総三の役目 7
赤報隊が、一番隊を先頭に金剛輪寺を出発したのは、一月十五日の事である。
飛騨の岩手村に着いたのが十九日。
ここまで来るのに、不気味なほど旧幕府派の抵抗がなかった。
それほど、鳥羽伏見の戦いの宣伝効果が大きかったのだろう。
年貢半減を掲げていたためか、むしろ、官軍の先鋒である赤報隊に入隊を希望する者が次々と現れた。
岩手村を出たのが二十二日。
翌日には加納に入った。
加納宿は、東海道と東山道の分岐点である。
総三は、
「赤報隊は東山道を進む。目的は碓氷峠を徳川より先に制することにある」
と一番隊の皆に告げていた。
赤報隊、とりわけ総三率いる一番隊には、信州出身者が多く所属しており、通過する道中において同志を募りやすいという利点があった。
さらには、すでにこの時、加納宿から東海道の途中にあたる桑名城が、官軍に味方することがほぼ確定していた。
桑名藩の藩主松平定敬は、兄の会津藩主松平容保とともに、親徳川の筆頭であった。
しかし、大阪城から逃亡した徳川慶喜に従って江戸に着くと、そのまま謹慎蟄居の身となっていた。
残された桑名藩の家老たちは、官軍に恭順することを決していたのである。
赤報隊が、東海道に出ていく幕はなかった。
太政官からは、東海道の先鋒を命じられていたが、東山道に進むことを伝える使者を改めて京都に向かわせた。
「相楽さん。後方の二番隊、鈴木三樹三郎さんから報告がありました」
暗い面持ちで、 総三の前に立った大木四郎が、後方にいる赤報隊からだというある噂について語った。
それは、金剛輪寺に布陣している赤報隊の隊士と名乗る強盗が、近隣の豪家を襲い金品を奪っている、という噂であった。
しかもその噂は、近江ではなく京都で流れ始めたという。
京都からの使者が、それを後方の赤報隊に伝えたというのだ。
総三はこれを聞いたとき、鳥羽伏見の戦いの旧幕府軍の敗残兵が赤報隊と名乗って、強盗をしているのではないかと疑った。
ここまで進んでくるのに、そういった生気の失った目をした落ち武者を何人か見かけたからである。
しかし、京都でその噂が流れているというのが、腑に落ちない。
もちろん己には、身に覚えのないことであった。
ただひとつ、思い当たる節がないわけではなかった。
「まさか、な……」
「はい、後に残してきた滋野井殿の隊の可能性も捨てきれません」
金剛輪寺から出発する前日、大木四郎が耳に入れたいことがあると言って総三に告げたことである。
それは、総三が京都へ建白書と嘆願書を提出しに行っている間、滋野井公寿は病を患ってしまったということだった。
もともと気性は穏やかな方で、時勢の変化に心と体がついてこられなかったのだろう。
いよいよ赤報隊が金剛輪寺を発つ段になっても、滋野井公寿は臥せったままであった。
総三らは、山本太宰と少しの兵を残して、先に出立することにしたのである。
この金剛輪寺に残してきた者が、良からぬことをしたのではないか。
総三はこう考えたのである。
ただの噂にすぎないが、東山道を進軍するうえで支障をきたさぬよう、総三は隊の取締りを厳重にするとともに、次のような布達を年貢半減と共に掲げながら進んでいくこととした。
「赤報隊と名乗り、無賃の労役を強要し物品や食料に対する支払いをしない者は我々の隊員ではない。それは偽者であるので、竹槍で突き殺しても構わない。決して遠慮なきよう」
京都で赤報隊の悪い噂が流れているというのが気にかかったが、一日も早く碓氷峠を占拠せねばならない。
碓氷峠を先に制したほうが、日本全土を制することになるに違いないと、総三は確信していた。
いまは戦時である。
迷っている間はない。
総三率いる赤報隊一番隊は、正月二十四日、加納宿を出立すると、翌二十五日には鵜沼宿に入った。
「東海道鎮撫使の指揮を受けるよう命じたにも関わらず、東山道を進むとは何事か。即刻帰京せよ。という新政府幹部からの苦言があった。ひとまず引き返し、我々と合流せよ」
綾小路俊実を擁した後方の二番隊から、このような使いが来たのは、総三らが鵜沼宿に入って間もなくのことであった。
すでに東山道進軍の旨は、京都に通達しているはずである。
「先手を打たねば官軍の不利となります。たとえ後に軍令違反と言われようと、徳川より早く碓氷を制圧することを優先します」
そう使者に告げた。
「京都では朝命を守らず、勝手に東山道を進んでいると、以前の強奪疑惑の噂と合わせて赤報隊の噂は最悪なものとなっているのですぞ」
その使者は、困惑した表情で総三に訴えた。
「これでは埒が明かん。やむを得ん。俺が京へ戻り、東山道進軍の許しをもらってくる。我々一番隊はあくまでも、東山道を進む」
大木四郎らに一番隊の指揮を任せた総三は、この日のうちに再び京都へと取って返すことにしたのである。