総三の役目 3
どれほど走ったか。
ここまで来るのに、四、五人は斬ったであろう。
太刀や陣羽織には、返り血がついていた。
総三の背後には数十人の浪士たち。
追手の気配はなく、ただ黒々とした煙が、先ほどまでいた薩摩藩邸から天高く立ち昇っていた。
(あれが幕府打倒の狼煙となる。西郷さん、やりましたぞ)
総三は、歴史が変わる瞬間を己の手で作り出したことに、言い知れぬ満足感を覚えた。
品川宿を通り過ぎると、鮫洲海岸が見えた。
共に薩摩藩邸を抜けだしてきた浪士たちが、己の後に続いている。
事前に雇い入れていた三隻の漁船に、それぞれ三十人ほどに分かれて乗船した。
沖に停泊している薩摩藩の武装船、翔鳳丸に乗るためである。
総三とともに江戸城二の丸放火の指揮を執った薩摩藩士の伊牟田尚平が、乗組員に扮して翔鳳丸に乗り込み、藩邸から引き揚げてくる浪士たちを待つ手はずとなっているのである。
その翔鳳丸、すでに黒煙を上げて錨を巻き上げ始めていた。
他に二隻の軍艦が数丁ほど向こうの沖に見えた。
幕府の軍艦、回天丸と咸臨丸である。
甲板の上が騒がしい。
どうも、こちらに気が付いたようである。
翔鳳丸の甲板からこちらに手を振る人影が見えた。
「おーい」
漁船三隻の先頭に乗っていた総三が、手を振り返す。
すると、回天丸と咸臨丸から鋭い砲撃音。
三隻の漁船と翔鳳丸との間に、次々と見上げるほどの水柱が立った。
生暖かい海水が顔にかかる。
水柱の間を縫うようにして、総三らが乗る漁船は翔鳳丸に近づいていく。
脇につけると、舷側から縄梯子が降ろされた。
「無事だったか」
差し出された腕を掴んだ総三は、
「ああ。約束は果たした」
そう言いながら、伊牟田尚平の腕を借りつつ甲板に降り立つ。
「半数ほどか」
伊牟田尚平は、岸から漕いでくる二隻の漁船に目をやりながら言った。
薩摩藩邸には、二百人ほどの浪士たちが集っていたが、あの薩摩藩邸を襲った銃弾をかいくぐって海岸までたどり着いたのは、百人ほどであった。
「いや……」
総三が言いかけた時である。
破裂音と共に、ぐわん、と翔鳳丸が大きく揺れた。
甲板に立っていた悉くが、転倒した。
体勢を立て直すと総三は、
「いや、あの二隻は間に合わん」
舟夫が敵の砲撃に臆したか、まだ翔鳳丸に辿り着くまで、時間がかかりそうであった。
「くそ」
伊牟田尚平は吐き捨てると、出航の合図を乗組員に送った。
陽が落ち始めている。
船上から眺める江戸の街は橙色に染まり、この世の終わりを告げるかのような異様な雰囲気に包まれていた。
沖に出た。
後ろからは回天丸が、砲弾を断続的に放ちつつ、追尾してくる。
咸臨丸は、故障を修繕するため品川台場沖に停泊していたらしく、追ってくる様子はない。
「だめだ、直に追いつかれる」
何もできないでいた総三は、甲板の上で乗組員の指揮を執る伊牟田尚平に声をかけた。
「俺たちが敵艦に切り込む。船を旋回させて回天丸の横につけてくれ」
「無茶を言うな、総三さん。そんなことをしたら、死んじまう」
伊牟田尚平が首を横に振った。
「俺がそうやすやすと死ぬようにみえるか」
総三は、ぽんと刀の柄を軽く叩いた。
「そうは思わんが……」
口ごもる伊牟田尚平の横に、一人の小柄な男がすっと立ち、二人の会話に口を挟んだ。
「海戦は、おいどんにお任せ下され」
副艦長、伊地知八郎という男である。
伊地知八郎は、さっと右手を上げ、左旋回の合図を出した。
翔鳳丸は、ゆっくりと船首を房総半島の方角へと傾け始める。
左斜め後方から迫ってきていた回天丸は、こちらの動きに合わせるように旋回した。
二つの軍艦の距離が徐々に縮み始めている。
砲撃。
翔鳳丸はすでに、十か所以上の被弾を浴びていた。
それを修繕しようと、伊牟田尚平は乗組員や浪士たちに忙しくあれこれ指示する。
総三はそれに見向きもせず、伊地知という男を眺めていた。
(笑ってやがる)
その男の不敵な笑みはまるで、この船が敵艦の砲撃で沈むか、あるいはこの窮地を脱するかの賭けを楽しんでいるかのようであった。
船は、水柱が近くの海面に立つたびに小さく揺れ、被弾するたびに大きく揺れた。
「敵艦との距離、およそ一町!」
乗組員の男が叫んだ。
「敵艦との距離、およそ半町!……三十間!……二十間!」
次第に、回天丸に乗る男たちの顔まで見えはじめた。
「衝撃に備えよ!」
伊地知八郎が叫ぶ。
総三は、するりと抜刀した。
敵艦と衝突し、両艦の動きが止まった瞬間を見計らって切り込むつもりだった。
これを見ていたほかの浪士たちが、総三に倣ってするりするりと刀を抜く。
衝突は、免れた。
直前に敵艦が、わずかに船首を右に傾けたのである。
翔鳳丸の右原則をこするようにして、回天丸が躱していった。
回天丸の乗組員一人一人の困惑した表情が、間近にあった。
敵が狼狽えるのも、無理はない。
翔鳳丸は、江戸湾に取って返すような航路を取ったのである。
両船が、わずかの間、並行して進んだ。
長い時間、そうして進行したように感じた。
敵艦が右に少しずつ逸れていく。
「取り舵いっぱーい」
伊地知八郎が、右手を上げて叫んだ。
風を受けて帆が大きく膨らんだ。
翔鳳丸は倒れんばかりに左に傾く。
敵艦との距離が、大きくひらいていく。
「逃げ切れもす」
伊地知八郎の口角は上がったままであった。
翔鳳丸は、江戸湾をぐるりと円を描くように左回りに旋回すると、再び三浦半島の方角に舵をきった。
後方を追ってきていた回天丸との距離が、どんどん離れていく。
それを確かめると、総三は刀を鞘に収めてから、前方へと視線をやった。
傷ついた船は、暮れゆく海面を割るようにして大阪湾へと進路を取った。