後編
でも、行くとこがない。
お金もない。
歩きながら、ときどきベートーヴェンの声や音楽が途切れる。それもこれも哲司のせいだ。あいつが五、六年ぶりに話しかけてなんてこなけりゃ、わたしとベートーヴェンの蜜月が危ぶまれることなんてなかったのに。
現に今も、時折わたしはたった一人で路上を歩いている。彼が頭の中からいなくなる瞬間があるからだ。いやむしろ、途切れ途切れの感覚は頻繁になってきていて、彼を感じない時間のほうが長くなっているかもしれない。
恐怖! これは途方もない恐怖! 彼とともに過ごす時間がわたしにとってのすべてなのに!
「おまえ、足早いよ。追いつかないだろ」
なんと、後ろを振り向くと哲司がわたしを追いかけて、走ってきた。
「げっ、なんでいるの?」
「なんでいるの、じゃねえだろ。突然飛び出してったりなんかしたら、心配するだろ」
心配? 哲司がわたしのことを? なんの冗談だ。馬鹿馬鹿しい。
「おまえ、今、心の中で馬鹿馬鹿しいって言っただろ」
「へ? なんでわかるの?」
言い当てられてびっくりした。
「大体わかるんだよ。ガキん頃はずっと一緒に遊んでたじゃねえか。いっつもおまえ、馬鹿馬鹿しいって口癖みたいに言ってたし」
「何年前のこと言ってるの?」
「……そりゃ、まあ、そうなるけど。でも、わかるんだよ。俺には、お前の考えてることが……(いつも、頭の中で昔のおまえと話してるからな)」
「え? なんか言った?」
「いや、なんでも」
哲司はバツが悪そうに、頭をガリガリッと掻いた。
「あ? なんか気になることでもあんのかよ、んなじっと見て……?」
「ううん。何でもない」
哲司がそばに来てから、今度は途切れがちだったベートーヴェンの音楽が頭の中で復活していた。声は、まだ聞こえないけど。とりあえず、よかった。
「今から、どこ行くの?」
「さあ? 特に考えずに飛び出しちゃったからな」
わたしたちは並んで歩いた。行く当てもなく。
「俺さ」
「なに?」
「最近、頭の中でおまえとよく話してるんだ」
「は? え? どういうこと?」
意味わかんないんだけど。
「俺もよくわかんねえんだけど。頭の中で、ガキの頃のお前と、よく会話してる」
「そ、そう?」
頭おかしくなったのかな……。わたしも、人のこと言えないけど。
「俺、どっか、おかしいのかな?」
「お、おかしくは……ないんじゃない? みんな、人それぞれでしょ」
ここでおかしい、なんて言っちゃ、わたしはわたしの頭の中でいつもベートーヴェンと話してるんだってことも、おかしい、っていうことになってしまう。それは嫌だ。
「今、こうして実物のわたしと話しているときは、頭の中はどうなってるの?」
「そうだなあ。頭の声と現実は、別物だから、基本、区別して考えてるけど、両方から話しかけられたら聞き取れないから、今は、現実のお前のほうに比較的耳を傾けるようにしてるよ」
それ、答えになってないんじゃないかな。……まあ、いいか。わたしも同じこと聞かれたら、たぶん、同じようにしか答えられないし。
「現実のわたしと、頭の中の子供の頃のわたしと、どっちと話してるときが楽しいの?」
そんなこと聞いてどうするんだ、と自分でも思う。でも、聞かずにはいられなかった。哲司はなんて答えるだろう?
「ううん? そうだなあ……。ガキの頃のおまえかな?」
「そ、そうなんだ……。はは、わたし、中学生になってつまんない人間になっちゃったのかな?」
「や、俺、今のお前のことほとんど知らないし、こうして話すのも何年ぶりかじゃん。だからだよ。それに、ガキの頃の、お前との時間は、本当に楽しかったし」
うん、まあ確かに。あの頃は今みたいに、勉強のこと、将来のこと、だるい人間関係のこと、ここまで考えなくてよかった。あの頃は、ベートーヴェンがいなくても、哲司とシール集めなんかしてるだけで、毎日楽しく生きていけてた。
「たまにはさ、こうやって会って、また話したりしないか? なんとなく疎遠になってたけど、幼馴染だしさ」
「え? やだよ」
「なんでだよ? 俺、現実のお前とも、こうやって――」
「やだよ! 哲司が子供の頃のわたしと頭の中で会話して、楽しんで、癒されているように、わたしだって、頭の中でいつもお話してる大事な人がいるんだよ。それを、現実の哲司に、邪魔されたくないの」
がーんとした哲司の顔。仕方ないじゃん。もう、それぞれの時間を生きてしまってるんだよ。
「ま、まじか。だ、誰だよ? その頭の中で会話してる相手って?」
「誰にも言わないって約束できる?」
「ああ」
よし、同じ状況下のわたしたちなら、きっと、わかりあうことができるよね。
「ベートーヴェンだよ!」
「……運命の?」
「そおだよ」
あれ? 思った以上に、哲司は驚いた顔してる。なんでだろ、同じなのに。
「おま、頭、おかしいんじゃないの?」
わかりあえるって思ったわたしが、馬鹿だったのかな?
【了】