婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください
誤字報告ありがとうございます。助かります。
「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」
そう言った私に、アルベール様は眉をひそめた。
王都でも名の知れた薔薇園。その中央で、彼は私に告げた。
「フィオナ。君との婚約を、なかったことにしたい」
私は手にしていた白薔薇を一輪、そっと籠へ戻した。
「……そうですか」
「驚かないのか?」
「驚いております」
「そうは見えないな」
アルベール様は不満そうに眉を寄せた。
けれど、仕方がない。
私は今日まで、何度も同じ言葉を想像してきたのだから。
婚約者であるアルベール様が、別の女性を愛している。
それを知ったのは、もう半年も前のことだった。
お相手は、伯爵令嬢のミレイユ様。
美しく、明るく、誰からも愛される女性だった。
私とは正反対だ。
私は地味で、口数が少なく、社交も得意ではない。
それでも侯爵令嬢として恥ずかしくないように、毎日努力してきた。
アルベール様の好みに合わせて髪を伸ばした。
好きだと言っていた色のドレスを選んだ。
苦手だった刺繍も練習した。
彼の領地で必要だと聞けば、領地経営の本を読み漁った。
体調を崩しても、婚約者としての務めを休まなかった。
けれど。
それらは全部、アルベール様にとって「当然」のことだったらしい。
「ミレイユは、僕を理解してくれる」
そう言って、アルベール様は微笑んだ。
「君とは違うんだ」
私は静かに頷いた。
「はい」
「だから、君には婚約を解消してほしい」
「承知しました」
「……本当に、それだけ?」
アルベール様が怪訝そうに私を見る。
私は微笑んだ。
「はい。それだけです」
「泣かないのか?」
「泣いてほしいのですか?」
「いや……そういう意味では」
「でしたら、どうぞご安心ください」
私は籠を持ち上げた。
そして、彼をまっすぐ見つめる。
「婚約者様、どうぞお好きな方をお選びください」
アルベール様は何も言わなかった。
「私はもう、あなたに選ばれるために生きることをやめます」
「フィオナ……」
「ミレイユ様と、どうぞお幸せに」
そう言って、私はその場を去った。
振り返らなかった。
◇
屋敷に戻ると、父が待っていた。
「……聞いた」
「はい」
「本当に、それでよかったのか」
父の声は低かった。
怒っているのだろう。
私にではない。
きっと、アルベール様に。
「はい」
「フィオナ。お前は、あの男が好きだっただろう」
「好きでした」
過去形にすると、胸の奥が少し痛んだ。
けれど、不思議なほど涙は出なかった。
「では、なぜ止めなかった」
「止めたところで、好きな人のところへ行きたい方を縛ることはできません」
父はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……お前は、昔からそうだな」
「何がでしょう?」
「自分が傷ついても、相手の都合を優先する」
私は答えられなかった。
父は私の頭を撫でた。
「もういい」
「お父様?」
「婚約解消の手続きは私がする。お前はしばらく何も考えず休め」
「でも……」
「いいんだ」
父の手が、わずかに震えていた。
「娘一人幸せにできない父親だと思われたくない」
その言葉を聞いた瞬間。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「……お父様」
初めて涙がこぼれた。
父は何も言わず、ただ私の頭を撫で続けてくれた。
◇
それから三か月。
私の生活は、驚くほど静かになった。
婚約者のために予定を空ける必要はない。
社交界で彼の隣に立つ必要もない。
毎朝、彼の領地から届く報告書を読んでいた時間は、自分のための勉強に変わった。
私は以前から興味があった植物学を学ぶことにした。
侯爵家の離れにある小さな温室を譲ってもらい、薬草を育て始めた。
最初は何もわからなかった。
水をやりすぎて枯らした。
日当たりを間違えて枯らした。
肥料を与えすぎて枯らした。
失敗するたびに落ち込んだ。
それでも、楽しかった。
植物は、努力した分だけ少しずつ応えてくれる。
人間とは違う。
そんなある日。
王宮から一通の手紙が届いた。
「王立薬草研究院への推薦?」
父が目を丸くする。
「はい」
「どうしてお前に?」
「温室で育てている薬草を、研究院の方が見に来られたのです」
私は知らなかった。
父が裏で手を回したわけでもない。
ただ、王宮の薬師が偶然私の温室を訪れ、珍しい薬草がいくつか育っていることに気づいたらしい。
「行きたいか?」
「はい」
私は迷わず答えた。
「行ってみたいです」
父は嬉しそうに笑った。
「そうか」
その日から、私は研究院へ通うようになった。
薬草の知識を学び。
栽培方法を研究し。
失敗しては試行錯誤を繰り返した。
