11.無自覚と過保護
どこまで惚れさせれば気がすむのか。
シエルフィリードを前にピエトロへの未練なんて、ひとかけらもあるわけがない。
胸を押さえがくりと膝をつくテオドシーネに、シエルフィリードがあわてて駆けよる。
「どうした、テオ!? どこか痛いのか……ぁっ」
痛いというなら胸が痛い。かわいいかわいいと思っていた夫のまばゆいばかりの雄姿を見せられて、心の臓は口から飛びだしてしまうんじゃないかと思うほどにばっこんばっこんと血流を送りだしている。
そんな説明できない懊悩に苦しんでいたテオドシーネの耳に小さな叫びが聞こえて、真っ赤になった顔をあげた。
視界いっぱいに広がるシエルフィリードの瞳は、冷泉の底に沈んだ銀杯のよう。
え、と思う間に力いっぱい抱きしめられた。爽やかな香水の中に、少しだけシエルフィリード自身の匂いがする。けれどもそれは、不快ではなくて、むしろ蕩けるような体温を感じた。
「まさか、テオも、彼のことが好きなのかい……?」
「え、いえ、ちが――」
「ぼくが身を引くべきだとはわかってる。前途ある若いテオをぼくに縛りつけるべきじゃないってことも。でも――それでもいっしょにいたいんだ。もうかぶりものだってしないし、人前にも出る。よい夫になると誓うよ。だからぼくを選んで……」
否定しようとするのに舞いあがってしまった夫は聞きもしない。情熱的な懇願を次々と囁かれて、処理量が限界を超えた。
愛をはぐんできたとは思っていたけれど、いつのまにこんなにも大きく育っていたのだろう。
涙をこぼすことだけは耐えながら、シエルフィリードは唇をひき結んで震えている。
テオドシーネはやさしく腕をまわして抱きかえした。
「わたくしにはシェル様しかおられません」
「……本当に?」
「はい。シェル様とずっといっしょにおります。結婚したでしょう? わたくしたち。受理されていなくとも、誓約書は本物です」
「テオ……」
「シェル様」
テオドシーネはほほえんだ。
はじめてテオと呼ばれた日。呼びかけることすら難しそうだったシエルフィリードが、いまは自分の感情をこんなに表現してくれる。
扉の外では増えた使用人たちの真ん中で家令が崩れ落ちて泣いている。
そしてシエルフィリードの愛の告白に呆然とする人間がもう二人。
「お前たち…………いつのまに……」
それだけの声を漏らすのがピエトロにはやっとだった。マリリンに至っては完全なる放心状態だ。
いつのまに――それほどの仲になっていたのか。それは疑問ではなく独白に近い。
変人公爵に嫁いだテオドシーネを嘲笑うという計画は、最初から破綻していたのだ。ピエトロはようやく敗北を悟った。
テオドシーネは身じろぎをすると、シエルフィリードから離れた。異常事態とはいえ、人前で抱きあうなどという行為は破廉恥でもある。
けれど、二人のたしかな愛情はピエトロにも伝わったに違いない。
立ちあがるテオドシーネに手を貸して、シエルフィリードもまた立った。
「ピエトロ様。〝変人公爵〟など、どこにおりますか」
まだ多少、頼りない部分があるのは認めるけれど。
「人は、変われるのですよ」
テオドシーネの笑顔に、ピエトロはまぶしそうな表情を浮かべた。
***
魂が抜けてしまったピエトロ&マリリンは、幽鬼のごとくなった身柄を王都まで送りかえされた。
しばらくしてから、王位継承権が第二王子に譲られるという噂が伝わってきた。遅れること数日、その噂は国王陛下からの親書によって肯定された。
クイア家から戻ったピエトロは数日のあいだふさぎこんで部屋から出てこない有様であったが、姿を見せた際に自分から王太子の立場を返上すると告げたという。
国王陛下は王家の領地の一部をピエトロの直轄領とすることに決めた。
その領地の場所がクイア家領の隣であるため、シエルフィリードは、
「まだテオのことが好きなんじゃないかな……」
とものすごく心配そうな顔になっていたが、それはない。学問をするなら手伝うと言ったからそのせいだろう、とテオドシーネは考えた。
けれどもマリリンもピエトロにつき従ったと聞いて、自分とピエトロのことは笑い飛ばしたくせに、こうなると不安になるから恋は厄介だ。
「マリリン様は、シェル様に会いたいのではないでしょうか……」
「どうして? あの娘さん、ぼくのこと見ておびえてたよ……はぁ。やっぱりかぶりものは取らないと。王都の人たちにテオの旦那が変人だって思われちゃう」
もう十分に思われているのだが、それは黙っておくことにする。
変人公爵に変化が訪れたことを、いずれ王都の人々も理解してくれるに違いない。ピエトロのように。
「そうですね。たくさんの人をお招きして、結婚式を盛大にするのはいかがでしょう。そうすればシェル様のお変わりようを知らせることができますわ」
「……うん」
提案してみれば、シエルフィリードはうなずきつつも視線を泳がせている。
テオドシーネは笑いを漏らした。
「いいのですよ、シェル様のお気持ちがおちついてからで。わたくしが幸せなことには変わりませんわ」
「奥様は旦那様に甘すぎます!」
隣で帳面をつけていた家令が声をあげた。
しかしその顔はいまにも泣きだしそうにゆるんでいる。家令からしてみれば、主人の結婚式など、見られる日がくるとは思わなかったほどの奇跡なのだ。
くすくすと笑うテオドシーネの向かいで、シエルフィリードは眉を下げた。
「……でも、きちんとやりたいと思っているよ。ユフ侯爵家の皆さんにも挨拶をしないといけないし、領内の民にも、王都の人々にも……テオがぼくの妻だって、言いたいから」
顔を赤く染めながら、シエルフィリードは言う。
その口調にわずかな独占欲とピエトロへのライバル心を感じとって、テオドシーネは笑顔のまま硬直した。
シエルフィリードのつつましくて穏やかな愛情は、テオドシーネにとっては砂糖に沈みこむほどの甘美さをもっている。
――いつか、テオドシーネを甘やかせるくらいの男になる。
シエルフィリードの願いが叶う日は、遠いようで、もう訪れているのかもしれない。






