37話 『クルオシイホドニ』
ぴちゃん、と水滴が頬に垂れる。
それだけで俺の体が覚醒するには充分だったようだ。目を覚ました俺は、なかなか開かない目を強引に開けて、周りの状況を確認する。
「――あ……?」
どうやらここは洞窟のようだ。冷えた空気が肌に触れるたびに、寒いと感じてしまうのは致し方ない事なのだろう。
体を動かそうとすると、自分の体が変な体勢になっていることに気付く。
両手首が縄で繋がれており、動かそうにも動かせない。引きちぎってみようと努力するも、強情で強固な縄目が俺の手首を放そうとしない。
このままでは俺の手首がなくなってしまうと判断し、中断することを決意する。
「何が……どうなってんだ?」
俺はたしか、リーシャを探していたはずだ。それなのに、どうしてか、この場所にいる。
最後の記憶を手繰る。
静謐が満ち満ちた森。
陽光を反射する水面。
情けない顔をした男。
少女の不気味な笑顔。
「っ……! そうか、俺は……」
「起きたんだ。おはよう、お兄さん」
不意に声を投げられる。
それに心臓が跳ねた俺は、目を見開いて声のする方へと視線を向けた。
カツ、カツ、と足を鳴らしながら歩いてくる少女。にひっ、と愛らしい笑顔を浮かべる姿は、まるで何処にでもいる町娘のようだ。
しかし、俺は知っている――
「わたしにする? それとも私にする? もしくはワタシ?」
「なんだその三択……」
「答えてよ〜」
無邪気な声を出す少女を、俺は睨みつける。
気持ちを切り替える。
「で、これは何の冗談だ。場合によっちゃ」
「場合によっては、何? ここには誰も来ないよ? 誰も来ないよ? あなたと私だけだよ♡」
ヒュッ、と息を呑む音がした。
それはどちらの音だったのか。いや、おそらく俺が出した音だろうが、しかしそれがわからなくなるほどに頭の中で情報が錯綜していた。
誰もいない。誰も来ない。俺と少女だけの世界。
彼女が何の目的で俺を拉致、監禁しているのかはわからないが、しかし一つだけわかるのは、俺が圧倒的劣勢の位置にいると言うことだ。
両腕は固定されて動かない。
力で勝ろうとしても、今の状態では出発点にすら立てないだろう。
状況を理解し終えた俺は、少女に目を向ける。
「なんで、こんなことをした?」
「なんで? 決まってるじゃん。――あなたを愛してるからだよ」
――は?
「あい、して……。……は?」
「わからないの? 私はあなたの事が好き。だから、拐っちゃった」
「なん……。は? え、俺とお前って、初対面もいいところだった……」
「うん。一目惚れ」
それを聞いて、俺の背筋は凍った。
いや、凍ったのは背筋だけではないだろう。体も、頭も、思考も止まった。
「ちょっと、何言ってるのか、わからない……」
「わからない? なんで? 簡単じゃん。運命だよ。運命が私たちを引き寄せてくれた。だから私はあなたと出会い、あなたと恋に落ちて、あなたとこうして、2人きりでいれる」
「…………」
「ふふふっ。嬉しい? 嬉しいよね? だって運命の人と一緒にいれるんだもん。嬉しくないわけないよね? お兄さん♡」
仰向けに横たわる俺に、擦り寄るように俺の腰へと手を回す少女は、甘い声で俺の耳を魅了する。
吐息が漏れるたびに俺の首筋を擽る。彼女の甘い匂いが俺の鼻腔を擽るたびに、俺の心は激しく跳ね上がる。
彼女の頬は赤く紅潮していた。嬉しそうに、にへら、と笑う彼女は、俺以外を見てはいない。
(――恐い)
それは直感が告げた恐怖だった。
逃げ出すことは不可能。
目を逸らすことも不可能。
そんなの、ただの絶望じゃないか。
狂気。
その言葉がこれほど似合う人間を、俺は生まれて初めて出会ったのかもしれない。
「うふふふっ! 怖がらないで? 恐がらないで? お兄さん。私は何もあなたを害そうとしているわけじゃないの。むしろ護ろうとしているの! あなたに近づく虫は排除して、あなたを害する敵は殺戮する。それが私があなたに向ける、愛、なの。だから怖がらないで? 恐がらないで? 私があなたを守ってあげるから」
「……」
逃げ出せるなら逃げ出したい。
けれど、逃げ出した後、俺はどうする?
俺は何も知らない。何も知れない。
故に、俺は救われない。
「っ――」
「ふふっ。ふふふふっ……。あなたはずぅっと、私だけのモノ。誰にもやらない。絶対に。ずっと、ずうっと――愛シテル」
――クルオシイホドニ。




