3.噂の真実
「シエルフィリード・クイア公爵閣下……?」
道中、何度も記憶にのぼせていた名前を、震える声でテオドシーネは呼んだ。
シエルフィリードは自分より二十も年上のはずだが、同世代にしか見えない。息子ではないのかと訝しむ。しかし息子がいるなら、テオドシーネを妻に迎えることもないはずで。
呼ばれてシエルフィリードはびくりと身を跳ねさせる。
赤いまぶちにじわっと涙がにじんだ。
(えっ)
三度目の絶句に陥るテオドシーネ。
シエルフィリードは手をあげて家令の動きを制すると、胸ポケットからハンカチを取りだした。涙をぬぐい、ハンカチを折りたたむ。
その所作は美しい。
銀細工と陶磁器のような色彩のシエルフィリードは、シャンデリアの照明を受けてキラキラと周囲を輝かせながら立っている。
「失礼した。ぼくがクイア家当主のシエルフィリードだ。このたびは……」
言いながら、今度は顔じゅうが真っ赤に染まる。耳の先、首元まで、見える範囲の肌がまるで咲きほこる早春薔薇のように色づいた。
シエルフィリードの手が、台に置かれた馬のかぶりものへとのびた。
しかしそれが装着されるよりも早く、家令が馬のたてがみをひしとつかむ。
「旦那様!! なりません!!! 奥様がいらっしゃったあかつきにはこのお召し物はもうお捨てくださいと申したはずです……!!!」
「許せ!! 許せじいや!!!」
「なりません!!!! 旦那様!!!」
テオドシーネの目の前で、馬のかぶりものを奪いあう公爵と家令。
その光景は、浮気相手を抱き寄せる婚約者の姿よりも斜め上にショッキングである。ピエトロの暴挙については予感があったが、この状況は未知の未知だ。
(いったい、どういうことなの……)
いまテオドシーネを支えているのは、次期王太子妃として培った精神力のみであった。
胆力だけで、遠ざかりそうになる意識をひきとめ、両の足で立っている。
状況を把握しないことには、やすやすと気絶もしていられない。
二人の視界に入るよう、手をあげ、左右にふる。
シエルフィリードと家令ははっとしてテオドシーネをふりかえった。
「あの、わたくしは気になりませんので……どうぞ、おかぶりになってくださいませ」
本当は気になるどころの話ではないのだが、そう言わねば先へ進まないような気がして。
馬のかぶりものを手のひらで示し、テオドシーネは告げた。
五分後。
テオドシーネは、ふたたび馬とむかいあっていた。その隣では家令がさめざめと目にハンカチをあてている。しかしシエルフィリードの表情は読めなかった。ただ馬の顔があるだけだ。
「どこから話せばよいのか……」
「そうですね、まずはその……馬のことからお聞きしてもよろしいでしょうか」
本当ならば、婚姻について尋ねるべきだとは理解しながらも。
なぜ馬でいるかの事情を聞かねばそれ以外の話題に集中できそうになかった。
シエルフィリードはうなずいた。振動が伝わった馬の頭はさらに大きな首肯を返す。
「これはかぶりものだ」
わかります。と心の中で答える。
「馬でなくてもいいのだ。虎でも、ドラゴンでも、ゴブリンでも」
わかりません。
「ぼくは……幼いころからなぜか誘拐されることが多く……」
「――事情はわかりました。えぇもう一瞬で」
ぐす、と馬の中から鼻音を立てるシエルフィリードをさえぎり、テオドシーネはうなずいた。
「それで幼いころから馬のかぶりものをつけてすごされ、自分自身を守るために外出もひかえ、領地経営に打ちこんでこられたのですね」
「そ……そのとおりだ!」
栗毛の馬の顔がぴこんと揺れる。なんとなくガラス玉の目が輝いているように見えるが気のせいだ。自分の境遇を理解してもらえたのが嬉しいのだろう。
しかしすぐに、馬はふたたびうなだれた。
結局のところかぶりものをしなければ人と対面できない自分を嫌悪しているのだろう。家令が結婚を機にお召し物を捨てるように言ったのもそういうことだ。
そうだ、本題に入らなければ。
テオドシーネは顔をあげたが、シエルフィリードの馬は少しひらいた口蓋から長いため息を吐き出した。
「本当に、自分が情けなくてたまらない。……もう三十六にもなるというのに」
くぐもった声は、先ほどよりもいっそう聞こえづらかった。
聞き間違いであろうと、テオドシーネは信じた。
「…………? いまなんと?」
「自分が情けなくて」
「いえ、お歳が」
「数えで三十六になる」
「三十六……」
東の国には妖人が暮らしているという。
彼らは人間と同じような姿かたちをしているのだが見目はすぐれて美しく、しかも長寿なので人の目からはほとんど歳をとらぬように見えるらしい。
シエルフィリードはその類ではなかろうか、とテオドシーネは考えた。
自分を婚約破棄したピエトロのことは、いつしか頭から吹き飛んでいた。