そして一年後。
私が改良した薬草から、新しい傷薬が作られた。
従来のものより治癒が早く、しかも安価だった。
研究院から正式に発表されると、私の名前は一躍知られるようになった。
侯爵令嬢フィオナ。
婚約破棄された可哀想な令嬢。
かつて、そんな呼び方をされていた私が。
今では「王立薬草研究院の若き研究者」と呼ばれている。
けれど。
私はそんなことを気にしていなかった。
ただ、毎日が楽しかった。
誰かに愛されるためではなく。
誰かに認められるためでもない。
自分がやりたいと思ったことを、自分のために続けられる。
それだけで、十分幸せだった。
◇
一方。
アルベール様の生活は、少しずつ変わっていた。
最初に聞いたのは、父からだった。
「アルベール殿の領地が、少し大変らしい」
「そうなのですか?」
「ああ」
アルベール様の家は伯爵家。
領地の収入の大半を農産物に頼っていた。
そして以前、その領地経営を支えていたのが私だった。
婚約者になったばかりの頃。
私は彼の領地の収支が赤字であることに気づいた。
帳簿を見せてもらい、無駄な支出を整理した。
作物の種類を変えた。
隣領との交易を提案した。
税の徴収方法も見直した。
結果。
三年で赤字だった領地は、黒字になった。
私はそれを誇りには思っていなかった。
婚約者として当然だと思っていたから。
けれど、婚約解消と同時に。
私はすべて手を引いた。
当然のことだった。
もう私は、あの家の人間ではない。
「ミレイユ様が領地経営を引き継いだらしい」
父が言った。
「そうですか」
「……気にならないのか?」
「なりません」
私は薬草の種を選別しながら答えた。
「アルベール様が選んだ方ですもの」
それ以上、何も言わなかった。
◇
それから半年。
王都で妙な噂が流れ始めた。
アルベール様の領地では、作物の収穫量が落ちているらしい。
隣領との交易も減った。
税収も減った。
使用人が次々と辞めている。
理由は簡単だった。
領地経営の知識がなかったミレイユ様が、以前の制度を「古臭い」と言って次々に変更したからだ。
もちろん、最初から全部が悪かったわけではない。
彼女なりに良くしようとしたのだろう。
ただ。
知らないことを知ったつもりで変えてしまえば、積み上げてきたものは簡単に崩れる。
そしてアルベール様も、彼女を止めなかった。
「フィオナより、ミレイユの方が僕を理解している」
そう言った手前。
自分の選択が間違っていたと認めることが、できなかったのだろう。
◇
ある冬の日。
研究院から帰る途中。
私は王宮の廊下で、アルベール様と再会した。
一年半ぶりだった。
以前より痩せていた。
高価な服も、どこかくたびれている。
「フィオナ……」
「お久しぶりです」
「……少し、話せないか」
「構いません」
私たちは人気のない庭園へ出た。
雪が静かに降っていた。
「君に頼みがある」
「何でしょう?」
「領地を……助けてほしい」
私は黙った。
「君なら立て直せる」
「それは難しいと思います」
「なぜだ!」
突然、声を荒らげられた。
けれど私は驚かなかった。
「もう私は、伯爵家の人間ではありませんから」
「だが、君なら!」
「アルベール様」
私は彼の言葉を遮った。
「私がいた頃、領地経営について何度もご相談しましたよね」
「……ああ」
「そのとき、なんとおっしゃいましたか?」
アルベール様は黙った。
私は覚えている。
『領地のことは僕に任せてくれ』
そう言われた。
だから私は、それ以上口を出さなかった。
「私は、アルベール様を信じました」
「……」
「そしてアルベール様は、私ではなくミレイユ様を選ばれました」
「それは……」
「でしたら、その選択を大切になさってください」
「フィオナ!」
アルベール様が私の腕を掴んだ。
私は静かにその手を外した。
「戻ってきてほしい」
「……それはできません」
「なぜだ」
「私はもう、自分の人生を始めてしまったからです」
その言葉に、アルベール様の表情が固まった。
私は頭を下げた。
「どうかお元気で」
それだけ言って、歩き出した。
今度も、振り返らなかった。
◇
その翌月。
伯爵家の領地は、ついに王都への借金返済が滞った。
そしてさらに悪いことが起きた。
ミレイユ様が、領地の重要な契約書を勝手に破棄してしまったのだ。
本人は「古い契約だから」と言ったらしい。
しかしそれは、隣国との交易を保証する重要な契約だった。
違約金だけで、伯爵家の財産の大半が消えた。
アルベール様はようやく、自分たちがどれほど危うい状況にいるのか理解した。
「フィオナなら……」
そう呟いたと聞いた。
けれど。
もう遅かった。
誰も彼を助けなかったわけではない。
ただ。
誰も、彼の代わりに人生を背負ってはくれなかった。
父も手を出さなかった。
私も手を出さなかった。
そして王家も、特別扱いしなかった。
爵位を剥奪されたわけではない。
牢獄に入ったわけでもない。
ただ、持っていたものを失った。
それだけだった。
