覚書2.老婦人と少年
―――私もそろそろかしらね。
二人用の寝台に独りで横たわるのにもすっかり慣れてしまった。
決して広くは無い部屋に大きな寝台を置いても場所を取るだけなのに、あまりに思い出深くてどうしても手放せなかった。この寝台はこの家に二人で暮らすようになった時に、あの人と一緒に選んだ品だから。
ふふふ、それにしても今年の聖誕祭は本当に楽しかった。
一年ぶりに娘夫婦が孫達と一緒に帰ってきて、あの子達が賛美歌を歌ってくれて、娘が腕によりをかけて料理を作ってくれて、娘の夫もガタのきていたあちこちを修理してくれて。
本当に、とても楽しかった。
―――これで隣にあの人が居てくれたら、なんて思ってしまうほどに。
私も随分歳を取ったのね。こんなに何かに付けてあの人のことばかり思い出すなんて。
あの人を亡くしたばかりの頃はただただがむしゃらで、娘と自分を生かすので精一杯だった。ううん、娘がいたから自分を生かす事ができた。
あの時、私の中にあの人の最後の贈物がいなかったら、私は今こうして生きてはいなかったわね。
私の隣から居なくなった後も、あの人はいつだって私を支えてくれた。
あの人にそっくりの娘の笑顔を見るたびに、私は癒された。幸せになれた。
ありがとう、貴方。私に娘を残してくれて。
あの子がいたから、私は貴方の居ない世界で、それでも笑って生きられた。
貴方はもう新しい命に生まれ変わってしまっているかしら?
生きていればもしかしてもう一度会えるかも、なんて少しだけ期待していたけれど、結局「この人だ」って相手には会わなかったわね。それが、少しだけ残念。
ああ、本当に今夜は良い夜だったわ。これで隣に貴方がいたら言う事はなかったのに。
本当に、残念ね―――
―――バサバサっ。
何の音かしら?
こんな夜更けに羽音なんて、梟かしら。
―――キィ。カタン。
「こんばんわ、レディ」
まあ、あなたどうやって此処に入ってきたの? 此処は2階よ?
「もちろん、自前の翼で。
約束も無しに深夜の突然の来訪をお許しください、レディ」
あらあら、随分紳士な少年ね。
貴婦人【レディ】だなんて、こんなしわしわのお婆ちゃんには似合わないわ。レディなんて、若く美しい貴婦人にこそ相応しい呼び名よ。
「いいえ、レディ。貴女はとても美しい。
貴女の喜びも、哀しみも、希望も、絶望も、愛しさも、切なさも、祈りも、願いも、想いも、愛【かな】しみも、その全てが稀有なる宝珠のように美しいのです。その生き様そのものが、そうやって磨かれてきた魂そのものが、類稀なる宝石の如く美しいのです」
まあまあ、こんなお婆ちゃん相手に勿体ない褒め言葉ね。
ありがとう、小さな紳士さん【リトル・ミスター】。嬉しいわ。
ねぇ?
もしかして、あなたは『お迎え』なのかしら?
「はい、レディ。
貴女さえ宜しければ、僕に貴女のエスコートをさせていただけませんか?
貴女の隣に並ぶにはまだまだ未熟な僕ですが、それでもお許しいただけるなら、どうぞこの手をお取りください」
まあ、こんなにご丁寧な挨拶をされたのは初めてじゃないかしら。
あなたこそこんなお婆ちゃんで良ければ、腕を貸していただけるかしら?
「喜んで、レディ」
ふふふ、こんな素敵な紳士にエスコートされるなんて、なんだかお姫様になった気分だわ。
「それは光栄です。僕も貴女のような素敵な方を案内できるなんて、とても幸せです」
あらあら、お上手ね。
そういう甘い台詞は恋人に言うものよ。
「貴女の恋人は甘い台詞を言ってくれる方だったのですか?」
あの人? あの人は照れ屋で口下手で、プロポーズの時でさえ、ちっとも甘くなかったわ。
でも、でもね。
どんなにそっけない台詞でも、あの人の精一杯の気持ちがこもった言葉は、どんな美辞麗句よりもずっとずっと甘かったわ。
「一等特別な方だからこそ、何よりも甘いのでしょうね」
ええ、そうね。
「もう一度、お聞きになりたいですか?」
もちろん。
もし叶うなら、叶う事なら、最期にもう一度あの人に会いたい―――
「レディ、僕の案内は此処までです。
この河の向こう岸からは彼が案内いたします」
道案内ありがとうリトル・ミスター。おかげで迷わずに来れたわ。
私は覚えていられないけれど、またいつか会いましょうね。
「ええ、またいつか。
貴方が次の生を終えられる時にまたお迎えにあがります」
ふふふ、宜しくね。
それで、あなたが次ぎの道案内さん?
え?
え、貴方は―――
まあまあまあ……貴方―――
ああ、どうしましょう。
私だけすっかりお婆ちゃんになってしまったわ。
もう隣に並んでも釣りあわないわね。
「いいえ、レディ。よくご覧になってください」
え?
どうして?
私、どうして若返ってるの?
「貴方はもう魂だけの存在ですから、肉体の姿形には囚われません。
麗しきレディ。どうぞ僕からの贈物をお受け取りください。
美しき貴女に、愛しい方との安らかな一時を。お二人が次の生を迎えられるまで」
まあまあまあ……
ああ、ありがとう。
こんな嬉しい聖誕祭の贈り物、彼が贈ってくれた指輪の次に嬉しいわ。
貴方も、こんなところでずっと待っていてくれたのね。
―――ずっと見守ってくれていたのね。
ああ、嬉しいわ。
本当に、本当に、嬉しい―――
聖誕祭の翌朝。
一年ぶりに実家に帰った娘とその家族は、左手の薬指を亡き夫から贈られた指輪で飾り、とても安らかな表情で永遠の眠りについている母親を前に静かに涙を零した。