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『白薔薇が咲くまで』

婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください

作者: 白昼夢
掲載日:2026/08/10

誤字報告ありがとうございます。助かります。



「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」  


そう言った私に、アルベール様は眉をひそめた。


王都でも名の知れた薔薇園。その中央で、彼は私に告げた。


「フィオナ。君との婚約を、なかったことにしたい」


私は手にしていた白薔薇を一輪、そっと籠へ戻した。


「……そうですか」


「驚かないのか?」


「驚いております」


「そうは見えないな」


アルベール様は不満そうに眉を寄せた。

けれど、仕方がない。

私は今日まで、何度も同じ言葉を想像してきたのだから。

婚約者であるアルベール様が、別の女性を愛している。



それを知ったのは、もう半年も前のことだった。

お相手は、伯爵令嬢のミレイユ様。

美しく、明るく、誰からも愛される女性だった。

私とは正反対だ。

私は地味で、口数が少なく、社交も得意ではない。

それでも侯爵令嬢として恥ずかしくないように、毎日努力してきた。

アルベール様の好みに合わせて髪を伸ばした。

好きだと言っていた色のドレスを選んだ。

苦手だった刺繍も練習した。

彼の領地で必要だと聞けば、領地経営の本を読み漁った。

体調を崩しても、婚約者としての務めを休まなかった。


けれど。

それらは全部、アルベール様にとって「当然」のことだったらしい。


「ミレイユは、僕を理解してくれる」


そう言って、アルベール様は微笑んだ。


「君とは違うんだ」


私は静かに頷いた。


「はい」


「だから、君には婚約を解消してほしい」


「承知しました」


「……本当に、それだけ?」


アルベール様が怪訝そうに私を見る。

私は微笑んだ。


「はい。それだけです」


「泣かないのか?」


「泣いてほしいのですか?」


「いや……そういう意味では」


「でしたら、どうぞご安心ください」


私は籠を持ち上げた。

そして、彼をまっすぐ見つめる。


「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」


アルベール様は何も言わなかった。


「私はもう、あなたに選ばれるために生きることをやめます」


「フィオナ……」


「ミレイユ様と、どうぞお幸せに」


そう言って、私はその場を去った。

振り返らなかった。




屋敷に戻ると、父が待っていた。


「……聞いた」


「はい」


「本当に、それでよかったのか」


父の声は低かった。

怒っているのだろう。

私にではない。

きっと、アルベール様に。


「はい」


「フィオナ。お前は、あの男が好きだっただろう」


「好きでした」


過去形にすると、胸の奥が少し痛んだ。

けれど、不思議なほど涙は出なかった。


「では、なぜ止めなかった」


「止めたところで、好きな人のところへ行きたい方を縛ることはできません」


父はしばらく黙っていた。

やがて、小さく息を吐く。


「……お前は、昔からそうだな」


「何がでしょう?」


「自分が傷ついても、相手の都合を優先する」


私は答えられなかった。

父は私の頭を撫でた。


「もういい」


「お父様?」


「婚約解消の手続きは私がする。お前はしばらく何も考えず休め」


「でも……」


「いいんだ」


父の手が、わずかに震えていた。


「娘一人幸せにできない父親だと思われたくない」


その言葉を聞いた瞬間。

張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。


「……お父様」


初めて涙がこぼれた。

父は何も言わず、ただ私の頭を撫で続けてくれた。





それから三か月。


私の生活は、驚くほど静かになった。

婚約者のために予定を空ける必要はない。

社交界で彼の隣に立つ必要もない。

毎朝、彼の領地から届く報告書を読んでいた時間は、自分のための勉強に変わった。

私は以前から興味があった植物学を学ぶことにした。

侯爵家の離れにある小さな温室を譲ってもらい、薬草を育て始めた。

最初は何もわからなかった。

水をやりすぎて枯らした。

日当たりを間違えて枯らした。

肥料を与えすぎて枯らした。

失敗するたびに落ち込んだ。

それでも、楽しかった。

植物は、努力した分だけ少しずつ応えてくれる。

人間とは違う。

そんなある日。

王宮から一通の手紙が届いた。


「王立薬草研究院への推薦?」


父が目を丸くする。


「はい」


「どうしてお前に?」


「温室で育てている薬草を、研究院の方が見に来られたのです」


私は知らなかった。

父が裏で手を回したわけでもない。

ただ、王宮の薬師が偶然私の温室を訪れ、珍しい薬草がいくつか育っていることに気づいたらしい。


「行きたいか?」


「はい」


私は迷わず答えた。


「行ってみたいです」


父は嬉しそうに笑った。


「そうか」


その日から、私は研究院へ通うようになった。

薬草の知識を学び。

栽培方法を研究し。

失敗しては試行錯誤を繰り返した。

そして一年後。