それが一番、静かな罰だったのかもしれない。
◇
春。
私は王立薬草研究院の正式な研究員になった。
小さな研究室も与えられた。
窓辺には、最初に育てた白薔薇を置いている。
あの日、婚約を破棄された庭園から持ち帰ったものだ。
白薔薇を見るたびに思う。
あの日、私は恋を失った。
けれど。
同時に、自分の人生を取り戻したのだと。
そんなある日。
研究室の扉がノックされた。
「失礼します」
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。
銀色の髪。
柔らかな青い瞳。
王宮薬師団の制服を着ている。
「初めまして。アシュレイ・フォン・グランツと申します」
「フィオナです」
「存じています」
青年は微笑んだ。
「あなたの薬草研究について、以前から論文を拝見していました」
「ありがとうございます」
「もしよければ、共同研究をお願いできませんか?」
私は少し驚いた。
「私でよろしいのですか?」
「あなたがいいのです」
その言葉に。
なぜか胸が温かくなった。
彼は机の上の白薔薇に気づいた。
「綺麗ですね」
「婚約破棄された日に、庭園で拾った薔薇なんです」
「……思い出の品ですか?」
私は少し考えた。
以前なら、そうだったのかもしれない。
けれど。
「いいえ」
私は微笑んだ。
「今の私が、ここまで来たことを思い出すためのものです」
アシュレイ様は静かに頷いた。
「それは、素敵ですね」
その日から。
私たちは一緒に研究を始めた。
彼は私の知らない知識を持っていた。
私は彼の知らない栽培方法を知っていた。
互いの知識を持ち寄ることで、研究は驚くほど順調に進んだ。
そして一年後。
私たちは新しい治癒薬を完成させた。
王家から褒賞を授かり。
研究院からも正式に評価された。
その授賞式の日。
私は久しぶりに王宮の大広間へ入った。
人々の視線が集まる。
けれど、もう怖くなかった。
かつて私は。
婚約者の隣に立つために、必死で自分を磨いていた。
今は違う。
私は私自身のために立っている。
授賞式が終わったあと。
アシュレイ様が私のところへ来た。
「フィオナ」
「はい?」
「少し、お願いがあります」
「何でしょう?」
彼は小さな箱を差し出した。
中には、一輪の白薔薇があった。
「僕の人生に、あなたの居場所をいただけませんか」
私は目を瞬いた。
「それは……」
「結婚してください」
驚いた。
本当に、驚いた。
けれど。
今度は、逃げたくなかった。
誰かに選ばれることが怖かったのではない。
以前の私は、選ばれるために自分を失っていた。
でも今は違う。
私自身が、この人と歩みたいと思っている。
「はい」
私は笑った。
「喜んで」
白薔薇を受け取る。
その花びらは、春の日差しを受けて輝いていた。
◇
数年後。
王都の外れに、小さな薬草園ができた。
私とアシュレイ様の研究所だ。
庭には白薔薇が咲いている。
子どもたちが走り回り。
研究員たちが忙しそうに行き交う。
そんなある日のこと。
隣国から訪れた商人が、こんな噂を教えてくれた。
かつて私の婚約者だったアルベール様は、今では小さな領地で暮らしているらしい。
爵位は残った。
けれど財産はほとんどなく。
自ら領地を耕し、失敗した作物を眺めながら、ようやく農民たちの苦労を知ったという。
ミレイユ様とは別れたそうだ。
彼女は実家へ戻った。
二人とも不幸になったわけではない。
ただ。
かつて望んだものを、望んだ形では手に入れられなかった。
私はその話を聞いて。
「そうですか」
とだけ答えた。
恨みはなかった。
ざまあみろ、とも思わなかった。
私の人生はもう。
あの人たちとは関係のないところで、ちゃんと幸せになっている。
だから。
それで十分だった。
「フィオナ」
背後から声がする。
振り返ると、アシュレイ様がいた。
「夕食ができましたよ」
「今行きます」
彼の隣には、幼い娘がいる。
「お母様、白薔薇!」
「綺麗ね」
「今日ね、三つ咲いたの!」
私はしゃがんで、娘の頭を撫でた。
白薔薇が風に揺れる。
あの日。
婚約を破棄された庭園で。
私は一輪の薔薇を籠へ戻した。
あのときは。
すべてを失ったと思っていた。
けれど違った。
私が失ったのは。
私を大切にしてくれない人との未来だけだった。
そして。
手放したからこそ。
私は、自分の人生を取り戻すことができた。
「お母様、行こう!」
「ええ」
私は娘の手を取る。
隣には、私を選んでくれた人がいる。
目の前には、私が自分で育てた庭がある。
そして。
もう振り返る必要はない。
白薔薇は今日も咲いている。
誰かに選ばれるためではなく。
ただ。
そこに咲くために。
ご一読いただきありがとうございました!
自分を偽るのをやめたヒロインの自立と、静かなスカッと感をサクッと読める短編に詰め込んでみました。
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