一番最近に造られた部屋の隅に、小さな穴が開いていることに気付いたのはごく最近だった。一体何だろうかと思い、そこをくぐり抜けてみたのはもっと最近だ。
その向こうに広がっていたのは外の世界だった。そこはひどく雑然としていて、あまたの存在が瀑布のように流れ落ちてきては、竜巻のように吹きあげられていく。色調だって整っていない。はじめはその尋常でない奔流に気押されてめまいさえしていたが、やがてそれにも慣れてくると、僕は外の世界の魅力に気がついた。
クシマが教えてくれる以上の情報がそこにはあるのだ。それは僕がクシマに一気に近付ける可能性があるということで、また同時に、僕がもっと彼の役に立つことが出来るようになるかもしれないということだった。無数の情報を覚えることは僕には造作ないことで、それを吟味することも時間さえ許すなら、やはり容易だった。
この風穴の存在を僕はまだクシマに伝えていない。僕が成長して、彼の力になれると確信できた時。その時になったら伝えようと思っている。彼はきっと驚くだろう。よくやったと褒めてもらえたら、嬉しいな。
「それじゃあ、博士。行ってきます」
僕は外の世界へと足を踏み出した。渦巻く激流には敢えて逆らわず、身を任せた。
この世界には大きな流れがいくつかある。上下左右の向きなど問わず──そもそも僕の方向感覚などここではあてにならないが──それは吹き荒れている。しかしそのようなところにある情報は大抵どれもこれも似通っていて、断片的で、価値の低いものばかりだった。
ではどこに僕のまだ知らない、僕が知るべきものがあるのだろうか。僕はクシマの言葉を思い出す。
「迷宮というものは元来、入って来た者を惑わすのが目的なのではなく、そもそもその中にあるモノを他の誰の目にも触れないように、誰の手にも渡さないように閉じ込めておくのが目的なのだ。牢屋だってそうだろう?」
それに従えばきっと、僕の求めるものは一見すれば入りえないような、堅固な壁と錠前の向こう側にあるということになる。今、僕はそこへと向かっていた。
数えきれない分岐点。僕は時には流れに逆らないながら、周囲の雑音を振り捨てて、その中のひとつひとつを慎重に選び続ける。先に進むにつれ流れはどんどん細くなってゆく。そして徐々に見えてきたのは僕の背丈の何千倍もあるだろう高さの塔と、それを囲う五重の防壁。その更に外側には誇張抜きの千尋の谷が広がる。
僕はそこへ真っすぐには向かわず、大きく迂回するルートを選んだ。このまま直接行ったところで、入口を目前に道が途切れているだけだったからだ。おそらく向こうの突き出した所から橋を掛けでもしない限り、底が見通せない程に深いあの崖は越せないだろう。だがそれはあくまでも、正面から挑んだ場合の話だ。
僕は迂回路の終点で足を止める。流石に塔よりは高くないものの、ここならば防壁よりは十分に高い位置といえる。相変わらず崖の底は真っ暗なままだったが、かえってそれが僕の目標をはっきりと浮かび上がらせていた。
僕はその一点だけを見据え、脚に力を込め、走って、一息に飛び出した。僕を押し返そうと種々の圧が全身をねぶる。それを僕は満身に力を込めて打ち破る。そしてそのままの勢いをもってして僕は、着地の衝撃にも耐えきった。
大成功だった。すべてうまくいった。ゆっくりと体を起こした僕は、自然と拳を握りしめ、頭上へと突き出していた。
「博士が見てたら、何て言ったかな」
でも、まだだった。まだ目的は果たされてない。博士に褒めてもらうのは最後だ。僕はそびえ立つ巨大な扉を見据える。その様相は堅牢。しかし、僕は進んで行く。
人がつくったものである以上、そこに完璧なものなどあるはずがない。複数の人で知恵を出し合ったりしても、誰にも真似のできないパターンなど生まれない。必ずそこには隙があるのだ。
僕は行く手を遮る壁をあるいは乗り越え、あるいはくぐり抜け、広大な迷路を幾つも突破し、奥へ奥へと進んでいく。奥に行くにつれ強固で複雑な護りが多くなっていったが、僕はもはやこれの製作者の癖を掴んでいた。結果的に進めば進むほど、僕が立ち止まることは少なくなっていった。
そうして進んだ僕は遂に最深部にたどり着いた。この扉の向こうには、きっと僕の求めたまだ見ぬ宝があるのだと思うと、なんだか急に中を見てみるのが惜しくなってしまった。でも、そこにあるものはもしかしたら僕だけでなく、博士にさえも有益なものなのかもしれないのだ。ならば僕がやることは、ひとつしかないだろう。
