覚書4.白百合に捧ぐ
―――カツコツ、カツコツ。
―――カツコツ、カツコツ。
―――カツコツ、カツコツ。
―――カツコツ、カツ。
「お久しぶりです。今年も会いに参りました」
両腕に抱えてもなお余る大きな大きな花束を抱え、そっと片膝を折る。
浮かぶのは様々な感情が入り混じった深い深い微笑。
「貴女の大好きな白百合の花束を持って」
彼女が好む雄蕊が付いたままの白百合。
目を閉じ、そっとその清らかな香りを吸い込めば、彼女の声が鮮やかに甦る。
―――この白い花びらと花粉の黄色の対比がいいんじゃない。取り除くなんて邪道よっ―――
彼女の言葉は、今でも何一つ薄れることなく覚えている。
いつでも、想い寄せれば直ぐに、色鮮やかに甦る。
薄れることなき記憶。
何より尊い綺羅星の如き愛しい思い出。
鮮明に、鮮烈に、この心捉えて放さない、なんて鮮やかなあの日々。
朽ちることなく咲き誇る、大切な想いの欠片たち。
「貴女との約束どおり、ちゃんと雄蕊が付いたままのです。苦労したんですよ? 何処の花屋さんでもあらかじめ摘んであるところばかりで。花を卸している農家にまで直接足を運んだんですよ?」
―――あら。この私の為になら、例え火の中水の中、なんでしょう?―――
ああ、なんて彼女らしい。
それでも、その物言いに腹が立つどころか、自分限定の我侭になお一層可愛らしく感じるのだ。
くすくす。
くすくす。
俯いてとてもとても楽しげに笑みを零す。
一頻り笑った後、そっと面を上げる。
「ああ、本当に。貴女を想うたび、僕はあの頃から変わらず貴女が大好きなのだと再認識してばかりです」
ただただ、深く深く微笑み、そっと手を指し伸ばす。
最後に会った時と変わらぬ、冷たく滑らかな感触。
「今でも変わらず、貴女を愛しています、リーリエ」
醒めたその面に唇を寄せ、物言わぬ冷たい石碑に静かに口づけた。
君の笑顔を覚えている。
―――ギィ。
重い扉を押し開ければ、人気の無い冷えた空気が隙間から零れ出た。天井の一部に嵌め込まれた幾何学模様の色硝子が、薄っすら埃の舞う空気を染め、床に美しい模様を描き出している。
此処が今日から僕が住まい、勤めを行っていく場所。
一歩一歩踏みしめるように足を踏み出す。きょろきょろと周囲を見回しながら祭壇まで歩み寄れば、意外に綺麗に掃除が行き届いた様子に軽く目を見張った。
「床を全部掃除するのは大変だけど、祭壇だけならそうでもないから、かな?」
祭壇の隅に置かれた白い陶器の花瓶には少し萎れかけた花が飾られていて、頻繁に出入りして世話してくれている存在を教えてくれる。
―――ギィィ。
花を飾ってくれていた人物を想って、微笑みながら指先で触れていたら、背後で重い扉が開く音がした。ゆっくりと振り向き、外の明るさに目が眩んで瞬く。
「あら、貴方が新しい神官様?」
光の中に浮かび上がる影が年頃の娘の声を発し微笑む。
綺麗な綺麗な歌うような声。
「は、ははははいっ。えっと、あの、カインと言いますっ。宜しくお願いしますっっ」
思わず聞き惚れて、慌てて挨拶を返したらどもってしまって赤面する。
そんな僕に彼女はくすくす微笑みながら軽やかに歩み寄ってきた。
「私は近所に住んでるリーリエ。よく賛美歌を弾かせて貰ってたの。宜しくね」
光の中で微笑む彼女は本当に綺麗で。
僕はこの瞬間、自分が恋に落ちたことを知った。
君の怒りを覚えている。
出会いからずっと、頻繁に顔を出してくれるリーリエの存在は、もう僕には無くては成らないもので。
だから、その彼女が冷たい秋雨に濡れて熱を出したなんて事になれば、酷く取り乱し自分の事なんてそっちのけで看病に当たるなんて当たり前で。
結果、一緒に雨に濡れていた僕は、彼女以上に酷い熱を出して倒れる羽目になった。
そして、僕は、真剣に怒った彼女にこっ酷く怒られた。
「今、生きている事が当たり前だと思う? この心臓の鼓動も、無意識に繰返す呼吸も、当然だと思ってる? だったら、二度と私の前に現れないで。生きている事を必然だなんて思ってる傲慢な人間は嫌いなの」
本当に本当に容赦なく叱り飛ばされて、僕は反省するよりも反発を覚えた。
(なにも、風邪如きでこんなに怒らなくても良いじゃないか)
でも、本気で心配して怒っているのも分かるので、文句は口にせず大人しくしていた。
そんな僕が心底反省したのは数日後、定例礼拝に訪れた村人と風邪の話題で世間話をした時。
僕は彼女の怒りの理由を知り、思わずその場にしゃがみ込んで己を叱り飛ばしたくなった。
彼女の両親が風邪を拗らせて亡くなったこと。
