総三の役目 8
赤報隊の後方部隊、二番隊と三番隊は、一番隊のいる鵜沼宿へは向かわず、途中で引き返し、小牧へ出ると、二十七日に名古屋に入ったらしい。
大木四郎のもとにまたもや使者がきて、
「帰洛せよ」
と告げてきた。
しかし、隊長から隊を預かっている身である。
己の判断で、隊の進退を決めるわけにはいかなかった。
二十八日、総三は大湫宿にいた赤報隊一番隊のもとに戻ってくると事情を述べた。
「東征軍が編成されていた」
東海道、東山道、北陸道、山陰道にそれぞれ総督府が振り分けられていた。
薩摩、長州が中心の軍隊である。
西郷から指示されたのは、このうちの東海道総督府に付属することであった。
しかし、西郷の命を無視するかのように赤報隊一番隊は、東山道進軍の必要性を説いて、信濃に向かっていた。
「京都の岩倉さんに話をつけようとしたところ、道中、東山道総督府の部隊に出会った。この部隊の総督が岩倉さんの息子、具定さんだったので話をしてきた。しかし、こちらの要件もろくに聞かず、東海道総督府に従えと一方的に突っぱねられてしまった。それだけでなく、俺のことを捕らえるようなそぶりを見せたので早々に戻ってきた」
総三の顔は、常から何を考えているのかわからぬような不愛想な表情である。
この時も、おかしいのか悔しいのか、判然としないような、常のむっとした表情が顔に張り付いたままであった。
大木四郎は先日、京都へ帰るように後方の隊から使者があったことを伝えると、総三は再び口を開いた。
「どうも雲行きが怪しい」
年貢半減令のことである。
「山陰道へ進む部隊も我らと同じように、道中、年貢半減令を布告しながら進んでいたらしいのだが、どうも最近になってそれをぱたりとやめてしまったと聞いた。これは岩倉さんたちが、三井などの富商から軍資金を得ることに成功したことと関係があるらしいのだが……」
ここまで言うと、総三は口を無一文字に噤んだ。
年貢半減令は、赤報隊を結成する際に、総三が太政官に建白書と嘆願書を提出したのちに、朝廷からの命令という形で下されたものであった。
それをあとになって、やっぱりやめる、というのは筋違いである。
少なくとも、総三はそう思っているらしい。
(我らに下された年貢半減令の宣言も、天皇御自らお出しになったものであるはずはないだろうに)
大木四郎はそう思っていた。
しかし、総三はあくまでこれに固執し続けるらしかった。
「我々赤報隊一番隊はこれから、東海道総督府でも赤報隊本隊でもなく、勅諚に従って動く部隊とする。帰洛はせず、このまま年貢半減令を掲げつつ信濃へ入り、碓氷峠を旧幕府軍より先に制することを最優先とする」
総三率いる赤報隊の一番隊は、この時から「官軍先鋒嚮導隊」と名乗りはじめた。
大湫宿から美濃中津川、信濃伊那郡山本村、飯田、山吹へと進み、下諏訪宿に嚮導隊が入ったのは、二月六日夜半のことであった。
総三はこの間、隊の規律をさらに厳格なものとした。
新たに入隊してくる信濃の同志を統率していかなくてはならない、という理由もあった。
しかしそれ以上に、後方にいた赤報隊の悪い噂が、総三の耳に幾度も入ってきていたことが大きく影響していた。
まず、滋野井公寿を擁する金剛輪寺に残してきた隊員である。
この隊は綾小路俊実の赤報隊本隊に合流すべく、渋る滋野井公寿を説得しつつ東へ向かった。
この隊は、正月二十八日、桑名城のすぐ南に位置する安永村の青雲寺に泊まっていた。
そこに伊勢亀山藩の一隊が突如包囲し、彼らを生け捕って四日市へ引き立てて行ったというのである。
この時、抵抗して死んだ者が五人。連行された後、四日市で首を刎ねられた者が三人いたという。
赤報隊は偽官軍であるから見当たり次第討て、という命令を亀山藩の隊は受けていた。
しかもこれは、岩倉具視が発した命令である、というのである。
次に、綾小路俊実擁する二番隊、三番隊の赤報隊本隊である。
新政府幹部の命に従い、二月六日に帰洛した部隊の幹部十人ばかりが、取締所に呼び出され拘禁されたらしい。
まるで赤報隊に対して東征軍本営は、強盗、盗賊まがいの扱いをしているのである。
