総三の役目 9
「信濃分遣隊の者はみな、戦死、あるいは各藩に捕らえられました。いまだ、行方が分からないままの者もいます」
下諏訪本陣に着いた総三は、隊員の報告に驚愕した。
「戦に及んではならぬ。あくまで各藩の動静を探れ」
総三はこう言い残してきたはずであった。
それが、二月十七日、追分宿に滞在していた嚮導隊を、突如として小諸藩兵と御影陣屋の農兵が襲ってきたというのである。
この戦とも呼べない小競り合いで散り散りとなっていた隊員たちを、上田藩、岩村田藩、安中藩が捕らえたというのだ。
しかも争いの発端は、「嚮導隊は偽官軍であるから捕らえよ」と、東山道総督府の名義で信濃各藩に通達があったことらしい。
「我らは一体、何と戦っているのだ。本当の敵は誰なのだ」
総三は怒鳴り散らした。
それに答える者は、誰もいなかった。
とにかく、直接、東山道総督府から薩摩藩付属の命を受けたのであるから、岩村田藩やほかの藩に捕らえられた同志を救うため、総三は総督府に嘆願書を書いた。
どうも大垣に駐屯していた総督府のもとに総三が行く前に、通達が信濃各藩に出されたらしい。
それは、見つけ次第、嚮導隊を捕らえるように、という内容だった。
総三は、隊士たちを不意打ちのごとく攻めてきた小諸藩の処分と、捕らえられた仲間の解放に尽力してほしい旨を、総督府に嘆願した。
翌日、早々に総督府から「約定書」なるものが届けられた。
しかしそこには、捕らえられた仲間のことや小諸藩への対応については、一切書かれていなかった。
そこで総三は、再び同じように仲間の救出と小諸藩処置を願う書を送った。
二月二十八日に、東山道総督府が下諏訪宿に本営を置くという連絡を受けた総三ら嚮導隊は、北へ一里ばかり東山道を進んだ先の樋橋へと移った。
この翌日にも総三は、陳情書を下諏訪入りしていた薩摩藩兵へ届けている。
「小諸藩との戦いは、総督府の出した御触れから起こった行き違いで、どうしようもなく起きたものである。この問題は、朝敵を鎮静した後、取り調べいただき、我らの隊に不備があったのであれば、如何なる厳罰でも受ける」
この陳情書への返答は、とうとう返ってこなかった。
三月一日の朝、何の前触れもなく、岩村田藩に捕らわれていた大木四郎らの隊員が解放され、樋橋にいた総三のもとへ戻ってきた。
「相楽さん……」
大木四郎は、総三の前につんのめるようにして頽れた。
「よく、無事に帰ってきた……」
総三は、大木四郎の顔を覗き込みながら、両肩に手を置いた。
「相楽さん、少しやつれましたな」
安堵からか、大木四郎は相好を崩した。
大木はじめ、岩村田藩に捕らわれていた者たちは、一人残らず頬骨が突き出ており、眼窩はくぼんでいた。
大木四郎は、総三と別れてからのこれまでのことを語った。
佐久郡御影陣屋に官軍先鋒と称した賊が早急に年貢を納めるよう脅している、という報を聞いた総三は、大木らにその対処を指示していた。二月五日の事だった。
しかし、御影陣屋では、もうすで騒動は収まった後であり、大木らはそのまま小諸藩、上田藩、松代藩へそれぞれ分かれて状況探索に出ることとなった。
その活動の本拠を追分宿に置くこととした。
大木は小諸藩へ赴いた。
勤王の誓約書をもらいに行ったのである。
小諸藩の家老たちは、少し揉めた様子であったが、結局は勤王を誓い、金穀献納を約束してくれた。
金は後に来る総督府に納めるように伝えると、大木四郎は再び東進し碓氷峠へと向かった。
この碓氷峠を約七十人の嚮導隊の者が占拠したのは、二月十五日であった。
さらに上野方面の各藩にも誓約書提出を求めに活動を開始した。
しかし、その翌日、下諏訪の嚮導隊本隊から知らせがあった。
「我ら嚮導隊は、総督府から偽官軍と呼ばれ誤解を受けている。信濃諸藩がこれに応じて我らを捕らえようとしている。急ぎ下諏訪へ戻り、相楽さんの戻るまで待機していたほうが良い」
というのである。
活動をやめることに反対する隊員もいたが、大木四郎らは碓氷峠を下り下諏訪へ戻る方が賢明だと考えた。
二月十八日未明、軽井沢宿に泊まっていた大木四郎のもとに知らせが入った。
御影陣屋にて、先に下諏訪へ戻ろうとしていた十数人の隊士と小諸藩兵、現地の農兵との間で戦争が起きた、というのである。
「我々は偽物ではない」
大木四郎の体が怒りで震えたが、この憤怒はどうすることもできなかった。
御影陣屋で襲われた隊士たちは、散り散りとなって、いまも逃げているという。
大木四郎らは、急ぎ軽井沢宿を出ると追分宿へと向かった。
雪が降っていた。
一里ほど進んだところで、小林という隊士が朱に染まった雪をかぶってこちらにやってくるのが見えた。
「二、三百人の兵が、不意に襲撃してきた。味方に戦死者も出ている」
必死の形相で言うと、その男はその場にへなへなとうずくまってしまった。
大木ら一行がさらに進むと、弾傷や切り傷で血を流す隊士、死に瀕している隊士に幾人にも出会った。
介錯してくれと懇願してくる者もいた。
そのほとんどの隊士が、江戸の薩摩藩邸からの同志ばかりであった。
(なぜ、こうなった)
死に瀕した仲間の首を落とした大木四郎の頬に、温かい雫が伝った。
追分宿に着いたが、敵はいない。
日も暮れ始めていたので、周囲の警戒を怠らないようにしつつ、早々に宿を発った。
道中において脱走、逃亡落伍が多く出た。
官軍から見放されたこの隊に先はない、と判断したのだ。
追分宿から小田井宿付近まで来たときには、二十人ばかりとなっていた。
ふと前方に隊列を組んだ一行が現れた。
こちらに向けてやってくる。
身構えていると、提灯をぶら下げた一人の男が馬でこちらにやってくるのが見えた。
「岩村田藩の田中禎助という者です。幣藩にて一時休息されたし」
慇懃な態度でその男は言った。
大木らは二十人足らずである。
戦って逃れようかとも思ったが、岩村田藩に交戦の気配はなかった。
「世話になる」
十八人の隊士は、この日より捕らわれの身となったのである。
待遇は決して悪くなかった。
一日おきの沐浴と、一日三食という厚遇ぶりであった。
むしろ、恐縮した隊士たちは、食事は日に二食でと願い出たほどであった。
碓氷峠の向こうの安中藩へ赴いた者や、追分宿の戦で行方不明となった隊士たちは、各藩に捕らわれたという情報が入ってきた。
大木四郎は、東山道総督府と下諏訪の本隊へ連絡を取ろうとした。
しかし、岩村田藩は、それには掛け合ってくれなかった。
十日以上が過ぎた。
なんの前触れもなく、薩摩藩の者という総督府の使いが岩村田藩に来て、十八人の釈放を命じたのは、二月二十八日であった。
「すまなかった」
これまでのいきさつを語った大木四郎に、総三は無意識に謝っていた。
己が正しいと信じた道を進んだがゆえに、「偽官軍」という烙印を押され、多くの隊士が傷つき、命を落とした。
小声でぶつぶつと放心したように謝り続けている総三に、大木四郎は何も言えず、わなわなと肩を震わせるばかりであった。