彼女自身も生まれつき身体が弱いこと。
僕は母神を信仰する神殿に仕える身でありながら、我知らず命を軽んじる行動をとってしまっていたのだ。
そして、それは命の重みを誰より知っている彼女の逆鱗に触れた。
僕はぎゅっと両手を組み合わせ、もう二度と同じ過ちは繰り返すまいと誓った。
大切な彼女を悲しませないために。
君の涙を覚えている。
彼女と出会って季節が一つ廻ったある日、彼女が胸を押さえて倒れた。
真っ青になった僕は彼女を神殿内の長椅子に寝かせ、上着で包み込むと急いで村医者を呼びに走った。
生まれてから今までこんなに全力で走ったことは無いんじゃないかってくらい全力で駆けて、老医者を背負って丘の上の神殿まで火事場の馬鹿力で走り抜けた。
この時ほど、丘の上なんて立地条件に殺意を覚えたことは無い。
戻ってみれば彼女は憔悴した顔ながら椅子に腰掛けて待っていて、心配して寝ているよう促す僕と老医者の言葉にも大丈夫だと微笑んだ。
「大丈夫よ。珍しくないことだもの。大丈夫。自分でちゃんと分かってるから」
老医師の診察さえ断ろうとした彼女を二人で説き伏せ、簡単な診察と薬を処方して老医師は心配しながら帰っていった。
その後も彼女は変わらず笑顔で、だから、僕は彼女はとても強い人なのだと錯覚してしまっていたのだ。
彼女が血を吐いた。
赤い、紅い、血を吐いた。
なのに、彼女は医者を呼びに行こうとする僕を拒み。
それでも、気丈に笑おうとするから。
だから、僕はその全てが虚勢なのだと気づいてしまった。
「どうして無理して笑おうとするんですか!! 怖いなら怖いと言えば良いでしょう!!?」
「怖いわよっ! 怖いに決まってるじゃないっ!!」
血で汚れた両手を握りしめ、俯いたまま彼女は震える声を絞り出した。
細い小さな肩が嗚咽に震える様を見て、僕は今更、彼女だって、弱さも脆さもある一人の女の子だったのだと気づかされた。
どうして、もっと早く気づいてやれなかったのだろう。
「私は今直ぐにでも、何一つ自分が生きた証を残せず死んで行くかもしれないっ。いつか誰もが忘れて初めからいなかったも同然になるのかもしれないっ。そんなの、怖いに決まってるじゃないっっ!!」
涙混じりの台詞を搾り出すように告げ、彼女は血に濡れた両手で自分の身体を抱きしめた。
そんな彼女を、小さな小さな一人の弱くて脆い女の子を、僕は大切に大切に抱きしめるしかできなかった。
君の願いを覚えている。
それは彼女が何度目に血を吐いた時だっただろう。
怖くて、回数なんて数えていられなかった。
だんだん間隔が短くなっていくのなんて、自覚したくなかった。
「わたしっ、を、忘れない、でっ」
白い頬をぽろぽろ涙が伝っていく。
「わたしをっ、おぼえていてっ」
冷たい床に、彼女の温かな涙がぽつぽつと落ちていく。
「忘れられるのは、淋しいよぅ」
ぎゅぅっと握られた黒い神官服に皺が寄り、伏せられた肩に濡れた感触が広がっていく。
なんて、なんて、愛おしいひと。
どうして、彼女を忘れられる?
どうして、この想いを忘れられる?
どうして、僕が君を忘れられるなんて思うの?
「覚えています、リーリエ。忘れるわけが無いでしょう」
忘れられるわけが無い。
僕は、君ほど恋した人なんていない。
「貴女が好きです、リーリエ」
涙に濡れた宝石みたいに綺麗な彼女の瞳を見つめ、そっと告げる。
彼女は驚きに目を見張り、でも、頬に触れる僕の手のひらにそっと双眸を閉じた。
そして、僕らは生まれて初めての口づけを交わした。
君の微笑みを覚えている。
彼女が最後に倒れたのは冬の始まり。
それ以来、彼女は床から起き上がれなくなった。
だんだん細くなっていく身体。
だんだん深くなっていく眠り。
だんだん、間隔が無くなっていく吐血。
怖くて、怖くて。
彼女も僕も怖くて。
それなのに。
それだから。
彼女は、微笑む。
とてもとても綺麗に微笑む。
「また、逢えたらいいね」
聖誕祭を間近に控えた夜、彼女が柔らかく微笑んで告げた。
僕の左手を細い指が絡め取る。
誓約の左。運命神でもある時女神に誓う手。
ほとんど骨と皮だけになった細い細い指を壊さないよう、でも精一杯の力を込めて握り返す。
必死で否定して。
でも、もう目を逸らすなんてできなくて。
だって、もう、彼女は。
「また、きっとまた、何処かで」
彼女が微笑む。
とてもとても綺麗に微笑む。
僕は、彼女に上手く笑い返せているだろうか。
せめて、彼女を笑って見送ってあげられているだろうか。
長い長い魂の旅路に発つ彼女に、最後にとびきりの笑顔を向けられている?