私が改良した薬草から、新しい傷薬が作られた。

従来のものより治癒が早く、しかも安価だった。

研究院から正式に発表されると、私の名前は一躍知られるようになった。


侯爵令嬢フィオナ。

婚約破棄された可哀想な令嬢。


かつて、そんな呼び方をされていた私が。

今では「王立薬草研究院の若き研究者」と呼ばれている。


けれど。

私はそんなことを気にしていなかった。

ただ、毎日が楽しかった。

誰かに愛されるためではなく。

誰かに認められるためでもない。

自分がやりたいと思ったことを、自分のために続けられる。

それだけで、十分幸せだった。





一方。

アルベール様の生活は、少しずつ変わっていた。

最初に聞いたのは、父からだった。


「アルベール殿の領地が、少し大変らしい」


「そうなのですか?」


「ああ」


アルベール様の家は伯爵家。

領地の収入の大半を農産物に頼っていた。

そして以前、その領地経営を支えていたのが私だった。

婚約者になったばかりの頃。

私は彼の領地の収支が赤字であることに気づいた。

帳簿を見せてもらい、無駄な支出を整理した。

作物の種類を変えた。

隣領との交易を提案した。

税の徴収方法も見直した。



結果。

三年で赤字だった領地は、黒字になった。

私はそれを誇りには思っていなかった。

婚約者として当然だと思っていたから。

けれど、婚約解消と同時に。

私はすべて手を引いた。

当然のことだった。

もう私は、あの家の人間ではない。


「ミレイユ様が領地経営を引き継いだらしい」


父が言った。


「そうですか」


「……気にならないのか?」


「なりません」


私は薬草の種を選別しながら答えた。


「アルベール様が選んだ方ですもの」


それ以上、何も言わなかった。






それから半年。

王都で妙な噂が流れ始めた。

アルベール様の領地では、作物の収穫量が落ちているらしい。

隣領との交易も減った。

税収も減った。

使用人が次々と辞めている。

理由は簡単だった。

領地経営の知識がなかったミレイユ様が、以前の制度を「古臭い」と言って次々に変更したからだ。

もちろん、最初から全部が悪かったわけではない。

彼女なりに良くしようとしたのだろう。

ただ。

知らないことを知ったつもりで変えてしまえば、積み上げてきたものは簡単に崩れる。

そしてアルベール様も、彼女を止めなかった。


「フィオナより、ミレイユの方が僕を理解している」


そう言った手前。

自分の選択が間違っていたと認めることが、できなかったのだろう。




ある冬の日。

研究院から帰る途中。

私は王宮の廊下で、アルベール様と再会した。

一年半ぶりだった。

以前より痩せていた。

高価な服も、どこかくたびれている。


「フィオナ……」


「お久しぶりです」


「……少し、話せないか」


「構いません」


私たちは人気のない庭園へ出た。

雪が静かに降っていた。


「君に頼みがある」


「何でしょう?」


「領地を……助けてほしい」


私は黙った。


「君なら立て直せる」


「それは難しいと思います」


「なぜだ!」


突然、声を荒らげられた。

けれど私は驚かなかった。


「もう私は、伯爵家の人間ではありませんから」


「だが、君なら!」


「アルベール様」


私は彼の言葉を遮った。


「私がいた頃、領地経営について何度もご相談しましたよね」


「……ああ」


「そのとき、なんとおっしゃいましたか?」


アルベール様は黙った。

私は覚えている。


『領地のことは僕に任せてくれ』


そう言われた。

だから私は、それ以上口を出さなかった。


「私は、アルベール様を信じました」


「……」


「そしてアルベール様は、私ではなくミレイユ様を選ばれました」


「それは……」


「でしたら、その選択を大切になさってください」


「フィオナ!」


アルベール様が私の腕を掴んだ。

私は静かにその手を外した。


「戻ってきてほしい」


「……それはできません」


「なぜだ」


「私はもう、自分の人生を始めてしまったからです」


その言葉に、アルベール様の表情が固まった。

私は頭を下げた。


「どうかお元気で」


それだけ言って、歩き出した。

今度も、振り返らなかった。




その翌月。

伯爵家の領地は、ついに王都への借金返済が滞った。

そしてさらに悪いことが起きた。

ミレイユ様が、領地の重要な契約書を勝手に破棄してしまったのだ。

本人は「古い契約だから」と言ったらしい。

しかしそれは、隣国との交易を保証する重要な契約だった。

違約金だけで、伯爵家の財産の大半が消えた。

アルベール様はようやく、自分たちがどれほど危うい状況にいるのか理解した。


「フィオナなら……」


そう呟いたと聞いた。

けれど。

もう遅かった。

誰も彼を助けなかったわけではない。

ただ。

誰も、彼の代わりに人生を背負ってはくれなかった。

父も手を出さなかった。

私も手を出さなかった。

そして王家も、特別扱いしなかった。

爵位を剥奪されたわけではない。

牢獄に入ったわけでもない。

ただ、持っていたものを失った。

それだけだった。

それが一番、静かな罰だったのかもしれない。





春。

私は王立薬草研究院の正式な研究員になった。

小さな研究室も与えられた。

窓辺には、最初に育てた白薔薇を置いている。

あの日、婚約を破棄された庭園から持ち帰ったものだ。

