君ガ忘レタ物語1.ある一組の夫婦に捧げる哀悼歌
彼女と初めて会ったのは、互いが生まれた時。
彼女と初めて言葉を交わしたのは、互いが言葉を覚えた時。
彼女とカインは幼馴染で、明日も、明後日も、一ヵ月後も、一年後も、死が二人を分かつまで、ずっとずっと日々を積み重ねて共に在るのだと疑いもしなかった。
―――そう、都の神殿の使いが、カインを自国の守護神の寵愛者だと迎えに来るまでは。
「誰が都になんて行くものか! 寵愛者なんて知った事じゃない!! 僕はこの地に、妻と一緒に骨を埋めるって決めてるんだっ!!!」
カインはつい先程まで神官達が立っていた玄関先に盛大に塩を撒きながら、唾棄するが如く吐き捨てた。
神官達はやたら高圧的で、いけ好かない奴等だった。女神に寵愛される事が然も誉れのようにのたまって、「身に余る光栄に感謝しろ」と態度や言葉使いが誇示していた。此方はそんなモノ有難くも何とも無いのに。
だが、それより何よりむかついたのは、彼らの妻を見る視線だった。心配そうに見守る妻の肩を抱き寄せ、神官達の言葉に拒絶の態度を示すカインを見た彼等は、まるで人心を惑わす淫魔でも見るような嫌悪の眼差しを妻に向けた。「お前さえいなければ全て上手くいくのに」とその瞳が語っていて、その場で殴りかからなかった己を褒めてやりたい。
「カイン……」
傍らに佇む妻が、そっとカインの腕に片手を触れる。少し冷たい彼女の体温は、怒りに熱くなった身体に心地良い。
今目の前にいるこの心が望んだ己だけの愛しい『女神』と、自分の感情など無視して隷属同然の立場を強いる女神とを比べれば、どちらに軍配が上がるかなど今更考えるまでも無い事だ。
「君とずっとこのままいられれば、それでいい」
細い華奢な身体を抱き締め、その肩口に顔を埋める。妻からはいつも暖かな日溜りの匂いがした。優しい、心安らぐ、愛しい女【ひと】の香り。
彼女と共に生きるためなら神の意志に背くくらい何でもなかった。彼の想いに応えるかのように、背に柔らかな感触が回され確りと抱き返される。幼い頃から当たり前に傍に在った温もりを、今日は今まで以上に掛け替え無く感じる。
腕の中の誰より愛しいヒト。
「何で、許されないんだ……」
そんなに大それた望みなのか? 今まで通り、この静かな山村で大切な妻と共に時を過ごしたいと願うのは。
厄介極まりない事に、神官どもを手足のように操る嫉妬深い女に、自分は大層気に入られてしまったようだ。逃げるようで悔しい気もするが、いっそ妻と二人、この国を出て余所へ行こうか?
「ねえ」
「何?」
不意に、腕の中から愛しい女【ひと】の声が聞えてきた。ぎゅっとしがみ付く両手に力が篭る。何故か漠然とした不安が胸を覆い、カインもまた抱き締める力を少しだけ増した。
どうしてだろう。これ以上彼女の言葉を聞いてはいけない気がする。何か取り返しのつかない事が起こりそうな―――
それでも、唇は無意識のうちに呼びかけに応えを返していた。
「幸せでいてね」
「何? 行き成り」
カインの胸に顔を伏せたままポツリと呟かれた声は、今にも風に掻き消えそうだった。
此方の顔も見ずに告げられた言葉に、眉を潜める。何か変だ。言葉だけを捉えるなら、それは未来を語っていた。だが、その言い方では、その未来に在るべき存在が含まれていない。
靄の如く胸中を漂っていた不安が、少しずつ、確実に形を持ち始める。安堵に霧散して欲しいのに。
「貴方が幸せだと私が嬉しいから」
なのに、妻が言葉を紡ぐたびに、より大きく、より深く、より密度を増していく。漠然と漂って触れる事も叶わなかった黒い靄が、寄り集まり、固体となって胸の中に重く沈み始める。
何かを振り払いたくて、思わず妻の肩口から顔を上げたカインの視線と、何かを思い切るように、カインの胸から顔を上げた妻の視線が交わった。