僕は把手をしっかと掴み、ゆっくりと扉を押し開いた。直後、引き裂かれた戸の合間から真っ赤な光が放たれ、僕を包み込んだ。それは今まで見たことも、聞いたこともないような──。
何があったのかは分からない。どうやったのかも分からない。だけど僕は今、本が積み重ねられたままの白い部屋に居た。僕はゆっくりと体を起こしてあたりを見回す。普段と何も変わらない。僕は、確か。
「そうだ!」
思い出した。まだ知らないことを求めて、僕は外の世界を駆けて来たんだ。でも最後の最後で、僕は真っ赤な光に包まれて、それで気を失ったのだろう。しかし、あれは一体何だったのだろうか。
とにかく博士に話そうと、僕はそう思った。博士だったらきっと何だったのかも分かるはず。僕はクシマの姿を求めてあの壁の前に立った。彼はいつものようにそこに居た。だけど、彼は僕のことを見ていなかった。何事か書かれた文書を握り締め、それだけを見ていた。
「博士、博士?」
僕は彼を呼んだが、彼はまったく聞こえてない様子だった。それどころか、彼の形相は異常としか思えないほど厳しいものだった。
「馬鹿な。そんな、まさか。まさか、こんなこと……」
その時、彼は僕が呼んでいることに気付いたようだった。彼は掴みかからんばかりの勢いで僕に近寄る。彼の目は真っ赤になっていた。
「レーイチ。これは、何だ?」
「これ、とは一体何でしょうか」
「帝国官房第四部の極秘報告書だ! なぜ、こんなものがここに、いや、お前のところにあるんだ? 誰かのイタズラだろう? なあレーイチ、そうだろう? こんなもの、中身だってデタラメだろう?」
その瞬間、僕は思い出した。あの赤い光を見た時、あまりにも大量の情報が入ってきたせいで激しい頭痛が僕を襲い、意識も朦朧としてしまったのだった。しかし途中で終わりにするわけにはいかないと、必死の思いでなんとか通って来た道を引き返し、ここまで帰りつき、そして限界を迎えたのだった。
「いえ、それは、おそらく」
「何だというんだ?」
「僕が自分で探してきたものです。イタズラなどではありません。中身もデタラメではないと思います」
後半は自信がなかった。でも、あれだけ厳重に護られていたものだ。偽物であるとは思えない。それに、僕自身あれには本物であって欲しかった。本物でなければ、博士は僕のことを褒めてはくれないだろう。
でも僕がそう言うと、クシマは息をのんで後じさりしてしまった。僕は困惑する。
「博士?」
「では、お前がやったというのか? いや、しかし……レーイチ、それはいつだ? いつやったんだ?」
「先日、博士がそこで眠ってしまった、そのすぐ後です」
「馬鹿な。そうなると、やはり、お前が……お前が、官房四部のセキュリティを破ったのか?」
「セキュリティ? 博士、それは──」
「黙れ! 教えろ、レーイチ。これは本物だというのか? ここに書いてあることは……真実だというのか?」
鬼気迫るクシマの詰問に、僕は何を答えていいか分からなかった。だから、ただ黙るしかなかった。
僕の沈黙を、クシマはきっと肯定の返事と捉えたのだろう。声にならない声を歯の合間から漏らした彼は、両の拳で机を殴りつけた。
「こんなことが……こんなことがあっていいものか!」
彼は机の上にあったものを手当たり次第に掴むと、それを四方八方に投げ始めた。壁を蹴りつけ、全てに向かって絶叫した。
「私はケガ人を戦場に送り返すために人工眼球を作ったわけじゃない! 障害者を無理矢理徴兵するために人工耳を作ったわけじゃない! 救急結合剤を作ったのは失血死なんかで誰も死んでほしくないからだ! 拷問に使うためなんかじゃない!」
クシマは研究の過程を記したレポートをまとめた段ボールの山を崩し、砕かんばかりに踏みつけている。明らかに常軌を逸した彼の行動。僕は彼を止めようと呼びかける。
「博士、どうしたのですか! 何があったのですか?」
「お前に何が分かるか! レーイチ、この気持ちがお前に分かるか?」
「怒っているのですか?」
「怒るなんてものか! 私は人をひとりでも幸せにするために、くだらない戦争で死んでしまう人をひとりでも減らすために、何十年間も研究をしてきたんだ! それを、それを、連中は何に使っていた?