白薔薇を見るたびに思う。

あの日、私は恋を失った。

けれど。

同時に、自分の人生を取り戻したのだと。

そんなある日。

研究室の扉がノックされた。


「失礼します」


振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。

銀色の髪。

柔らかな青い瞳。

王宮薬師団の制服を着ている。


「初めまして。アシュレイ・フォン・グランツと申します」


「フィオナです」


「存じています」


青年は微笑んだ。


「あなたの薬草研究について、以前から論文を拝見していました」


「ありがとうございます」


「もしよければ、共同研究をお願いできませんか?」


私は少し驚いた。


「私でよろしいのですか?」


「あなたがいいのです」


その言葉に。

なぜか胸が温かくなった。

彼は机の上の白薔薇に気づいた。


「綺麗ですね」


「婚約破棄された日に、庭園で拾った薔薇なんです」


「……思い出の品ですか?」


私は少し考えた。

以前なら、そうだったのかもしれない。

けれど。


「いいえ」


私は微笑んだ。


「今の私が、ここまで来たことを思い出すためのものです」


アシュレイ様は静かに頷いた。


「それは、素敵ですね」



その日から。

私たちは一緒に研究を始めた。

彼は私の知らない知識を持っていた。

私は彼の知らない栽培方法を知っていた。

互いの知識を持ち寄ることで、研究は驚くほど順調に進んだ。



そして一年後。


私たちは新しい治癒薬を完成させた。

王家から褒賞を授かり。

研究院からも正式に評価された。

その授賞式の日。

私は久しぶりに王宮の大広間へ入った。

人々の視線が集まる。

けれど、もう怖くなかった。

かつて私は。

婚約者の隣に立つために、必死で自分を磨いていた。

今は違う。

私は私自身のために立っている。

授賞式が終わったあと。

アシュレイ様が私のところへ来た。


「フィオナ」


「はい?」


「少し、お願いがあります」


「何でしょう?」


彼は小さな箱を差し出した。

中には、一輪の白薔薇があった。


「僕の人生に、あなたの居場所をいただけませんか」


私は目を瞬いた。


「それは……」


「結婚してください」


驚いた。

本当に、驚いた。


けれど。

今度は、逃げたくなかった。

誰かに選ばれることが怖かったのではない。

以前の私は、選ばれるために自分を失っていた。

でも今は違う。

私自身が、この人と歩みたいと思っている。


「はい」


私は笑った。


「喜んで」


白薔薇を受け取る。

その花びらは、春の日差しを受けて輝いていた。





数年後。

王都の外れに、小さな薬草園ができた。

私とアシュレイ様の研究所だ。

庭には白薔薇が咲いている。

子どもたちが走り回り。

研究員たちが忙しそうに行き交う。

そんなある日のこと。

隣国から訪れた商人が、こんな噂を教えてくれた。

かつて私の婚約者だったアルベール様は、今では小さな領地で暮らしているらしい。

爵位は残った。

けれど財産はほとんどなく。

自ら領地を耕し、失敗した作物を眺めながら、ようやく農民たちの苦労を知ったという。

ミレイユ様とは別れたそうだ。

彼女は実家へ戻った。

二人とも不幸になったわけではない。

ただ。

かつて望んだものを、望んだ形では手に入れられなかった。

私はその話を聞いて。


「そうですか」


とだけ答えた。

恨みはなかった。

ざまあみろ、とも思わなかった。

私の人生はもう。

あの人たちとは関係のないところで、ちゃんと幸せになっている。

だから。

それで十分だった。


「フィオナ」


背後から声がする。

振り返ると、アシュレイ様がいた。


「夕食ができましたよ」


「今行きます」


彼の隣には、幼い娘がいる。


「お母様、白薔薇!」


「綺麗ね」


「今日ね、三つ咲いたの!」


私はしゃがんで、娘の頭を撫でた。



白薔薇が風に揺れる。

あの日。

婚約を破棄された庭園で。

私は一輪の薔薇を籠へ戻した。

あのときは。

すべてを失ったと思っていた。

けれど違った。

私が失ったのは。

私を大切にしてくれない人との未来だけだった。

そして。

手放したからこそ。

私は、自分の人生を取り戻すことができた。


「お母様、行こう!」


「ええ」


私は娘の手を取る。

隣には、私を選んでくれた人がいる。

目の前には、私が自分で育てた庭がある。


そして。

もう振り返る必要はない。

白薔薇は今日も咲いている。

誰かに選ばれるためではなく。

ただ。

そこに咲くために。


ご一読いただきありがとうございました!

自分を偽るのをやめたヒロインの自立と、静かなスカッと感をサクッと読める短編に詰め込んでみました。

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なんかデジャブを感じる作品。 アドバイスについての返答⇒領地の事は僕に任せてくれ そして、その返答に最後の爵位は変わらないが小さな領地を自ら耕す。 つい、最近、同じような作品を読んだことがあるような・…
アルベールは一体どの立場で戻って貰うつもりだったんだろ。まさか只働きさせるつもりだったとか?
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