「貴方が幸せだと嬉しいの。それって、私が貴方を愛してる、って事よ」
だから、幸せでいてね。
何処までも透明に微笑んだ彼女は、これから己に降りかかる未来を予見していたのだろうか―――
数日後、カインの必死の抵抗も虚しく二人は神殿の兵士に捕らえられ、妻は女神の寵愛者の心を惑わず淫魔として衆人環視のもと火刑に処された。
「離せっ! 離せよっ!! 離せって言ってるだろっ!!!」
屈強な兵士達に拘束されながらも必死に暴れ叫ぶカインの耳に、愛しい女の声が届いた。
「カイン……どうか恨まないで」
決して大きくは無い声は、炎の巻き起こす風に煽られながらも掻き消される事なく、カインの鼓膜を揺らした。
「どうなるかなんて分かっていた。でも、それでも、最期まで貴方の傍に居たいと願ったのは、私の最後の我侭」
恨みも憎しみも無い透明な声が、ただただ静かに処刑場に響き渡る。
「お願い。どうか、ただこの国に住んでいたという人々まで憎むような事はしないで」
激しく燃え盛る炎の中、ふわりと、それは優しく柔らかく微笑を浮かべ。
「愛してるわ、カイン」
そして、最後の愛の言葉を残し、愛しい女は炎の中に消えていった―――
「うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」
カインの中に眠っていた何か大きな力が暴走したのは、彼が愛した唯一の女を焼く炎が燃え尽きた直後だった。
右掌を起点に爆破的な勢いで蔓植物にも似た紅い痣が右腕を、右半身を、顔の右半分を覆うと同時に、屈強の兵士達に身柄を拘束され、幾重もの封具に雁字搦めに縛られていたにも関わらず、カインは全ての枷を〈喰らい〉尽して一直線に女神に襲い掛かった。
「殺してやる! 殺してヤル!! 殺シテヤル!!!」
瞬く間に間合いを詰めたカインの手刀が、咄嗟の事態に隙だらけだった女神の胸を貫いた。
「滅びろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
「なっ!!?」
直ぐに我に返った女神がカインの手を払い退けようとした時には、何もかもが手遅れだった。己の欲望に走った女神は、己が決して目覚めさせてはならないモノを目覚めさせてしまった事を遅まきながら悟らざる終えなかった。
それは不可思議で奇妙で恐ろしい、誰もが目を疑う光景だった。
女神の胸を貫いたカインの右手から女神の身体にまで紅い痣が浸食し、覆われた端から崩壊し、消滅していく。紅い痣は女神の崩壊が進むにつれ咀嚼するかの如く蠢き、貪欲に全てを〈喰らい〉尽くしていった。
「カ、イン……っ」
紅い痣に全身を覆われ、跡形も無く消え失せていく女神と、怒りと憎しみに染まったカインの視線が絡まった。
「……っ」
最早殆どが崩壊し、残すは頭部のみとなった女神が微かに唇を震わる。しかし、声になる事は無く、叶わぬ想いを請う眼差しを湛えたまま、女神の頭部も虚空に消え失せた。
「っああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
周囲の空間さえ覆っていた紅い痣が、植物の成長を巻き戻すように右掌に消えていった次の瞬間、カインの背に漆黒の翼が翻った。
人間で溢れていた処刑場は今やシンと静まり返り、俯き拳をきつく握り締める青年の背中に幾つもの怯えの視線が突き刺さる。そんな人々に一切構わず、カインは背に負った黒翼をバサリと羽ばたかせた。真っ直ぐ処刑台の下へ舞い降り、燃え尽きた妻の遺骸を抱き締め無言で飛び立った。
やがて、高い空の彼方から言葉にならない慟哭の声が、長く長く国中に響き渡った。
その深すぎる嘆きは喰らった神の力を帯びて降り注ぎ、ほぼ全ての人間が過ぎる悲しみに狂わされ、狂った人々は次々に周囲を巻き込んで自滅していく。
それは、南大陸そのものの崩壊の始まりだった―――