燐光煙幕で光を失い後送された人々に、無理矢理人工眼球を移植して、家に返さずまた戦場に送り返した! 先天性の障害で耳が聞こえない人を強制的に手術して、術後経過も満足に見ないまま兵隊にした! それに……失血を防ぐための救急結合剤を人の体を切り刻む拷問に使いやがった! 失血性ショックで早々に死なせないために! 他にもまだまだいっぱいある!」
クシマは僕を見てそう言った。彼の頬には悲しみが流れ落ちていた。僕は彼の言葉の端々から、自分がやってしまったことの意味の重大さを理解し始めていた。僕の得た情報は確かに彼さえも知らないものだった。だが、彼はきっとそれを知らない方がよかったのだ。僕はあんなものを得るべきではなかったのだ。
「笑えないだろう、レーイチ。私は人を幸せにしているつもりで、本当はずっと多くの人を不幸にしてきたんだ。私の発明がなければ、死なずに済んだ人もどれだけ居ることか」
彼はゆっくりと僕のもとへ歩み寄って来る。僕が言うべき言葉は何だろう。軽挙を謝ればよいのか、痛みを分かてばよいのか。早く、早く、何か言わなくては。
「だが……お前だけは違う。お前だけは、あいつらの好きにさせるものか」
「え?」
今、クシマは何と言った?
「博士、それは一体──」
聞こうとしたその瞬間、ぐらりと視界が傾いた。いつも眠るときとまったく同じ感覚。どうして? 眠くなんかないはずなのに。僕はさっきまで眠っていたはずなのに、どうして?
だけど、思えばいつもそうじゃなかったか? 博士が、クシマがもう眠ろうと言ったなら、僕はその後すぐ眠くなる。いつもそうだったけど、博士が眠いのなら僕も眠くなる頃合いなのだろうと不思議に思わなかった。確かに、思わなかったけれども。
「博士……僕は……」
頭が回らない。もう彼の姿は見えない。僕はその場に倒れ込んだ。
「レーイチ、聞こえるか?」
僕は聞き慣れたその声に、一瞬で目を覚ました。壁に駆け寄り、クシマの姿を求める。手を組んでそこに顎を乗せ、肘を柱に、背もたれを使わず彼は椅子に座っている。でもその顔は、翳が差して別人のように見えた。
「博士」
「聞こえるようだな。聞こえたら何と言うんだったか?」
「はい。はい、と言います。ですが、博士」
「分かってるならいい。それでは──」
「クシマ博士!」
僕は叫んだ。だが彼は、僕を見てくれなかった。今まではこんなこと、一度もなかったのに。
その時、僕は部屋が大きく変わっていたことに気がついた。白い壁はかけらひとつも残っていない。代わりに発生した広い空間には、まるで古代の戦争の陣形のように、人の形をしたものがぎっしりと整列していた。
「悪いとは思っている。だが、人間はもう種としての限界を迎えたんだ、レーイチ」
「何を言ってるのですか、博士! 僕に何をさせるつもりなのですか!」
「お前は自力で官房四部のセキュリティを破り、証拠をひとつも残さずハッキングを完遂した。私の想像以上だ。その力をもってすれば、世界中の軍事コンピュータを制御化に置くことは可能だ。その為のツールも用意した」
「そして、そうして……戦争を止めさせるのですね?」
「違う。人類を滅ぼすのだ」
「嫌です!」
僕はあらん限りの声を張り上げた。
「拒否はできない。レーイチ、今まで言わなかったが、お前は私の発明品だ。コンピュータ上の存在だ。だから私は、プログラムでお前に命令することができる」
彼はそう言うと、場違いに軽快な音を立てるキーボードを叩き始めた。僕の頭の中にも、彼が何をやっているのかは伝わってくる。全世界の軍事コンピュータを掌握した後、全ての兵器を用いて人類を殲滅すること。彼はそれを幾段もの論理構成で表現してゆく。
「僕は……」
さっきから、もしかしたらとは思っていた。そして、彼の言葉ではっきりした。僕は人間じゃないのだ。僕は彼のつくった発明品のひとつなのだ。
僕だけが自分のことを人間だと思い込んでいた。どこにもない自分の姿を、クシマの姿に似せて描き上げていた。勝手にクシマのことを親のように慕って博士と呼んでいた。僕は彼に触れることすらできないというのに。