「また、あなたに、逢いたい―――」
か細い彼女の声を一言だって聞き漏らさないように耳を澄ます。
細い体を抱きしめ、こけた頬に頬を寄せて、冷たくなっていく身体にせめて温もりを分け与えられたなら。
「私の、私だけの、神官様【カイン】」
彼女が、微笑む。
今まで見た中で一番綺麗に。
ふわりと微笑み、目を、閉じた。
君を失った夜の凍える静けさを覚えている。
「もしもこの背に翼があったなら」
ずっと胸の中で鳴り響き続ける元気だった頃の彼女が弾いてくれた鍵盤楽器の旋律に乗せて、少しずつ認【したた】めていた言葉を紡ぐ。
夏の終わりから彼女に内緒でちょっとずつ。
聖夜の礼拝を終えた後、二人きりの聖誕祭で驚かしてやろうと。
大きな大きな白百合の花束と、想いの丈を込めた言葉を彼女に。
「今すぐ君の元へ飛んでいくよ」
聖誕祭の礼拝客が途絶えた神殿で、祭壇の前に跪き囁くように歌う。
祭壇の隅の花瓶には、彼女が好きだった白百合の花。
清らかな香りと有りっ丈の想いを込めた歌声が、旅路の途中の彼女に届くと良いと願いながら。
「雲も星も天【そら】も超えて いつだって君の目の前に降りたとう」
本当に好きだった。
出会った時から大好きだった。
一目惚れだったんだ。
光の中で笑う彼女に、僕は一目で恋に落ちた。
「ねぇ だから もう泣かないで ねぇ だから どうか微笑んで?」
泣いていると悲しくて。
笑ってくれると嬉しかった。
「君の涙も 哀しい強さも 僕が全部覚えている」
忘れない。
絶対に忘れないよ。
だって、忘れられるはずが無い。
僕が、彼女を忘れるなんて有り得ない。
「きっと全部覚えている」
どんな些細な出来事も。
当たり前に交わした挨拶の言葉の一言一言まで。
この胸の想いと一緒にいつまでも覚えている。
「もしもこの背に翼があったなら 君がいるところ何処へでも飛んでいくよ」
そう、今すぐに、飛んでいこう。
僕は自覚していた以上に、彼女のいない世界に耐えられなかったから。
あまりにも当たり前だった彼女がいる隣に、冷たい隙間風が吹き過ぎていく現実に耐えられなかったから。
だから。
「そう きっと この背に翼がなくたって 必ず辿り着いて見せるから」
何処か、此処ではない何処かを旅する愛しい人よ。
僕は君を必死で追いかけるよ。
君が居る場所が、僕が生きれる場所なんだ。
君なしでは、僕は息をすることさえできないんだ。
「ねぇ だから もう独りだなんて言わないで」
もう、泣かないで。
「ねぇ きっと僕が傍にいるから」
もう、そんな寂しい涙は流さないで。
「愛しい僕の白百合【リーリエ】」
僕は、君が大好きです。
「リーリエ、今、君の元に行くよ」
きっと君にはとても怒られるだろう。
命を粗末にする真似をして、きっとこっ酷く叱られる。
嫌われてしまうかもしれない。
でも、ごめんね。
僕は、君なしでは生きられなかった。
ふわり、と。
とてもとても幸せな笑みを浮かべて。
凍える夜気の中、静かに瞼を閉じた。
二度と覚めぬ眠りを迎え入れる為に。
「目覚めよ、神官カイン」
?
誰だ?
僕を呼んでいる?
「全く、神官が自殺など嘆かわしい」
ぴくりと瞼が震える。
ゆっくりと目を開く。
此処は何処だろう。
「神官カイン。己が業を背負いて再び生きよ」
今まで聞いたことの無い、深く心に響く重厚な声。
身体の端々に感じる違和感。
無意識に手のひらを眼前に掲げれば、それは明らかに細く小さくなっていて。
最たる違和感をもたらす背に意識を寄せれば、不意に大きな羽音が空気を叩いた。
「死天使となり、その罪贖うがいい」
そして。
僕は、漆黒の両翼を得た―――
「君の涙も 哀しい強さも」
小さく小さく口ずさむ。
あの聖なる夜、君に贈るはずだった一世一代の求婚歌【ラヴ・ソング】。
「僕が全部覚えている」
この先、もし万が一別の誰かを恋したとしても。
この恋以上の恋はできない。
「忘れないよ 愛しい僕の白百合【リーリエ】」
物言わぬ冷たき石の面に繰り返し。
聖なる夜に、君に白百合と口づけの花束を。