Side.D 桶狭間の戦い
永禄三年5月19日、雨。
激しい雨と風が吹き荒れる嵐の中、2千の兵馬が途轍もない速度で泥濘んだ泥道を駆け抜けていた。
兵は神速を尊ぶというが、泥に馬の蹄を取られる泥道を駆けるのは、馬にも人にも被害の出る無茶な行軍だ。
そんな無茶を押し通らせ、義元本陣のみを狙う無謀な作戦を決行している。
しかしその無茶、無謀を通さなければ、寡兵2千で大軍2万を制することは出来ない。
「急げ、急げ! この嵐こそが絶好の好機! 義元を討つ大功を得るは今ぞ!」
信長の近くで馬を駆る佐久間の激励に応え、周囲の兵卒達が『応!』と返す。奮起する兵達の様子を見た信長は、発破を掛けた佐久間に声を掛ける。
「佐久間! 義元は誠に田楽狭間にて布陣しているのだな!?」
「はっ! 水野に寝返らせた者の言によれば、海道一と呼ばれたのは今は昔の話! 奴は現在肥え太り、騎乗時には馬に無理をさせる始末故に、定期的に休息を取っていると! 田楽狭間での布陣も、雨天との兼ね合いもあってが最大の理由かと!」
「なるほど。論理的な解、見事である! なればこそ急ぐぞ! 奴らは間違いなく油断しておる!」
そして馬に鞭を打つ。
さらに加速する信長に、その時の家臣兵卒は付いていくのがやっとであった。
ーーー
「いたぞ」
田楽狭間の険しい細道。今川家紋の今川赤鳥が、嵐の強風に吹かれるのが見えた。
台風の最中に出陣した故か、大軍を用意してきた今川軍は統率を取るのに苦労しているようだ。
風神雷神を恐れる者も多いというに、梅雨前線真っ只中の時期に出陣すれば、洪水被害で兵が慌てふためくのも仕方のないことだろう。
「……まぁ、それは此方にも言える話だが」
風に吹かれ雨に濡れ、ここまで引き連れた織田の精兵も凍えてしまっている。
恐らく体力面では休息を得ている以上、今川軍の方が高い。この風雨の中での戦いなど自殺行為に等しい。
だがしかし、冷めやらぬ高揚感だけは負けていない。士気の差では間違いなく圧倒的。勝つならばこの刹那、この瞬間を突く他ない。
「行くぞ者共! ぶくぶく肥えた駿府の豚に、己が贓物を喰らわせてやれ!」
「「「応!」」」
そして歴史に残る大番狂わせ・桶狭間の戦いの火蓋が切られるのだった。
ーーー
「狙うは大将、義元の首ただ一つ! 掛かれぇ!」
ザアザアと雨音響く田楽狭間は、号令一つで地獄の様相へと変わった。
地獄の鬼も斯くやとばかりの形相で今川赤鳥に襲いかかる織田木瓜の人波は、さながら嵐に吹かれ押し寄せる大津波のよう。
雨の中を進軍してきたとは思えないほど、鬼神の如き様相で攻め来る織田軍に今川軍は混乱に陥った。
「な、なんだあ! 何が起きておる!?」
「織田じゃああ! 織田の木瓜じゃあ!」
「信長の……尾張のうつけの奇襲じゃああああ!!」
今川方の阿鼻叫喚の中を信長は駆ける。
義元がいるとしたら本陣の奥も奥。ここまで肉薄できて首を取れないはない。
このまま上手く事が運べば勝利も夢ではない。この桶狭間での戦いは、寡兵で大軍を破ったと後世で讃えられることだろう。
「久野元宗討ち取ったりい!!」
「松井宗信が首はワシのモンじゃあ!」
「な、なんだ!?」
「足が、足が取られて動けん!」
(憂いはない。上手すぎるほど事が運んでいる)
次々と今川軍の名だたる武将討死の報が流れてくる。負ける要素はない。ある一点を除いてない。