下諏訪の本陣、亀屋にいた総三は浮かない表情であった。
赤報隊がこのような扱いを受けているのだ。
覚悟の上とはいえ、同じように罪に問われる可能性があった。
下諏訪を仮の本拠と定め、ここから信濃各藩へ隊士を送り、新政府軍につくよう下工作をしていくことにした。
しかし、下諏訪に着いて二日後、またしても東山道総督府から総三へ、本営に出頭するように呼び出しがかかった。
他の隊員に信濃各藩へ向かわせている間、総三は再び京都へ戻り己たちの役目を明確にすべく、下諏訪を発った。
総三は西郷に会おうとした。
しかし、京都の薩摩藩邸に西郷の行方を知る者は誰もいなかった。
そこで今度は、岩倉具視に会おうとするが、これも門前払いを受ける羽目になった。
(二人は、あえて己に会おうとしないのではないか)
総三は胃の腑が縮むような心地で、そのようなことを思った。
京都で無意味な時を過ごした総三は、再び東山道を東に進み、大垣に駐屯している東山道総督府に参上した。
二月十八日のことである。
十一日に呼び出しを受けたにも関わらず、七日もかかって参上したのである。
岩倉具定、岩倉具経、伊地知正治、乾退助らは、総三を冷ややかな眼差しで迎えた。
「ちっくと、遅すぎやせんか」
はじめに口を開いたのは、江戸の薩摩藩邸に入る前に土佐藩邸において面倒を見てくれていた乾退助であった。
言葉とは裏腹に懐かしさからか、温かいものをその言葉から感じた。
「遅すぎるのは、征東軍の進軍速度でしょう」
総三は泰然とした態度で答えた。
「徳川の手がまだ信濃各藩に回っていないからよいものの、もし徳川方に皆さんのような頭の切れる者がいたならば、いまごろ関東、甲府、信濃の各藩は、すでに敵の手中だったかもしれませんよ」
そこでふっと息を堪え、一座を見渡した。
彼らは、この東征をどのように考えているのか、この場ではっきりとさせておきたかった。
「時流が見えておらんの、相楽さん」
伊地知正治である。
四十ばかりのこの小男は、片目片足が不自由であった。
しかし、西郷さんからの信頼が厚い人物のひとりで、文武共に秀でていると評判であった。
「慶喜が大阪城から船で江戸に帰るちゅう行動は、戦意がなかっちゅうこと。そんな人物を、朝敵となってまで、押しいただくっちゅう者などおりもはん」
「国元に帰って、官軍に抗することに決める者もいるかもしれぬのですぞ」
総三は声を張り上げた。
「ほんじゃきに、確実に各個撃破するために軍備を整えていたのだ」
乾退助が口を挟んだ。
「それを相楽さん、命令を聞かずに勝手な行動をとってもらっちは困る」
「しかし、嚮導隊に先鋒を命じたのは太政官ですよ。年貢半減令についてもそうです」
総三は頑として、己のこれまでの行動が間違っていると認めるつもりはなかった。
「それを今になって取り消すなど、あってはならない。官軍の信用が地に落ちかねない。無理を押し通し、江戸幕府という二百年以上も続いた政権に取って変わろうとしている我々が、二年の年貢などいくらでもなりましょう」
「相楽さん、今は政府すらもできていない状態。勅諚が全て正しいと考えていては、それこそ今ごろ異国と戦になっていたかもしれん。それよりも、赤報隊の勝手な進軍。東海道に進むよう命じたはずが、信濃へ向かうとはどうした了見か」
乾退助が窘めるように言う。
「そのことについては、すでに進路変更の旨、申し上げましたぞ。返事を返さなかったのはどのような了見でしょうか」
総三は言う。
「東山道進軍を了承した覚えはなか」
伊地知正治が太い声を張り上げる。
そこからは、迅速な信濃入りが如何に重要であるかを説く総三と、それを許可しない東山道総督府の幹部たちとの水掛け論が続き、話し合いは平行線をたどった。
結局は、嚮導隊は東山道総督府の薩摩藩付けとなり、今後は薩摩藩の指揮に従って行動することとなった。
総三は急ぎ大垣を発った。
馬を駆って下諏訪へ着いたのは、二月の二十三日。
以前、下諏訪を出立してから十五日も経過していた。
嚮導隊の仮本営としていた亀屋に戻ってきた総三を待っていたのは、信濃各藩に派遣した隊員たちの悲報であった。