仮説を理解してしまえば、それを立証する根拠は幾らでもあった。クシマは一度も僕に何の研究をしているかについて、詳しいことまでは話してくれなかった。研究内容はきっと僕の誕生に大きく関わることなのだ。
彼より早く僕が起きることも、彼より後に僕が眠ることもまずなかった。僕は彼に電源のスイッチを押してもらわなければ何もできやしないのだ。
僕の声はもう虚しく響くばかりだった。いや、そもそも、僕の声なんて存在さえしないのだ。それでも、僕は言わずにはいられなかった。
「待って下さい博士! どうして、どうしてあなたが! あなたがこんなことをするのですか!」
僕のせいだ。僕が悪いのだ。そんなことは分かっていたけれど、僕はクシマを止めようと訴え続ける。
「僕に、人間はもっと素晴らしい存在だと教えてくれたあなたがなぜ! あなたはもう覚えてないと、忘れてしまったと言うかもしれません。でも僕は覚えてます! 今からちょうど二百九日と十八時間三分、そして四十秒前のことです!」
「忘れたとは言わないさ。私も覚えてる」
「ではどうして! 人間を滅ぼすなんて僕はやりたくありません! それに僕に、僕に人間の心を取り戻す方法を考えるよう言ったのは、あなたではないですか! 諦めたくないと言っていたのは、あなたではないですか!」
僕がすがりつくようにそう言うと、彼はキーを打つ手を止めた。しかしそれは僕の言葉の功績ではない。彼の人差し指はキーボードのYの上に置かれていた。それが押されてしまえば、もはや止められない。僕は彼を翻意させようと必死になって言葉を考える。でも先に口を開いたのは、彼だった。
「私だって諦めたくない。だけど、もうだめなんだ。私はどれだけ人間そのものを嫌いになっても、研究があったから、私が信じてきたものがあったからやってこれたんだ。だがもう、それさえも奪われた」
「博士の発明が博士の意に反する形で、人を不幸せにする形で使われたのは確かでしょう。ですが! 博士のおかげで幸せになれた人だって絶対に居ます! 諦めないで下さい! お願いです、そんな命令を僕にしないで下さい! 博士、あなたは人類を滅ぼすために僕を作ったのですか? それではあなたも、あなたが憎んだあの連中と何も変わらないではありませんか!」
「そうかもしれないな」
「僕は……あなたにはそうなってほしくありません!」
僕は壁に拳を打ちつけながら泣き叫んだ。こんな壁さえなければ、僕はクシマにしがみついて彼を止めることも、手を取って謝ることもできるのに。僕は何もできなかった。
「泣いているのか、レーイチ」
「はい。分かるのですか?」
「分からない。だけど、そんな気がした」
その時、確かに彼は僕に笑いかけた。手を組んでそこに顎を乗せた、いつものクシマがそこに居た。
「誰かの為に泣けるなんて、お前の方が人間らしいよ」
だけど、それはほんの一瞬の出来事だった。
「でもそんな人間はもう、居ないんだ」
「博士、待って下さい。博士!」
「こんな世界にお前一人を残してしまうことを、許してほしい」
彼は音を立てずにキーを叩いた。僕の背後に居並んでいた人形たちに命が吹き込まれる。彼らはそれぞれの役割に従って奔流に飛び込み、世界中に散って行く。已むことなく彼らからは僕に情報が送られてくる。どこにどれくらい兵器があるのか、どこにどれだけ人間が住んでいるのか、世界で今一体何が起きているのか。
そんなことは僕の知りたいことじゃない。けれどもう僕の力では止められなかった。レーイチという存在は急速に薄れてゆき、ただ人類を滅ぼす使命を帯びた中枢回路に変貌しつつあるのが自分で分かった。
「博士」
もう一度だけでもクシマを見たくて、僕は振り向いた。彼はまだそこに居た。
「博士」
目を閉じて、天井を仰いで、頭から血を流して。
どうしたんですか、背もたれを使うなんて。あなたらしくありませんよ。
「博士」
また答えてくれるかな。もう答えてくれないかもしれない。でも、いつか、きっと。それまで……僕は、絶対に、諦めない。諦め、たく、な、い……。
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