故に、懸念点は一つだけ。
(義元左文字……)
筑前博多の刀工によって鍛造された、『すべてを薙ぐ』と伝わる宝刀。
熱田神宮の住職に曰く、其の刀は敵も味方も容赦なくすべて薙ぐという。
(眉唾物の逸話だが、火のないところに煙は立たぬ。相対した際には最大限の警戒を――)
――ぞわっ
敵味方入り混じる乱戦の中、義元を探す信長の背筋に悪寒が奔る。
「な、なんでおじゃるか! 何が起こっているのでおじゃるか!」
それは馬を駆る自分より背後の位置。陣地左側の陣幕の中から出て、一振りの刀を構える巨躯の男が立っていた。
京貴族のような白塗りの顔面に怒りを滲ませ、遠目に見たら肥満体型にも見える筋骨隆々の体躯に立ち向かっているのは、馴染みある無精髭を蓄えた槍使いの男。
「又左!?」
前田又左衛門利家。
信長の寵愛していた十阿弥坊主を、当の信長の目の前で一刀両断にしたかつての小姓。
勇猛果敢で疲れ知らず。かつて大うつけと呼ばれた自分に、背格好をも合わせて付いてきた槍の又左が、義元を前に立ち向かっていくのが見えた。
「あれは……?」
人の手のような形の土の橋が、義元のいる陣に向けて伸びていた。
その道の対岸には藤吉郎と見知らぬ男。又左、サルと共にいるということは、まさか、あの男が――
「おおおおお!! 義元覚悟おおお!!」
「ちっ……やむを得ん!」
その瞬間を、その場の誰もが気付いた。
義元を中心に変わった空気に肌が痺れ、雨粒が当たるたびにヒリつく天変地異。
神秘、妖術に疎い信長でさえ生存本能で感じ取れる恐怖。畏怖。相手を怖れる言葉すべてが相応しい災害が、義元の手に握られているのがわかった。
(あれが、義元左文字……)
遠目に一見すると何の変哲もない刀。しかし目を凝らせば一切曇りのない素晴らしい刀身がありありと見える。
刀剣集めを趣味としている信長からしてみれば、一目見て喉から手が出るほど欲しい物だとわかった。
しかしそんな信長が目を奪われたのは、義元左文字の美しい刀身ではない。
その刀身に浮かび上がった緑色に発光する、さながら龍がぬらぬらと蛇行して飛んでいるような紋様だった。
「何だあの紋様は……」
「【魔刀錬鉄】」
聞き慣れない単語。
しかしその後の変化は火を見るよりも明らかに、はっきりと信長の瞳に映し出された。
「【義元左文字】!」
義元が刀を振るうと、その線をなぞって荒れた風が凪いでいった。
なるほど。あれが住職から伝え聞いた、すべてを薙ぐという刀か。切れ味故か、或いは妖術の類のそれか。
いや感嘆の意に耽っている場合ではない。
このままではあの喧しい又左衛門さえも、永遠に黙らされてしまう。それは不味い。
「やめろ止まれ又左! 突出すれば奴の格好のーー」
「残念。諸共ぶっ飛ばす」
それまで何故、己の目にそれが入らなかったのか。信長は自身の不覚を恥じることになる。
五尺六寸の巨躯を持つ又左すら優に越す、土が盛り上がって出来たでいだらぼっち。
その背中に乗るのは一見すると普通の少年。槍も刀も弓も持たず、藤吉郎や又左と共にこの桶狭間に姿を現した軽甲冑の男だ。
『ほぅらご覧。あれがキミの探し人――』
何処からか聞こえる、いつか聞いた少年のような声。
そこには居ないはずなのに、まるで信長のすぐ隣で指を指しているかのように。
その声は艶やかに、さながら愛しい人を呼ぶ女子かのような優しい声音で、彼の名を答えた。
『嘉瀬アキラだ』